78「ジャスティン問題」
「はあああっ?」
アイリーンがいつになく素っ頓狂な声を上げたのも無理はなかった。これには大きな誤解がある。この世界の貴族社会において主人が自分に仕える侍女に対して「自分のためだけに紅茶を淹れてほしい」という有名なセリフがあった。
これはもとを正せば王都で流行った舞台劇における有名な俳優のセリフである。
御多分に漏れずロムレス王国でも文化の中心地は首都であるロムレスガーデンであり、そこから発せられた流行はやや遅れて地方に伝播することが多く、このセリフ自体王都ではすでにすたれはじめており、歌劇などには興味のない少年であるカインには知る由もない言葉であったが、地方であるカルリエでは意味合いにおいては主人からメイドに贈られるベスト3に入るほどの定番な愛の言葉として膾炙していた。
「そんな。だってカインさまが。なにかの間違いでしょう?」
「このすかぽんたーん! アイリーンがボケボケしてるから先を越されちゃったんじゃないのよ!」
「むむむ」
「なにがむむむだ!」
リンダに激しく突っ込まれてもアイリーンは唸るのをやめることができなかった。
「遊んでいる余裕があるのか? 私としても今回の真偽は確かめておいたほうがいいと思うのだが」
ジッとスカーレットに見つめられる。だが、アイリーンは彼女の中に威圧よりも焦りのようなものを感じ、胸の奥がざわざわし出す。
「ほらぁ、スカーレットもそういってるじゃない! このままじゃアタシたちアイリーン派閥の危機よ! アイリーン、派閥の領袖としてジャスティンに本当かどうか問いただしてきなさいよ」
リンダがピョンピョン跳ねながら「きいいっ」と叫ぶ。
「え、いつの間に派閥ができてたの? しかもわたしがリーダーって決定?」
「アイリーン。今回だけはリンダに賛成ですわ。このままではジャスティンのようなぽっと出にわたくしたちの屋敷での地位が奪われてしまいますの」
ガートルードが自分の髪を苛立たしそうに指先で弄びながらいった。
「ほらほら、アイリーン。かのガートルードさまもかように仰せられているでしょ! もおおっ。ああ、もういい。こうなったらアタシが直で聞く!」
「え、えっと。リンダ?」
――だったら最初からそうしろよ。
と思わなくもなかったアイリーンであるが、さすがにカインの寵愛を受けたと拍手喝采しているそれほど親しいとはいえない他グループにズカズカ踏み込んでゆく勇気はアイリーンになかった。
「どうせ嘘に決まってる。アタシがジャスティンの欺瞞をズバンと暴いてあげるわ」
ジャスティンを囲んで快挙だなんだと誉めそやすメイドたちの集団をかき分けながらリンダは力強いストライドで進んでゆく。アイリーンたちもその背中を恐る恐る追って遠巻きにして息を呑んで様子を見守る。
仲間に囲まれながら椅子に腰かけていたジャスティンの前にリンダが立った。
なにがはじまるのかと周囲のざわつきが一瞬凍りついたように止んだ。
「あ、あのさ。カインさまに求められたってほんとう……?」
それまでの自信満々な態度とは打って変わってリンダは腰を引き気味にして手で後頭部を触りながらへこへこしたおもねるような口調で尋ねた。
勢い込んでいった割にはあまりの落差にアイリーンはずっこけそうになった。
「ええ、事実です」
ジャスティンはすでに第一婦人たる余裕のようなオーラを全身から醸しながら鷹揚に応じた。
「で、ですよねぇ」
リンダはへこへこしながらジャスティンから離れるとアイリーンたちの元へと戻ってきた。
「……ダメね。格が違いすぎる」
完全に尻尾を巻いた状態のリンダはどこか悟り切った表情で遠くを見ながら呟く。
「このヘタレ!」
「なにをやっているんですか!」
「口だけ番長!」
同胞たちが口々にリンダを責めた。
「ううう。だってだってぇ、なんかこわいんだもぉん」
「もぉんじゃない!」
「カワイコぶるなっ!」
「ぶってんじゃねぇ!」
「ひぃーさんざんだよ」
(アホらし……)
「あ、我らの期待の星アイリーンさん、いずこへ」
「直接カインさまに聞いたほうが早いよ。第一、ジャスティンが勘違いしてる可能性が高いし」
「ほうほう」
「これまた余裕の発言」
フランシスが唇を尖らせた。
「なっ。別に、そういう意味じゃないよ。ただ、カインさまはまだあのご年齢よ? ジャスティンがカインさまの発言を拡大解釈したって考えるほうが普通じゃない?」
「でもでもぉ。ジャスティンはカインさまに毎日紅茶を淹れてくれと、例のセリフをいわれたわけですよ?」
ジェマがアイリーンの肩をツンツンとつつく。
「うっ。それもすべて聞けばハッキリするでしょう」
「いや、ハッキリすればでジャスティンもかあいそうなのは間違いないんだけどね」
リンダが他人事のようにいった。
「ううっ」
チラリとアイリーンがジャステインを見ると、仲のよいであろう同胞たちに囲まれて祝福を受ける彼女はまるで長らくの恋が実ったかのように幸福そうな表情をしていた。
――それをすべてぶち壊すと宣言しているようなものである。
リンダの指摘に胸がチクリと刺されたように痛んだがアイリーンもカインの一番を譲るわけにはいかないという確かな思いがくっきりとした輪郭をもって姿を表していた。
「で、本当のところをカインさまから直接お聞きしたいと思い参上仕りました」
「いやいやいや。いきなり現れてなんの話をしているんだ」
カインは真剣な面持ちでメイド仲間を引き連れ仁王立ちするアイリーンに目を白黒させて自分の頭に手をやった。
「つまりはかくかくしかじか、と、そういうことか」
「まるまるうまうまです」
カインとアイリーンは互いの顔を見つめあいながらフンフンとうなずく。
「あの、カインさま。アイリーンとはそれだけで通じるのでしょうか?」
「……いや、軽い冗談だ」
カインは調子に乗っていつもの調子でアイリーンに諧謔じみたやり取りをしてしまい、それを至極冷静にスカーレットに突っ込まれて赤面した。
「ま、冗談はさておきだ。おまえたちがいう芝居の文句が流行ったことは知らなかったわけでもないが、そのように将来を誓わせる他意がなかったことは事実だ。折を見てジャスティンには話して聞かせるかおまえたちは安心して各々の仕事に戻れ」
「そ、そうですよねっ。カインさまにそのようなことはまだ早いですものね!」
「わ、わかったから。ち、近い」
勢い込んでアイリーンが鼻先に届きそうなほど顔を近づけてくる。
「近いっての!」
「わ、わわわ。すみません」
我に返ったアイリーンはメイドの仲間たちのしらけた視線に気づくと激しく動揺し、踊るような手ぶりをすると列に戻ってわざとらしく「こほん」と咳払いをした。
「それではよろしくお願いいたします。カインさま、このことを放置していては屋敷の秩序を乱すことになりますので」
ガートルードが念押しするようによく通る声を響かせる。
「……時間があったらな」
メイド一同が一瞬目をまん丸くして、それから非難するようにカインを睨んだ。
不貞を疑われた亭主のようであるとカインはがっくり肩を落とした。