118「強運」
メリアンデールは自分の身体が浮いているのにふと気づいた。
目の前の空が蒼い。
先ほどまで泣き続いていた漆黒の雲が去り、空には真っ白な雲がどこまでもたなびいていた。
――そういえば、決壊した濁流に呑み込まれたはず。
「気がつかれましたか」
女の声によって現実に引き戻された。
「こ、ここは……」
視線を動かすと、ローブを着込んだ小柄な女が狭い足場に片膝を突き、メリアンデールの様子を心配そうに窺っていた。
「起き上がらないでください。いま、岸に着けますから」
上体をなんとか起こす。
メリアンデールはようやく自分が巨大な生物の背に乗って水上を移動していることに気づいた。
「ひ!」
「怖がらないでください。この子はとても気性は穏やかなので」
それは巨大なゲンゴロウであった。
メリアンデールは小柄な女にしがみつくと、ようやくそこで弟のことを思いだし甲高い声で叫んだ。
「あのっ。カインくんは、わたしの弟を知りませんか!?」
「いえ、わたしが見つけたのはあなただけで。カインさまのお姿はどこにも……」
「そんな」
メリアンデールは頭を抱え込むと、その場に突っ伏した。ゲンゴロウの背はひやと冷たく、それが自分が助かったことを実感させ、泣き出したいような気持になった。
「メリアンデールさま、ご心配なさらずに。あのお方はこんなことくらいでどうにかなってしまう人ではございません」
「あの、失礼ですが、あなたは……?」
「カインさまに深くご恩を受けた、卑しい身分の女です」
「すみません、迷惑ついでにお願いできませんか」
「なんでしょうか」
「弟を、この土地の領主を探すのを手伝ってください。ここには彼が必要なんです」
小柄な女――蟲使いのユージェニーはふわりと薄く笑うと、舌を鋭く鳴らして岸に向かうのをゲンゴロウにやめさせると、再び進路をもと来た場所へと変えた。
「カインくん、お姉ちゃんが絶対に助けてあげるからね」
――絶対に弟を無傷のまま見つけだす。
成功させる予感がメリアンデールには濃厚にあった。萎えかけていた気力は綺麗さっぱり彼女の内から蒸発し、瞳には強い力が宿っている。
蒼天に広がるわた雲を追うようにメリアンデールとユージェニーを乗せたゲンゴロウは気持ちよさげに水の上をすべっていった。
完全にダメだと思っていた。
濁流に押し流されながら、かろうじて下流の藪にある折れた樹木にひっかかり一命を取り留めていた。
全身は泥のように疲れ切っているが、不思議と打ち身や切り傷がひとつもない。
川の水量は普段よりも多いが、この程度ならば危険性はないと感じ取れた。
呻きながら樹木を伝って岸まで這い上がり、身を土の上に横たえた。
――天がおれに生きろと告げている。
そうでなければ、あの状況でカインが助かるということは考えにくい。
姉の姿がいまこのそばには見当たらないが、カインは不思議と悲観的にはならなかった。
「おれが生きてるんだ。あのじゃじゃ馬娘が助からないなんて法はないだろう」
今回はツキがあった。
雨が予想以上に早く上がらなければ、あれ以上に増大した水量でカルリエ盆地は水の底に沈み、それこそカインの想定外上の経済ダメージを土地に加算していっただろう。
「勝つ。おれは自然と戦って、勝ってやる」
立ち上がる。
膝がガクガク笑うのは錬金術を行使し続けた疲労であり、このようなものは時間と共に回復するだろう。
――水竜を必ず御してやる。
立ち上がったカインの瞳には敗北の色は微塵もなく、ただただ前を見据えて進むことを決意したしぶとさが鈍く輝いていた。




