予定通りの大事故
さて、一人残されたこの屋上。彼女は言い訳を考えて下れ、なんてアドバイスをくれたが、俺は毛頭ここから下る気なんてない。
朝から昼へ移り変わるのに従い、太陽が徐々にその高度を上げていた。見つめることさえできないそれが妙にうっとおしく、俺は手で光を遮った。
今一度よく考えてみると、下手すればもうそのまま俺は死ぬかもしれない、らしい。戻った『あちら』でもし俺の意識が完全になかったら、もうアウトだ。だが、そのリスクを理解しながらも、俺はその決断を変えるつもりはなかった。情報を得ることのできる手段が現れたのだ。この機を逃したら、きっともっとひどい状況になる。
たった一つ、繋がった糸。これ以上無用な災いを避けるため、講じることのできるたった一つの手段。さてそれは、あなたに理解できるだろうか。……あなた、ってだれだ。
「さぁ、ちょっくら鉄骨と戯れに行くかな」
四回目にして、すでに俺は大体の感覚を掴んでいた。目をつむると、先ほど見た、あの平行線の集まりが頭の中に浮かび上がる。それらをそっと指でなぞるようにスクロールすると、一つだけどこか見覚えのある直線がそこにあった。
一番最初。まだシャフトシフトする前の世界軸。そこに、俺は飛んだ。
目を開ける。いや、本当に目を開けているのかは確かではない。だが、『目の前』に広がるその光景は、何時だったか見たそれを全く同じだった。いや、少し違う。一回目は、こんなに色あせてなかったし、何よりビルはまっすぐ建って歪みなんてなかった。
雑踏の中、俺はただ一人足を止めている。一瞬だけ視界に入ったすれ違う人々は、俺のことを険悪な目つきで見つめていた。
上を向く。最初から避けようなんて考えていない。俺がしなければいけないことはただ一つ。あるはずだったその世界の流れに、ただ身を任せることのみ。高く聳えるビルの上に、いつか見た黒い人影が一つ見えた気がした。
刹那。視界が完全にそれで埋め尽くされるとともに、右手にわずかな感触がある。その温かさは決して作り物のそれではなく、確かにその場に生きている、人以外の何物でもなかった。
* * *
気が付いて瞳を開くと、見えたのはいつもの風景ではなかった。見慣れた丸形の明かりも、ましてやメイドのかわいらしい顔なんて視界にはない。遠くから聞こえる忙しない足音と、ツンと鼻につくエタノールの匂いが不自然だった。
――知らない天井だ……とか言うべきか?
……あれ?
口を動かしバカげたことを言ったつもりだったのだが、耳にはそんな言葉は一切届かなかった。
状況を確認しようと周囲を見渡そうとするが、いくら力を入れても首は一切回らない。また、体のどの部位もぴくりとも動かずまともに意思に従ってくれるのは二つの眼球だけだった。
――まじかよ。完全に移動も発言も不可能、と。
とりあえず自分自身の意識は保たれていることに安心しつつも、想像以上の悪い状況に辟易とする。状況をとりあえず確認すると、俺はあの鉄骨落下事件に巻き込まれている、ということだろう。だが、よく考えればそうだ。俺は事故の三日後にはもうこの世界からいなくなるのだ。ならば、搬送された病院でぴんぴん歩き回っているわけもない。
頭があまりにも足りない自分を情けなく思いながらも、今更戻るわけにもいかない。もし三山から話を聞ける可能性があるとしたら、あいつが俺の見舞いに来た時、だろうか。しかし俺のほうから尋ねることはできないし、あいつが俺の前で独白するというほとんどありえない状況に掛けるしかない。
では、俺がどうしてこの鉄骨落下事件に巻き込まれた世界に戻ってきたかを話そう。
俺は学校で三山にメイドや平行世界について訊こうとしたが、彼はメイドについてなにも知らないといった。つまり、鉄骨落下事件を回避するため俺がシャフトシフトをしたせいで、俺は三山がメイドと面識のない世界に飛んでしまったらしい。そういうことならば、三山がメイドのことを知らなかったのも説明が付く。
そこで、俺が三山に事情を尋ねるため考えたのが、この鉄骨落下事件に俺が巻き込まれた世界軸へ戻る、という方法だ。この世界ならば三山はメイドについて知っているだろうし、なぜあの日、あいつが俺へあそこまでメイドを推したのかを知ることができる。
まぁ、そこまで考えたのは良かったものの、現状は一切動けない病人という最悪なものである。
その時、腹のあたりでもぞもぞと動く感覚を感じた。俺はそちらを見ようとしたが、首が動かないのだった。残念ながら俺の視線はそのもぞもぞの正体をとらえることができない。
ぴょこりと、視界の下から出てきたのは猫耳だった。もちろん本物ではない。どうやらそれは、パーカーのフードについている装飾らしい。
「圭人、さま……」
人影がむくりと起き上がる。どうやらそれは、俺の腹を枕にして眠りこけていたようだ。丈が余っている袖で目元を拭い、小さくあくびをした彼女は、ふとこちらを見て、表情を一変させた。
「――え。――っ! 圭人様! 起きて……っ、あぁ……もう、よかった……よかった、です……」
その少女は、俺と視線が合うな否や、その青い瞳に目いっぱいの涙をたたえて笑った。あふれるそれを拭うたびに、次から次へ涙は溢れ、彼女の目元はすぐに真っ赤になっていった。
――そうか、こいつには心配をかけたな……。
こちらの世界軸の彼女――メイドから見て、俺はあの事故から今まで昏睡していたことになるのだろう。だからと言って、出会ってまだそう経たない俺なんかの為にそこまで……。
普段、凛として美しい彼女が流す涙は、思っていた以上に俺の心に突き刺さった。
彼女もあの事故に巻き込まれたに違いない。頭に巻かれた包帯を見る限り、それはそう軽いものではなかったはずだ。だが、こうして彼女は俺のそばにずっとついてくれていた。俺の保護者である、叔父叔母とは違って。
少し落ち着いたのか、彼女はフードを頭からとって俺の顔を覗き込んだ。
「――す……ま、ん」
かろうじて、それだけは喉から絞り出した。その声に彼女は驚き、すぐに表情を綻ばせる。
「声は……出せないみたいですね。気分はどうですか? 痛みはありませんか?」
そう問いかけてくる彼女に、俺は目元の小さな動きで少し笑顔を作って見せた。それに気づいたのか、彼女は「そう、ですか……よかった……」と再び破顔した。
そこでやっと、彼女の服装に俺は気づいた。それはいつものメイド服ではなく、少し厚手のワンピースだった。基本色は黒で、裾には白いフリルがあしらわれている。加えて彼女がかぶっていたように、猫耳のフード付きというなかなかにかわいらしいデザインだ。
「あっ、このワンピースですか? ごめんなさい、病院にはあのメイド服じゃ入れなくて。……圭人様がこっそり買ってくださっていたのを、勝手に着させていただいちゃいました」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに少しうつむいた。もちろん、そのワンピースについて俺はよく知っている。あの日。二人で買い物に行った日に、俺が財布を取りに行くふりしてこっそり彼女へ買っていたものだ。いつか渡そうと思っていたのだが、気恥ずかしいのとほかに考えることが多かったので渡しそびれていた。
「どう、でしょう……? おかしくない、ですか?」
長い袖をきゅっと細い指で握り、片手で顔を隠しながら彼女はそう問いかけてきた。おかしくないか、って。そりゃあ……。
「あ、目を逸らしましたね? やっぱり圭人様は正直者です」
くすくすっ、とメイドは笑いながらそう言った。それに対し俺は、目をそらしたまま。はっきり言って、どう視線を動かせばいいかわからない。むしろ目を瞑って寝たふりのほうがいいのでは……。
「あっ、申し訳ありません。お目覚めになったのですから、先生を呼んでこないといけませんね」
そう言って彼女は病室を去ると、数分後に医師と看護士さんを連れて帰ってきた。それからその日はいろいろと検査をされて、自分の病室に帰ってきたのはもう夕方。病室の窓から差し込む光に目を細めていると、メイドがブラインドを何も言わずに閉めてくれた。
「さんきゅ……」
「いえいえ、無理して声は出さなくてもいいですよ」
メイドはそう言うが、無理すれば、なんとか声は出てくれた。
しばらくして、担当の医師が俺の状況を報告に来てくれた。ちなみに、叔父叔母には別室ですでに説明済みとのことだ。
「検査結果ですが、あれほどの事故に巻き込まれていながら君の命には別条ありません。体のほうは少し障害が残るかもしれませんが、リハビリで少しずつ改善していくはずです。意識もはっきりしているようですし、脳にも異常はないようです。――よかったですね」
そうしっかりと説明をしてくれた医師に、メイドは「ありがとうございます」と俺の代わりに深々と礼をしてくれていた。ここまでしっかりしたメイドがいると、主人の肩身も狭くなってしまう。
しかし、とにかくリハビリで少しは動けるようになるらしい。まだわからないが、時間が経ってしっかりしゃべれるようになってから三山と話をし、その後またシャフトシフトで鉄骨落下事件をなかったことにしよう。そうすれば、すべての問題が片付く。
いや、待て。よく考えればシャフトシフトの前、矢代はこう言っていた。俺が今いるこの世界軸において、俺は事件の三日後に死ぬ、と。
それが本当ならば、悠長にリハビリなんてしている暇はない。そのことに気づき、一気に動悸が早まった。冷汗が噴き出した。どうすればいい。三山の連絡先なんて俺は知らないし、あいつに接触するにはどうすれば……。
「圭人様、どうかなさいましたか。……どうか落ち着いてください。大丈夫。私が付いています。頼りないかもしれませんが、ずっと付いてますから」
はやる気持ちを抱く俺に、側にたたずむ少女はそっと声をかけてくれた。そうだな、慌てる必要はない。ふぅ、とちいさく嘆息すると、俺はメイドと目を合わせ、ありがとう、なんて心の中で言っていた。言った後に恥ずかしくなり、すぐさま視線はそらしたが。
そうして、時間は過ぎていった。思考を巡らしながらではあったが、メイドの何でもない話を黙って聞きながら過ごす時間はどうしようもなく心地よかった。
そして、いくばくかの時間が経った後、彼は病室に現れた。