77「悩みの種は尽きず」
カインはこのようにして作り出した石灰をただ撒くだけではなく、独自に調合してボカシ肥料の作成にチャレンジしていた。
ボカシ肥料は有機質肥料である。原材料は小魚や魚カスであり、これらをそのまま土壌に施すと養分が豊富すぎて生育障害を起こすことがある。
単純にいえば、山野に住む鳥獣からしてみれば格好の馳走でありハエや野ネズミを呼び寄せることとなってしまい、衛生的にも危険がある。
そのためにはこれらの有機質に肥料や堆肥を混ぜて、菌が死滅しないよう四十五度から六十度を保って切り返し「ボカシ」という発酵作業を行う必要があった。
作り方は特に複雑で特別な技術が必要なものではない。土、鶏糞、油カス、米ヌカ、過リン酸石灰、くん炭などに水を加えて積んでおき、十日ほどで発熱したら切り返して、三カ月程度発酵させる時間をおくだけだ。
カインはこれらの発酵調整の部分に錬金術を使用して時間を縮め、またたく間に相当数のボカシ肥料を作ることに成功した。
(どうでもいいけどボカシってなんか卑猥な言葉だよな)
家人たちがカインが錬成した肥料を運ぶさまを見ながら特に意味もなくそのような思いが頭に浮かぶ。
「……いかん、疲れているのか」
空を見上げる。
冬にはあれほど早く日が落ちていたのだが、近ごろはかなり夜までに余裕があった。
春を感じる。
――スギ花粉が舞っていないのもこの世界の救いだな。
転生前のカインは重度の花粉症であった。
「ちょっとだけ休む。あとは頼むぞ」
カインはそれだけいい残すと、いささか昼寝と呼ぶのに遅い休憩を取るため屋敷の自室に戻った。
――お戻りになられたばかりだというのに、お忙しいこと。
メイドのアイリーンははしたないとわかっていながらも、小走りになりながらも自分たちの居住区を目指していた。
(なんやかやとカインさまはお仕事がたくさんあるのであまりお話もできていないし)
城中で切った張ったが起こり、ようやく屋敷に帰還したと思えば、すぐさまその足で領内のあちこちを回った末に蛮族討伐と来れば忠実なるしもべであるアイリーンの気は休まることがない。
――とはいえ、一方的にカインさまを責めてもはじまらないし。
(ここはひとつ、以前褒めてくださったアップルパイでも焼いて差し上げましょう)
午前のこまごまとした仕事を手早く片づけた余勢を駆ってカインに自己アピールをしようとは自分も大胆になったものだ。
カインが留守の間に考えた。アイリーンは自分の気持ちをメイドの仲間たちがいうように、もっと前面に押し出してみようと張り切っていた。これは今までにない感情の大きな変化である。
主人であるカインは、常に自ら危地へ赴き、問題解決に邁進する。ひとりの領民としては幼いながらも誠実で信のおける立派な領主であると単純に感心できるが、主従というくびきを取り払いひとりの女としてみれば、これはもうなんといっても主人の身の上がいつ儚くなるかわからないということだ。
今年で十一歳になった主はいまだ少年の域を脱していないが、彼がカルリエにやってきてからの功はあらゆる階層の人間が認めざるを得ないものだ。
(お母さまがおっしゃっていったわ。男は一人前の仕事してやっと男であると名乗れるのだと)
そこに年齢は関係なかった。
カインの功績は彼をただの都からやってきたお飾りの少年ではなく名実ともにカルリエの地を収めるにふさわしい傑物として周囲に認知させたのだ。
そして、先日の鉱山における蛮族討伐とカインを慕って屋敷までついてきた多数の騎士たち。
パラデウム派を追い払い、多数の豪傑を魅了してやまない生きた英雄の姿は、今までなんとなく遠目で見ていた屋敷のメイドたちを残らず誘引したとしても当然である。
「おめでとー」
――ん?
だとしてもアイリーンはどこか自分だけがメイドたちの中でもカインから特別に目をかけてもらっているという自負があり、それは大いなる自信と余裕だった。
メイドたちの居住区画にある共有スペースの中央でちょっとした騒ぎが起きていた。
アイリーンがとまどいながらその中心人物に目を向けると、そこにはジャスティンが特別親しい同輩たちに祝いを述べられ、目元をしきりに拭う姿があった。
こうやって見る限り、その集団はジャスティンを祝っているようであった。アイリーンが好奇心に駆られてそちらに行こうとするとスカートの裾を強く引っ張られた。
「と、ととと。誰、危ないなぁ――ひ!」
「ぎぎぎ」
「わ、どうしたのよ、これは」
アイリーンと親しいリンダがハンカチを噛みながら、ジャスティンを「囲む会」を悔しそうに遠巻きにしている。
「どうしたもこうしたも、ないっ。アイリーンがぼさっとしてるから月夜に釜を抜かれちゃったじゃない!」
リンダがあまり周知されていないことわざを使って叫んだ。
「え、なに? なんで月夜にお釜の底が抜けるの?」
「明るい月夜に釜を盗まれるっていう間抜けさを表現した慣用句よ!」
リンダは金色の髪を左右にぶんぶか振ると噛んでいたハンカチを「囲む会」の群衆へと投げつけた。
「え、ええと、意味がわからないんだけど。ちょっと落ち着いてよ。ねえ、みんなどうしたのよ? ジャスティン、彼女なにか実家でお祝いごとがあったの?」
「いや、なんというか。私も複雑な心境だ。いうなれば伏兵に脇腹をいきなり刺されたような」
いつもは冷静なスカーレットも険しい表情でジャスティンたちを見つめている。ただごとではない様子にアイリーンはわずかに身体を強張らせた。
「なによスカーレット。物騒ね」
「ジャステインだ。彼女だよ」
「は?」
「……ジャスティンがカインさまから正式に側室になれと命ぜられたそうだ」