屋上の眺望
「――圭人様、朝ですよ」
意識の端にするりと潜り込んできたその声。穏やかで優しく、慈しみに満ちたその声音に意識を引き上げられ、俺は瞼を開いた。
「おはようございます。いい朝ですよ」
「――っ!」
目を開けると、三十センチ、いや二十センチほど目の前まで女の子の顔が迫っていた。瞳は青く、睫毛は長く、唇はほのかな桜色。その整った顔は俺が起きたのに気づくと、ニコリとほほ笑んで離れていった。……まったく、朝から心臓に悪い。
立ち上がった彼女はカーテンを開けて、朝の光を部屋に入れる。その後、起き上がった俺からブランケットを取ると、それを畳んでベッドに置いた。
「さて、お顔を洗ってきてください。朝食はもう準備できていますよ」
「……あぁ」
のろのろと立ち上がった俺に、彼女はテーブルの準備をしながらそう声をかける。
後を引く眠気に大あくびをしていると、彼女は何か気づいたようにこちらに寄ってきた。
そのご自慢のメイド服から一枚のハンカチを取り出すと、「まったくもう……」なんて言いながら俺の口元を拭う。
「何して……」
「よだれ、です。だらしないですよ」
呆れ笑いを口元に浮かべながら、彼女はハンカチをポケットへ戻した。台所へ向かう彼女を見やってから、俺は洗面所へ。
……これじゃあまるでガキだ。明日からはちょっと寝顔にも注意しなければ。
そんな情けない決意を固めつつ、俺の朝はゆっくりと過ぎていった。
* * *
登校すると、下駄箱で三山と鉢合わせた。お互いに目が合ってしまった以上、一応クラスメイトとして無視するわけにもいかない。
「おはよ」
「あぁ、浅田くんか。おはよう」
浅田くん? どうしてこいつは妙によそよそしいのだろうか。一瞬そんな疑問が頭をよぎるが、まぁどうでもいいことだ。三山だし。
「一人か?」
「あぁそうだけど。それじゃ、僕は先に行くよ」
え、と思わず声に出してしまっていた。てっきり、教室まで一緒に行くものだと思っていたのだが、俺が上履きに履き替えている間にそいつは階段を昇って行ってしまう。なんだ、あいつ。
「……なんか腹立つな」
別に、軽くあしらわれたり無視されたりというのは日常茶飯事で、そう気にはしない。だが、この不自然な三山の様子が、どうにも気にくわなかった。
まぁ、今日は三山にかまっている余裕もない、か。俺は今日ある行動を起こすことを決心していた。もうタイミングや世間体などは気にしていられない。
「あっ遥ちゃんだ。おはよー」
隣の女生徒が急に声を上げたと思ったら、少し遠くに矢代がいた。さすがと言うべきか、彼女が歩くだけで、周囲の生徒たちは道を開け元気に挨拶している。それに笑顔で応える矢代の様子は、どこかお嬢様じみていた。
しかし、それだけ知名度があり、好感度もあるらしいのにも関わらず、彼女は一人で歩いていた。
「あ、おはよう圭人くん」
「あぁ、おはよう」
たくさんの生徒がいる中、彼女のほうから挨拶をしたのは俺にだけのようだった。……って、そんなことはどうでもいい。別にうれしくもないし。俺は上がりそうな口角を隠しながら、用意していたプリントを鞄から取り出した。
「矢代、さっき先生からお前にプリント預かったんだが」
「ほんと? ありがと! わざわざごめんね。……それじゃ、またあとで!」
そう言い残すと、彼女はその場から去っていく。その場に残ったのは、立ちすくむ俺と生徒たちの喧騒だけだった。
* * *
この学校の屋上は、基本的に常時解放されている。しっかりしたフェンスに囲まれ安全面を確保できているから、というのが表向きの理由だろう。だが、俺は今日初めてもう一つの理由に気づいた。
小高い丘に作られたこの学校。秋口の涼やかな風を感じながら、俺はその眺望に目を奪われていた。
地面に敷き詰められたように広がる住宅地。それら一つ一つの家にそれぞれの生活があるのかと思うと感慨深ささえ感じる。加えて、街の中を悠然と流れる川と、少し遠くに望む多くの山。それぞれは大して珍しくないどこにでもあるようなものだが、そのすべてが一つのファインダーに収まることで、街という一つの風景を生み出していた。
それには妙な迫力があり、それから目を離すのはなかなかに、難しい。
これは俺の想像に過ぎないが、屋上が解放されているのは生徒にこの景色を見せてやりたい、という学校側の優しさなのではないだろうか。
「へぇ、初めて来た。意外ときれいな景色だね」
ふと声の方向を見遣ると、風に揺れる髪を気にしながら一人の女子が屋上に入ってきていた。
「どうもこんにちは、サボリ魔の圭人くん?」
「人聞きが悪い。まだ初犯だ」
「犯行は潔く認めるんだね……」
そう言われるとどうにもきまりが悪いが、これも俺なりの『誠意』なのだから仕方がない。この際授業なんて構っていられないのだ。
その少女、矢代遥がきちんとこの場に来てくれたこと、まずはそれを喜ぶべきだろう。
「それにしても、ラブレターにしては気が利かなすぎだよ、これ」
彼女はそう言って、ポケットから一枚のプリントを取り出した。それはもちろん、俺が朝から彼女に渡したプリントだ。
表には、この前学校から配られた連絡事項が、裏には、『すぐに屋上で話したい』という下手な俺の字が記されているはずだ。
「ラブレターじゃないっての……」
「えっそうなの!? 残念……」
そう適当なことを言われてしまうと仕方ない。こちらも適当な軽口を返そう。
「変なこと言うなよ。勘違いするぞ」
「ごめん、それはちょっと気持ち悪いかも」
「理不尽かよ……」
そんなショートコントを一通り繰り広げると、彼女はけらけらと笑った。これだから女はわからない、というより怖い。
「それで? 何か用があったんでしょ?」
急に、その目つきが鋭くなった。つまり、今までの会話は挨拶のジャブ、と……。
ここからが本番だということを理解し、俺は一旦思考をまとめる。
はっきり言って、今日のこれは賭けだった。これまでの矢代の言動から、もしかしたらこの時間逆行について彼女は何かを知っているのかもしれない、とは予想していたものの、どう考えてもそんな都合のいいことなんてありえない。自分と関わりがある女子の一人を特別視して、無理やりにこじつけているという可能性もあった。
だが、今日の俺の対話の要求に、彼女は乗ってきた。普通の女子が大して仲良くもない男にあんな手紙を渡されたとて素直に応じるだろうか。答えはきっと、ノーだ。したがって俺の中では、彼女が何かしら知っている、ということはほとんど確定していた。
「……単刀直入にいく。お前は、何を知ってる?」
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