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117「豪雨」

 それは本能的なものだった。

 代々、錬金術士の家系であるカインは土に慣れ親しんでいる。ぽつりぽつりと降り出した雨に、感覚的なものであるが、土が混じった臭気を感じ取ったのだ。


 土の鼓動が妙な蠕動をはじめている。


 ――危険を感じ取れ。


 足元の大地がカルリエの血を引くカインにそう告げていたのだ。


 駆ける。

 カインは鈍重ではない。

 同年齢と比べれば速い部類であるが、俊足のリースとライエに瞬く間に並ばれた。


「ライエは屋敷に向かってジャン殿に念のため村の人たちを避難させるよう伝えてくれ」

「はいっ」


 堤に到達したカインは雨に打たれながら川を覗き込みぶるりと身体を震わせた。

 予想以上に水量が少ない。


 降りはじめた雨はますます勢いを強めているというのに、ディーバ川の流れは普段と比べてたいした変わりはないのだ。


 おかしい――なにかがおかしい。


「カインさま、寒いのですか?」


 雨に濡れそぼったリースに指摘されるまで気づかなかったが、カインはまるで瘧にかかったように歯の根が合わぬほどガタガタブルブルと震え切っていた。


「川の流れはそれほどでもないようですが……」

「嫌な臭いがする。リースはこの臭いを感じないのか?」

「におい、ですか?」


 リースは目を閉じてふんふんすんすんと犬のようにカインがいうおかしな臭気を感じようとするが、強まった雨脚のせいもあってか困ったような顔をするだけだった。


「わかりません。すみません」

「ただの勘で間違っていればいいが。私は山のほうが気になるんだ」

「はい、それでは急ぎましょう」


 リースがあたりまえのように強く同意したのでカインはわずかにたじろいだ。


「まったく疑わないんだな。私の気のせいで、無駄足になるかもしれないんだぞ……」

「わたしはカインさまを信じておりますから」


 そういってリースは額に張りつく濡れた前髪を手で撫でつけながら微笑んだ。


 ――まったく、おまえというやつは。


「せいぜいリースをガッカリさせてやるか!」

「そうしてくださいな」






 ディーバ川の上流でカインたちが目にしたものは、山からの土石流で堰き止められた、自然的な堰であった。

 自然のダムは広大なディーバ川を堰き止める格好で濁った水を満々と湛えていた。


(この大雨で溜められた水が決壊すれば間違いなく堤は切れる)


 ――考えろ、考えるんだ。まだ時間は若干残されている。


 傍らが妙に静かだ。

 視線を向けると、そこには自然の膨大な力を目にしたリースが蒼白な表情で立ち竦んでいた。

 無理もない。


 カインもなんら責任のない一介の男であれば、なにもかもを捨て去りこの場から遁走し、すべてを忘れることに腐心していただろう。


 それくらいに突然の風雨により発生した大水は視覚的イメージにも強烈に訴えかけてくる暴力的なものであった。


「リース、落ち着いてよく聞け。この堰き止められた水が決壊すれば限界まで溜められたエネルギーは、まず間違いなく堤を切る。大水が出れば、付近の村々は中州にあるだけあってまず被害を免れない。おまえはこの地を去って屋敷に向かえ」


「そんなことできるわけないでしょう!? わたしをなんだと思っているのですか! ここにはカインさまもライエもいるんですよ! このわたしが自分の命を惜しむとでも思ったのですか!」


「落ち着け。そういうことをいっているんじゃない。私もみすみすこのまま決壊するのを黙って見ているわけじゃない。だが、村々の被害が甚大だろうが小さかろうが、どちらにせよ人手は必要だ。セバスチャンにこのことを伝えて、南北東西の守備兵を最低限にしてでも人員をカルリエ盆地に集めるよう伝えるというのはおまえにしかできない役目なんだ」

「カインさま……」


「水が出れば多数の人死にが出る。村が水で流されればインフラの復興には金も衛生材料も食料も建築用資材も山ほど必要だ。はは、いまのカルリエの懐にはきついが、みんなを助けるにはみんなで協力しなければならないんだ。わかるな」

「そんな、カインさまぁ……」


 クシャクシャにリースが顔を歪めた。雨であるか涙であるかは判別できぬほど濡れそぼっていたが、リースは自分の顔を平手でぱしゃんと叩くとすぐに気持ちを切り替えたようだった。


「わかりました。ひとつだけ約束してください」


 リースの眼。

 その眼差しはカインを射抜くように強い力が込められていた。


「絶対に死なないでください。あなたさまを失えば、すぐさまあとを追わせていただきますから」


 短剣を鞘走らせるとリースは自分の細首に当ててスーッと引いた。


 真っ赤な血が流れて雨にほどけ、傷口は薄い朱線となった。


「死なないよ。私にはまだやることがたくさんあるからな」


 ――くたばっている暇は、カインにはこれっぽっちもないのだ。






 上流の山からカインが転がるように駆け降りて里に戻ると、村人の避難誘導はいまだ終わってはいなかった。


「なにを、やっているんだ……」


 視線を向ければジャンや家来たちが必死になって中州同然の村々にいる人々を避難させているが混乱に陥った衆を的確に誘導するのは酷く困難であり、短時間ではやはり不可能に近かった。


「まだ避難は終わらないのか?」

「若い者たちはなんとか逃がしたのですが、年寄りたちは頑固に居座っており、もうどうにもならんのです」


 怒号と絶叫が村々にあふれていた。見れば、ユメルの集落に隠れていたはずの女衆も、家から家財道具を運び出そうとしており、避難行動は遅々として進んでいなかった。


「荷物はすべて捨てさせろ! 逆らうならばこの剣で斬るといえ!」


 カインは領主代行の印綬を長剣に括りつけるとジャンに手渡した。


 ジャンはカインの剣幕と印綬の重みに首を垂れると巨体に似合わぬ素早さで行動に移った。


「カインさまのおいいつけどおり我らは一刻も早くこの地から避難せねばならぬ。自儘にて命に逆らい流れに逆らう者はこの剣で斬って捨て、九族まで滅びると思え」


 凄まじい形相で吠え立てるジャンは巨体を震わせながら長剣を天に高々とかざした。

 村人の動きが早まる。


 これを見届けたカインは上流から押し寄せてくるであろう堤へと急いだ。


「なんだよ、これは……」


 堤の上に立ったカインは山の方角を向いてその場に固まった。


 真っ黒な土煙を帯びた土石流が地響きを立てて迫っている。

 山津波だ。

 川に近い山が崩れ真っ黒な波濤が迫っていた。


 瞬間的な豪雨で勢いを増したディーバ川の水流は堤を砕かんと、まるで巨大な竜のように強靭な咢を開いて村を呑み込まんとしていた。


 だが、ジャンたちが心血を注いで作り上げた堤は竜の一撃をなんとか耐えた。


 ――持ちこたえられるのか。


 カインは堤をすべり降りると、たったひとりで自然の猛威に立ち塞がる守護神を凝視した。


 天を仰いだ。

 気のせいか、わずかに雨脚が弱まっているような気がする。

 ただの思い込みか、それとも祖先の霊にカインの祈りが通じたのか。


 ――自分にできることはただ祈るだけなのか。


「いいや、違うッ!」


 堤に亀裂が走る。

 濁流の勢いに堤そのものが悲鳴を上げている。

 幸いにも錬金に必要な土はこのあたりにはふんだんにあった。


 カインは堤の壁に両手を当てると憤怒の形相で錬成を開始した。


 削られてゆく堤防へと厚みを重ねるイメージ。

 錬金の構成式が脳裏へと絶え間なく浮かび、カインの両手は白く輝くとたちまち切れそうになっていた堤の亀裂が分厚い粘土を貼りつけたように、隆起し、手当てされてゆく。


 ――おれの錬金術が尽きるか、それとも雨が上がるのが先か、勝負だ。


 大自然に一介の人間が挑むなどそもそもが傲岸である。

 だが、それをわかっていてもなお、領主代行である責任感がカインを衝き動かした。


 全身の血管が引き千切られるような痛みを感じ、限界を超えた錬成のフィードバックは確実にカインの存在そのものを蝕んでいた。


 噛み締めていた歯の隙間から絶え間なく血が流れ出し、口中が鉄臭さで充満する。


 どろりとこみ上げてきた血の塊が喉をせり上がって顎が生あたたかくなる。


 心臓が激しく早鐘を打っている。

 視界が真っ赤だ。

 眼球の毛細血管が切れたのだろう。


 それでもカインは堤の再構成を微塵も止める気はなかった。

 真っ赤になっていた視界が徐々に暗くなってゆく。


 血を吐き出しながら意図的に呼吸を行うと、不意に視界が明るくなった。

 酸素が足りない。


 目の前が暗くなったのは酸素が足りなくなったからだった。

 尽きるわけにはいかない。

 まだ、尽きるわけにはいかないのだ。


 時間を稼がねば。

 みなが逃げる時間を。


 あえぐように肩を上下させながら全生命力を指先に込めた。


 錬成――。

 解き放つ。

 錬成――。

 解き放つ。


 カインは必死になって決壊寸前の堤防を補修し続けた。もっと時間があったらと思う。事前に破れる場所は弱い箇所がわかっていれば、どれだけ時間と金をかけても補強をしておいたはずだ。


 だが、すべて遅すぎた。


 正解がどこにあるかわからないままカインはひたすら堤を補修し続ける。

 限界はない。

 イメージした瞬間に終わる。


 カインは若年にして錬金術の天才といってもよかったが、所詮は人の身で扱う技術である。

 能力には当然果てがあった。


 ――これ以上は支えきれない。


 頭上にある高い堤の壁にはぴしぴしと音を立てて無数の切れ込みが入った。


 フラつきながらも全生命力を錬金エネルギーに変換し続けるが終わりは近かった。


 ――ダメ、なのか。


 あきらめかけた瞬間だった。


「手伝うよ!」


 背後から不意に白く細い腕が伸びカインの腕を支えた。

 メリアンデールである。


「あね、うえ……」


 カルリエの一族であるメリアンデールも当然のことながら錬金術を使うことができ、また、力を温存していた彼女はここぞとばかりに自らのエネルギーを開放した。


 水が染み出していた亀裂が塞がってゆく。

 あとは時間の戦いだった。


 ふと気づくと、五体を打っていたはずの雨の勢いが弱まっている。

 終わりが見えれば気力も湧いてくる。


 視線をときどき天に向けると、あれほど分厚かった黒雲が戦意を失くしたかのようにスーッと彼方へと引き上げてゆく。


 雲の切れ目からわずかであるが陽光が差しつつある。


(しめたぞ。これなら水量はこれ以上増えることはない)


 雨季ではあるが、瞬間的なゲリラ豪雨のようなものだ。

 時間さえあればディーバ川の水竜は落ち着きを取り戻すだろう。


 ――あと、わずかだ。


 と、なれば心残りはメリアンデールのことだけだった。

 彼女はまだ若い。


 自分と同じくこの場で危険に晒し続けることなど男の矜持としてできようもなかった。


「姉上、もういい! 雨は上がる。逃げてくれ!」

「カインくんを残して逃げることなんてできない!」


 そう、彼女が叫んだ瞬間だった。

 全身が総毛立つほど異様な音が堤から発された。


「逃げるぞ」

「あっ」


 カインはメリアンデールの腕を引くと、両掌を鋭く打ち合わせて地面に叩きつけ土の階段を錬成した。


 切れた堤から轟音と共に凄まじい鉄砲水が打ち出された。

 車輪のように両足を回転させて駆けに駆けた。


 わずかでも決壊した堤から解き放たれる濁流から距離を取ろうとした行為は生物としての本能のようなものだった。


 だが、急場しのぎの階段は瞬く間に押し寄せてきた洪水に基部を破壊されて、ぐらりと揺れてみるみるうちに倒れてゆく。


「だああっ。まだだ!」


 カインは土階段に右手を打ちつけて瞬く間に土の船を出現させメリアンデールと共に乗り込んだ。


「大船に乗ったつもりでとはいかないけどなっ」

「これ泥船だよ!?」


 ウォータスライダーをはるかに超える勢いでふたりが乗った船は濁流に押し流され、遥か彼方へと消えていった。




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[一言] 大地の女神から祝福とは? 祝福がハードモード試練の上でならやむなしも、ブラック政務で祝福=昇天な気が…
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