月が優しく見ていた夜
1、出会いの章
神崎歩は、二つの校舎をつなぐ渡り廊下で伸びをした。
真新しい制服がまだ硬い。
葉桜だけが一足先に初夏の準備に入っている。
知り合いだらけの地元を離れて新しい街に通うのは、何かが始まりそうな予感に溢れていた。
――でも……。
そのワクワク感は早くも失速気味だ。
1階の渡り廊下を歩きながら中庭を眺め、2階の地学室に向かう。
地学室は天文部の部室だ。
勧誘チラシに「流星群の観測」という文字を見つけてふらっと立ち寄ったが、強烈な興味があったわけではない。
今までと違うことをしなきゃ、というプレッシャーがあったのかもしれない。
放課後の地学室には3人の常連がいる。
2年生の笹本先輩とババッチさん、そして3年生のリケジョ、鈴木先輩だ。
おかっぱ頭の彼女は男子二人を常に上段の構えでいじって遊ぶ。
「どうしても部長やる気にならないんですか?」
ババッチさんは未だに納得がいかないらしい。
「天文にそこまでの思い入れないもんね。知識量からしても笹本君が適任でしょ」
「先輩が部長やらないと、僕が必然的に副部長になっちゃうんですよ」
「いいじゃない。副部長なんて名前だけなんだから」
3年生が部長を務めるところも多いが、鈴木先輩は断固として首を縦に振らなかったらしい。
しかし彼女は、引退するわけでもなく毎日のように地学室に来ては勉強している。
「この時期に新入生が入るなんて珍しいよね」
問題集に飽きたのか、鈴木先輩が雑談モードに入った。
「たいていは最初の部活で挫折した組が、秋ごろから入ってくるのに」
「それは僕のことですよね? 挫折とは心外な……。天文部直行なんて笹本くらいですよ。こいつの頭の中は数と数式でできてるんだから」
ノートパソコンから一度目を離した笹本先輩が、静かに微笑む。
「まあ、別にどこでもよかったんだよ。静かで落ち着ける場所が欲しかっただけ」
「僕はそんな笹本と一緒にいると楽しいだけですよ」
「笹本君、彼女が欲しかったらババッチなんとかしないと!」
他愛のない話を聞いていると、高校生の仲間入りをした気になれた。
渡り廊下は、学年に関わらず多くの生徒が行ったり来たりしている。
誰とすれ違ったかなど気にしたこともない。
でもこの日だけは違った。
茶色がかった髪をサラサラと揺らしながら歩いてくる男の子は、意識よりずっと早く目に飛び込んできた。
ーー触れたら気持ちよさそうな髪。
突拍子もない考えに思わず笑う。
そして彼の顔を見た瞬間、懐かしさに似た感覚が湧き上がって広がった。
ーーなんだろう、この感覚……。
止まった時計に閉じ込められたみたいに息が苦しい。
我に返ったときは、茶色のサラサラ髪を見送っていた。
1秒もなかったはずの時間は、連写写真のように保存され何度も再生される。
そのたびに、あの懐かしさの正体を探ろうとするのだが記憶の中には見つからない。
数日後、通称「藤棚」と呼ばれているベンチでサラサラ髪を見かけた。
小柄でメガネをかけた男の子とマッチョな男の子が一緒だ。
地学室からは中庭がよく見えるが、満開の藤の花で覆われたベンチは見えない。
藤の下から楽し気な笑い声が聞こえてくると、つい窓の外に目を向けてしまう。
「神崎さん、外になんかあるの?」
窓際まで歩いてきた鈴木先輩は中庭を見下ろす。
ずっと勉強していると適当な話を挟みたくなるようだ。
「いや、その……」
「ああ、もしかして神崎さんもファンなの?」
「え……ファン!?」
予期せぬ問いかけに声が裏返った。
「地元の仲間とバンド組んでるんだって」
鈴木先輩は面白くもなさそうに席に戻ると、問題集のページをめくる。
「同じ中学から来てる子や軽音部の子には有名な話みたいよ。あたしはクラスも違ったしよく知らないけど、藤棚を部室代わりにしてる」
鈴木先輩と同級生なら彼らは3年生だ。
見るからにバンド少年という雰囲気ではないが、仲が良さそうなのはわかる。
帰宅してから、動画サイトを検索して高校生っぽい素人バンドをいくつか眺めてみた。
彼らのことが気になっているのは、楽しそうだからかもしれない。
ここのところ余計なことを考えすぎた。
遅刻するほどではないが、ギリギリのタイミングまで寝過ごしてしまった。
駆け込んだ車内で、すぐに目に入ってきたのは茶色がかったサラサラ髪。
ーーうわっ、あの人だ。
藤棚で見かけたメガネ君とマッチョ君もいる。
2メートルの距離から観察する。
メガネ君はそれなりに可愛らしい顔をしているが、三者三様に女の子たちが喜びそうなイケメンとは言い難い。
サラサラ髪にいたっては、決して派手ではない顔立ちにおとなしそうな表情が違和感なく同居中だ。
ーーどこにでもいそうな男の子。
あの不思議な感覚も今日はない。
その時、サラサラ髪の主がこちらを向いた。
心臓がバクっと大きな音を立てる。
こっそり観察していたのを咎められたようで慌てて窓の外を見た。
心臓の音がやけに大きい。
ほとんど無意識に近いレベルで、寝坊で遅れた分の時間を含んだ逆算が始まっている。
だいたい8時15分前後の電車だ。
――このあたりの電車に乗れば彼らに会える……?
そこまで考えて自分を呪った。
まさか、そんなことあるわけない。
何も知らない相手なんだから。
見かけただけの相手を好きになるなんてありえない。
2、夏の章
理性が待てというのにも関わらず、脳みそが割り出した電車は8時13分着。これに乗るとサラサラ髪一行と遭遇する確率が高い。
結局、彼らを見つけるたびに様子をうかがう日々が始まった。
あのときの懐かしさに似た感覚が何だったのか。
この謎を解きたいのだと言い聞かせる。
茶色がかったサラサラ髪は、太陽の光に当たると一層きれいに見えた。
メガネ君が女の子のように話しかけるのを、優しい表情で聞いていることが多い。
そして時々、あどけない顔が急に大人っぽくなると、あの懐かしさに似た感覚を思い出す。
毎日出会うことに必死だった。
――ストーカーギリギリだな……。
逆の立場なら純粋に嬉しいと思えるか微妙だ。
それなのにこの気持ちには抵抗し難い甘さがあった。
それはしぶしぶ認めつつ、その正体を言葉にする確信がない。
夏休みに入り、天文部はペルセウス流星群の観測会を予定していた。
サラサラ髪のことばかり考える自分を持て余していた最中だったから、ひどくありがたかった。
天文部らしい活動がよほど嬉しいのか、顧問の物理教師は機嫌が良い。
この日、校舎の屋上へ初めて足を踏み入れる。
天文部には幽霊部員が数名いると聞くが、学校の屋上で夜を明かすというレアな体験にも誰も顔を出さない。
いつもの4人でアスファルトの上にシートを敷いて寝転がる。
初めての流星は、それが本物とわかるまでに数回の経験を要した。
速くはかなすぎて、気のせいだと思えば終わってしまう。
――あ、流れた!
確信を持ってそれを見届けたとき、見たものを信じることと、自分を信じることがイコールになった。
こんな瞬間を、どこかでずっと待っていたのかもしれない。
雑談好きな鈴木先輩も、他の二人も意外なほど話をしない。
流星の観測に必要な言葉だけが行き交っていた。
薄明が近づくころ鈴木先輩が口を開く。
「あたし、天文部のこういう活動、けっこう好きだったよ」
「何しめっぽくなってるんですか! 雨降りますよ」
ババッチが大げさなくらいすっとんきょうに声を上げる。
「3年生になるとさ……いろいろと、考えるわけよ。天文部って消去法みたいに思われるじゃん。でも違うの。あたしはここがあってよかったな」
夏でも夜中は冷える。
空だけを見ていると吸い込まれそうだった。
ひときわ明るい火球が飛んだ。
網膜に光の残像が残る。
――サラサラ頭のこと、どうしても知りたい。
このまま卒業まで過ごすのは嫌だ。
「流星」の部分を「一目惚れ」に置き換えてみる。
あの懐かしさに似た感覚は一目惚れという類のものだろうか?
彼がわかりやすいイケメンだったなら、もっとイージーだったのに。
なぜ彼であったのかはわからないが、気のせいではない大切な瞬間だったのだと、信じられた。
3.秋の章
9月1日、夏休みが終わる本当なら憂鬱な朝。
駅のホームは多くの人でざわついている。
信号機の故障でダイヤが大きく乱れているらしい。
これなら遅延証明がでるから、いっそのこと堂々と遅刻するのもアリだ。
迷っているうちに列車のドアが開き、否応なしに人の波に押し込まれた。
息もできない状況に今日は遅刻を決め込んでしまえばよかったと後悔する。
さらに強い力で押し出された。
「すみませっ……」
突き出された先は、あのサラサラ髪のシャツの胸元だった。
――っ! いるっ!?
私の顔の側面と彼の第2ボタンあたりは紙一枚入らないほどくっついている。
満員電車で体が密着するのは、なんら不自然じゃない。
しかし、それがサラサラ髪の持ち主であれば話は別だ。
ーーこんなことあるの!?
顔の向きを変えようにも動けないほどの人口密度。
耳にシャツ越しの彼の鼓動が入ってくると、体が一気に熱を持ってフリーズした。
……これはものすごく、刺激的な体験してるんじゃないでしょうか……。
横でくすっと笑ったのはおそらくメガネ君だ。
2メートルの距離を一気に飛び越えた。
彼を一方的に感じているこの状況が背徳的すぎて、思考回路も停止する。
ホームまでもみくちゃに押し出された後には、離れるはずの頭が離れない珍事発生。
髪の毛がシャツのボタンに引っかかっていた。
「ちょっとこっち来て」
サラサラ髪の主にブレザーの袖をつかまれ、ホームの中ほどに連れてこられた。
先に列車から吐き出されていたメガネ君たちが振り返って見ている。
「先行ってていいよ」
声をかけながら絡まった髪をとろうとしているがうまく行かない。
「あーもういいや。めんどくさい」
耳のそばでぶちっと音がすると、むしり取られたボタンが見える。
「はい」
ぽかんとする私にボタンを持たせると、メガネ君たちのもとへ走って行った。
「いや~連くん、なんかそのシャツエローい!」
メガネ君が冷やかすように言う。
「ばーか」
「あの子、真っ赤になっちゃって。俺、いけない妄想しちゃいそうだった!」
「あほ」
茶色のサラサラ髪が揺れてメガネ君を小突いた。
放課後、誰もいない地学室で手に入れたボタンを眺めていた。
……妄想が暴発して夢になったみたい。
朝の出来事はふわふわして実感がない。
このボタンが、本当のことだったという唯一の証拠だ。
「連くん」
彼はそう呼ばれていた。
「連、センパイかあ……」
人の気配がないのをいいことにつぶやいてみる。
私にとって奇跡のニアミス事件。
ボタンを転がしていると、ふとシャツ越しの体温を思い出す。
……なんか妙にリアルだった。
静かな鼓動に、生身の男の子がいることを意識させられた。
体中がどきどきしていた。
理屈では説明のつかない惹かれ方をしている、とは思う。
彼は今日の出来事などあっという間に忘れてしまうだろう。
もし、このボタンを彼に返したら何か変わるのだろうか。
このまま同じ電車に乗り続けても、きっと変わらない。
私から動かなければ何も変わらない。
藤棚にサラサラ髪が歩いていくのが見えると、思わず地学室から飛び出した。
いつもの二人はまだそばにいない。声をかけるなら今だ。
「あの……」
連先輩はベンチに座りスマホを握った状態のまま、訝し気な表情でこちらを見る。
手の中のボタンを一度握りしめると目の前に差し出した。
「朝、ありがとうございました」
「ああ。別に返さなくても良かったのに」
胸元を見ると、上から2番目のボタンはとれたままだ。
彼は受け取ったボタンを胸ポケットに放り込む。
「……」
次の言葉が出てこない。
「よくわかったな、俺だって」
「藤棚でよく見かける人だったので……」
「わざわざ悪いな」
手元のスマホに視線を戻す。
何か話さなければ、なけなしの勇気もこれで終わる。
「バンド組んでるんですよね」
もう一度顔を上げると意外そうに私を見た。
「天文部で……鈴木先輩から聞いて」
とっさに鈴木先輩をだしに使う。
「鈴木?……あの鈴木か」
「先輩たちのバンドは学校で有名だっていうから興味が湧いて」
「10月にライブやるけど、来る?」
――何かが、変わる。
「い、行きます」
「シルバークレイっていうライブハウス。検索すればわかるから」
自然な口調でざっくり案内する。
初めて話をする相手にもぜんぜん構えない人。
いつも眺めていた茶色のサラサラ髪が、手を伸ばせばさわれそうなほど近い。
「じゃ、またな」
連先輩はベンチから立ち上がるとスマホをカバンにしまい込んだ。
次の日から、電車で遭遇する度に軽く頭を下げて挨拶する習慣が始まった。
彼は、サラサラ髪をかすかに揺らし目線で反応する。
バンドに興味があると言ってしまった手前、イヤホンをつけてみたりもする。
やっていることがひどく滑稽だ。
冷静な自分は苦笑いしているのに、甘い時間から逃れられない。
「シルバークレイ」は自宅の最寄駅から5つほど離れている。
学校とは反対方面で、普段は素通りすることもない駅だった。
日の暮れかけた見知らぬ街を歩いていく。さほど遠くはないのに、雰囲気はだいぶ違う。
住宅街ばかりが広がる地元の街に比べると、下町風で小さな店が多い。
そういえば、鈴木先輩がヤンチャな中学校出身だったと言っていたっけ?
ライブハウスの防音ドアのそばで、男の子たちが円になってたむろっている。
大方知らない人ばかりで、壁際に張り付きながら様子をうかがっていた。
大音響の暗がりの中に、見慣れない男の子二人とサラサラ髪一行を見つけた。
親しそうに言葉を交わす女の子もいる。
とても居場所がなくて髪で顔を隠しながら息をひそめた。
……場違いだな、私。
三つのバンドが演奏を終えたころだった。
いつの間にか観客も増えている。
ギターを抱えたメガネ君の前にはキーボードも置いてあった。
マイクを握るのはマッチョ君で、連先輩が持っているのは、おそらくベースギターだろう。
一緒にいた男の子二人が、ドラムとサックスに入っていた。
ギターの一音が響くと周りの子がわっと盛り上がった。
女の子もいるが男の子のほうが多い。
J-POPとは明らかに違う曲に目を丸くする。
これは、ロック?
いや、ファンクとかソウルとかいう部類の音楽かな?
洋楽の有名な曲らしいことはわかるが、想像していた音楽とは違う。
周囲の子は音楽に乗って体を揺らしている。
誰かがソロをとり始めると、他のメンバーは一歩引いて主役を引き立てる。
……なんだろう、この子たちは……。
マッチョ君は意外なほど高い声で歌ったり叫んだりしていて、サックスと入れ替わりながらさながら一つの楽器のようだった。
メガネ君の伴奏がベースやドラムと絡んで不気味なくらい心地よく響いてくる。
ライトの中で、茶色がかったサラサラ髪もビートとともに揺れていた。
時々イタズラっ子のような表情でメガネ君やメンバーと視線を合わせる。
……これは、まいったな……。
もう、恋のど真ん中にどっぷりハマってる。
切なさにむせ返りそうになるのは、ライブハウスのせいじゃない。
先輩たちは火球のように光っていた。
はしゃいでいる周囲の子は、一つひとつ、刹那的に流れた流星群のようで……。
この一瞬に何かを燃やして輝いている。
ちょっと近づいた気になってみたら、なんて遠いのだろう。
そのライブから一週間ほど、朝の電車でサラサラ髪一行を見かけなかった。
渡り廊下を歩いても藤棚に連先輩たちの姿がない。
「受験生だからね。そろそろ本腰入れないと」
鈴木先輩がつぶやく。
胸の内を見透かされたかと思ってどきりとする。
ノートパソコンに向かったままの笹本部長が目線をちらりと上げた。
「……そういえば、3年生に停学処分が出たってホントですか?」
「ああ、藤棚の3人組ね」
思わず、固まる。
「先週ライブやってて、遅くまで盛り上がっちゃったらしいのよね。パトロールしてた警察官に補導されかけたっていう話」
ババッチさんが驚く。
「補導ですか!?」
「別にお酒飲んでたとかじゃなかったから注意で終わったんだって。でも学校にバレて一応謹慎処分ってことになったらしい」
「この学校で停学処分なんて珍しいですね」
「軽音部の子が結構まじってて、部活が活動停止にならないように彼らが責任取ったって話。同じ高校生の分際で責任も何もないけどさ。……あの子たち変なところで教師とも仲良いからうまくまとめたんじゃない?」
先輩たちがあのライブのせいで停学処分になっていたなんて……。
夕日が差し込む藤棚で、先輩たちがいつも座っていたベンチに腰かけてみた。
もう銀杏が色づいている。
サラサラ髪のことばかり考えながら半年も過ごしてきた事実に驚く。
彼らはここで、どんなことを考えて景色を見てきたのだろう。
渡り廊下から聞きなれた声がすると、全身が耳になった。
この感じ、間違えるわけがない。
思った通り、連先輩とメガネ君が歩いて来る。
……笑ってる。いつもと変わらない
いつものように軽く頭を下げた。
「おう」
「蓮くん、だれ?」
おどけながら訊くメガネ君に、私が答える。
「この間のライブ、行きました」
「俺たちの藤棚で待ち伏せするとは相当なファンと見たぞ」
あながち外れでもないジャブに曖昧な笑いでごまかす。
「先輩たち、停学処分になったって聞いて……」
「ああ、それもう解けた解けた」
メガネ君はあっけらかんと言い放ち、連先輩を見る。
「俺たち遅くなることも珍しくないし、たいしたことじゃないよ」
「停学処分は学校側との落としどころっていうの? オトナの事情が絡んでまして、な、連くん」
「公認で休めるのも悪くないし」
「あの課題だけはなんとかならないかな。いらねー!」
「やらなきゃいいだろ」
吠えるメガネ君に、連先輩は軽やかな口調で返す。
二人は強がっているようにも見えなかった。
普段のふざけ合いの延長線で、停学の話さえ日常生活の1ページに昇華させていく。
これまでもそうやって歩いてきたんだろうか。
小さなつまづきや迷いを一緒に……。
今みたいに、屈託のない笑顔で。
「君、どっかで見たことあるよな」
ふいにメガネ君が、眼鏡のフレームをつまみながら思案する。
「もしかして前に満員電車で髪絡まった子じゃない?」
「相変わらず人の顔覚えるの得意だな」
「へえ、ライブに来てくれてたんだ。知らなかった、ありがとね」
メガネ君は人懐っこい笑顔を見せた。
4.卒業の章
今朝も電車に飛び込めば3人に遭遇する。
会釈をすれば、連先輩やメガネ君が軽く手を挙げて応えてくれる。
ただ眺めていた頃とは確かに違う毎日。
でも、さらに何かが変わるとは思えなかった。
自分の想いが憧れの範疇にあることも知っている。
どれだけ背伸びしても同じ目線には立てない。
多分、彼が恋するのはもっと広い世界にいる人。
ライブハウスに充満していた熱量を自分の中にも持っているような……。
停学の話を聞いても心配なんてしないような……。
連先輩のサラサラ髪を見つめていると、メガネ君の視線とぶつかった。
こんなことが続いているので、気持ち悪いと思われていないか不安になる。
バツの悪い顔をおそらく隠しきれていない。
それでもあと何日会えるのだろうと思うと、目に焼き付けておきたかった。
すべての一瞬を……。
「なあ、連くん……俺、わかっちゃったかも」
「なに?」
「あの子、ずーっと前から連くん見てたよ」
「え?」
何を話しているのかは知らないが、ふと顔を上げた連先輩がこちらを見る。
――目が合った。
とある朝、メガネ君が二人から離れて話かけてきた。
「卒業式の日、解散ライブするからおいでよ」
「解散……ですか?」
「卒業したらみんなバラバラだからね。軽音部の卒業ライブに乱入するの」
メガネ君は茶目っ気たっぷりに言う。
先輩たちも今までと同じではいられない。
その現実がどうしようもなく切ない。
卒業式の後の視聴覚室には、軽音部と思われる子たちが集まっていた。
校内の学生バンドの人気などたかが知れている。
仲の良い友達や好きな人でもいなければわざわざ見に来ない。
ましてや卒業式の夕方に。
メガネ君は軽いおしゃべりで女の子たちを喜ばせている。
連先輩が黙々とセッティングしていると、前に見たドラムとサックスの子が入って来ていた。
他校の子だというのに……心配しかけて思わず吹き出す。
彼らにはすべて関係ない。
今日で最後なのだから。
先輩たちのバンドはトリだ。
軽音部に所属しているわけでもないのに、みんながその登場を待っているのがわかる。
曲の合間に女の子たちの話し声が聞こえた。
「連センパイ、卒業したらひとりで海外行くんだよね?」
「ワーホリするんだって」
「高校でそれ決めちゃうんだもんね。さすが先輩」
「もう会えなくなっちゃう……」
「もともと手の届かない人たちだったじゃん」
「どこの国、行くんだろう?」
「さあ……?」
――連先輩は海外に行くんだ。
そんなこと想像もしてなかった。
ほらね、やっぱり何歩も先を歩いている。
そしてまたずーっと広い世界に、飛び出していく。
メガネ君が軽い口調でMCをとる。
「普段ピアノソロはやらないんだけど、今日は特別に」
右手でキーボードを弾くと洒落たピアノの音が広がった。
ゆっくりと始まった曲は、低音部がなめらかなベースラインを奏でだすと情熱的なジャズピアノに変わっていく。
まだ高校生なのに……なんて大人っぽいピアノ。
いつものお茶目なメガネ君はいなかった。
この瞬間を誰よりも惜しむように、甘く激しく鍵盤を叩く。
みんなもこんな彼を見たことがないのか、一斉に静かになって空気が緊張する。
そんな中、マッチョ君がおもむろに新聞を敷き、その上に連先輩が出てきた。
メガネ君はにこっと笑うとベースラインを変えて、即興っぽい演奏を始める。
絶対、何かするつもりだ!
周囲がそう気づいたとき、マッチョ君の手に握られていたハサミが、あの茶色の髪の毛を一束、二束と落としていった。
みんなの驚きを感じたメガネ君と連先輩は、嬉しそうに笑い合う。
「今度は断髪式なんだ……」
半ば呆れてつぶやいた。
次から次へといろんなおもちゃを引っ張りだす子どもみたい……。
ようやく事態をのみんだ男の子たちが「連くーん」と叫んでいる。
さきほど女子トークを展開していた二人は未だに呆然としたままだ。
茶色がかったサラサラ髪が短くなると、あどけない顔は一層子どもっぽくなった。
黒いキャップをかぶり、丸めた新聞紙を舞台袖に投げると今度はドラムに入る。
聞いたことのあるイントロが流れる。
「最後の曲は……今日は……」
メガネ君の声が心なしか揺れて、詰まった。
「……メンバーみんなでコーラスとります。今までありがとう! 楽しかったよ」
ドラムは繊細なビートをリフレインする。
『タイム・アフター・タイム』
先輩たちのコーラスは繰り返した。
横の女の子たちは人目をはばからず号泣しだした。
いっそのこと一緒に泣いてしまいたかった。
この時間が終わらないでほしい。
リフレインの中で何度つぶやいただろう。
最後のライブが、幕を閉じた。
先輩たちの周りには、興奮冷めやらぬ人の輪ができている。
話しかけるのはとても無理だ。
視聴覚室の出入り口付近で、壁と同化するように気配を殺してタイミングを伺う。
この立ち位置はどう見ても不自然なのに、近づくことも去ることもできない。
統制のない雑音の中でメガネ君が近づいて来た。
「少し待っててよ、連くん呼んであげる」
ぼそっとつぶやくと再び人の輪に入って行った。
「サイン欲しい人!」
メガネ君が茶目っ気たっぷりにステージで呼びかけると、みんなの視線が集まる。
「今なら名前入りで書いてあげる! ビッグになってからじゃあげないよ」
「なんだそれ」と突っ込みながら「でもちょ~だい」とすり寄る子がいて、みんながどっと笑った。
小さな輪ができて、メガネ君がサービストークを繰り広げている。
連先輩は、そっとその盛り上がりを離れると私の隣まで歩いてきた。
壁を背にして、黒いキャップをかぶり直す。
「あいつ、いい奴だろ?」
メガネ君に視線を送ると独り言のようにつぶやく。
「ああ見えて、けっこう気を遣うタイプなんだ」
メガネ君がつくってくれた機会……。
待っていたくせに何を言うつもりだったんだろう。
この一年の想いを言い表す言葉がなかなか見つからない。
「先輩たちと過ごした時間……」
……遠くから見てた時間も全部。
「忘れませんから」
やっと見つけたのはその言葉だった。
「連先輩に会えたこと、絶対忘れませんから……」
こんなふうに呼び出した女の子が伝えたいことなど一つだけだ。
先輩がそれを知らないほど鈍感だとも思わない。
でもその言葉は、どう伝えても……想いに足りない。
沈黙は、やけに優しくてヒリヒリした。
手元にドラムのスティックが差し出される。
壁に沿ったさりげない動作は、誰の目にも気づかれない。
驚いて連先輩を見上げると、黒いキャップのつばで目元を少し隠した。
「――これ、やるよ」
頭が追い付かないまま、震える両手でスティックを包む。
「あいつと違って、こういうのはあまり得意じゃないけど」
壁から身を起こした連先輩が小さく笑った。
春の日差しみたいに、暖かい笑顔。
「お前の2年は、まだまだここからだよな」
気持ちが溢れてくる。
頷くのが精いっぱいだった。
スティックを固く握りしめながら、走り出す。
二階への階段を登ると地学室のプレートが目に入った。
すでに真っ暗な部屋のドアを開ける。
――好きだって言えなかったけど。
机に突っ伏すと涙があふれて止まらなくなった。
……私がたどり着ける一番近くの場所まで行ったよね。
外套と月が、誰もいない地学室に薄い影をつくっている。
ぼやっとした光の中でスティックについた跡が浮かび上がって見えた。
そのへこみを指でなぞってみる。
さっきまで連先輩が握っていたスティック。
……まだぬくもりが残っているみたい。
最後に演奏された曲のコーラスが、頭の中で流れ続ける。
「こんなのもらったら、本当に忘れられなくなっちゃうよ」
スティックの感触を確かめるたびに涙があふれてくる。
二人の歩く道がほんの一瞬重なった奇跡を……。
あの月がもう少し移動するまで……。
この余韻の中にいさせてください。
今度は自分で広い世界に歩いて行こう。
うんとうんと素敵な女の子になるために。
ドラムのスティックを思い切り強く抱きしめた。
――完――