かわいそうなぞう――とか他いろいろ
当然のことだが、こんな巨象の化け物にわしが勝てる道理はない。
不動を決め込んでいるのは余裕の演技ではなく、単に足が竦んでいるだけである。
だが、同じことが相手にも言えた。
「お願いするっス。勘弁して欲しいっス。自分、もう二度と人間は襲わないっス。故郷の森に帰るっス」
象の化け物は、完全に戦意を喪失してわしの前で縮こまっている。
身を縮めても、今の若返ったわしよりはずっと大きい巨体なのだけれど、まるで仔犬と錯覚するほどに気迫を委縮させている。
「えっとね、お主」
「ひぃっ。大親分様、どうか例の無限地獄コースだけは勘弁して欲しいっス。死ぬこともできない闇の業火に焼かれて、さらにバラバラの八つ裂きにされて、最後に魂を抜かれて未来永劫の奴隷にされるなんて絶対に嫌っス。眷属の姐さん、どうか執り成して欲しいッス」
レーコは冷めた目で、
「邪竜様の前で醜い命乞いをするな。お前の命運は既に邪竜様の手の中。命を惜しむ権利すらもはや失われたと思え」
「ちょっと待ってレーコ。お主はいったいどういう話を吹きこんどるの?」
「せめてもの慈悲として、この獣が辿る冥土への道筋を教えてやったまでです」
道を間違えるにも程がある。
そもそも冥土に送るつもりなんか毛頭ない。なぜ無益に命のやりとりなんかをしないといけないのか。
だいたいレーコめ、弱いのを見つけてこいと言ったのに何だこの象は。
わしの眼力で強さを測ってみると、一流の冒険者が二桁の人数かかって仕留めるレベルの魔物だ。会話ができるほど知能も高く、おまけにどういった種族でどんな能力を持っているのかも分からない。
「お主」
「どうか、どうか命だけは!」
「とりあえず、さっき言ってたとおり故郷の森に帰るがよい。ただし、もう悪いことはしたらいかんよ」
「い――いいんでスかっス?」
わしは威厳がある風に頷いた。
だって、仮に練習でもこんな強い奴と手合わせしたらわしが死んでしまうし。
地響きを鳴らして足早に逃げていく象を静かに見送ってから、レーコがこちらに膝を付いた。
「申し訳ありません邪竜様。やはり、あの程度ではいささか弱すぎましたか」
「そうじゃの」
もはや何も言うまい。
とにかく、実戦形式の修行を積むのはまだまだ時期尚早だとわしは判断した。
「背に乗るがよいレーコ。この近くではわしの練習相手になる魔物はおらぬようだ。ゆるりと行きつつ、修練を積めそうな場所を探すとしよう」
そう言うなり、レーコ即座に背中に飛び乗って正座する。
幼い少女だけあって軽いが、それでも幾分かの重みはある。
ここに数日分の荷物と、手足の武器防具が加わる。
これだけ重石を付けて走れば――少しは体力を鍛えることができるだろう。
わしは大きく息を吸って、大地を四足で駆け始めた。
決して全力で走っていることをレーコに悟られぬよう、鱗に覆われた鼻先で、必死に息を殺しながら。
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「ああああああああああぁぁぁ――――――っ!!!」
「遅い! もっと速く走れ! 足が千切れそうだと思うか!? 心配するな千切れても地面に落ちて五秒以内ならセーフだ! すぐ繋いでやるから安心して千切れるまで走れ!」
未だ大火の傷跡残る冒険者の街・ペリュドーナを一台の暴走人力車が走り回っている。
運ぶのはたった一人の乗客と、街に転がる大量のガレキだ。
「幸運だろう! 街の中に拾っても拾っても足りぬほどに重りがあるのだからな!」
「うおおおおおぉぉおお―――――っ!」
「言葉で返事をしろ馬鹿者!」
「ぎゃあっ!」
鞘に納められたままの剣で殴られ、牽き手である金髪の少年は悲鳴を上げた。
児童虐待ではない。
街の復興を兼ねた修行に励むライオットとアリアンテである。
「くっそ! なんだよ師匠! 俺は稽古付けてくれって言ってんのに、こんな荷車引きなんかやらせやがって!」
「たわけが! 戦士になりたいのならまずは体力がなければ話にならん! 特に魔力の片鱗もない貴様はその身体だけで戦うしかないのだからな! まずは死ぬまで走って体力を付けろ! いいやまずは一回死んでみろ!」
「つっても、もう朝からずぅ――っとこれだぞ! 本当に死ぬって! いい加減休まないと死ぬ!」
街の住民は笑いながら容赦なくガレキを荷車に突っ込んでくる。
誰一人として慈悲はないようだ。
そして極めつけに、背後の乗席からアリアンテが尋ねてきた。
「なあ小僧、回復薬や白魔法は何のためにあるか知っているか?」
ライオットは息を切らしつつ、
「――怪我とか病気を治すためだろ?」
「違う」
そのときライオットは、ぞっと背筋が粟立つのを感じた。
「朝、昼、晩。連日連夜を不眠不休でひたすらに身体を鍛え続けても、ギリギリ死なないようにするための便利な技術だ。喜べ、この街にはいい腕の術師がまだ大勢いる」