ひどいペテンの始まり
食べられる。
鍋にするぞと脅されたことはあるが、実際に噛みつかれる段階まで行ったのは初の体験である。
「わし不味いから! わし不味いから! いだだだだっ!」
ぴょんぴょんとその場に飛び跳ねて精霊を振り落とそうとするが、わしの首根っこに噛みついたまま離そうとしない。
こんなことになってはレーコが激怒するかと思いきや、
「早くも甘噛みとは。既にその精霊は邪竜様へ恭順の意を示したようですね」
したり顔である。
違う。首筋に鋭く突き立つ痛みはどう考えてもガチ噛みである。
どうにか引き剥がそうと暴れ馬よろしく跳ね回っていると、急に精霊が噛むのをやめてころりと地面に落ちた。
「あ、やっと離してくれたの――って大丈夫お主? わりと受け身とかなしに落ちたけど」
声をかけてみるが精霊は特に返事をしない。
ただ、近くに転がっていた拳大の岩を拾って、あんぐりと口に頬張った。
そのままボリボリと咀嚼音を立てて平然と噛み砕いていく。
「なるほど。石が好物なんだね。元が山の精霊さんだからかな?」
シェイナがしれっと手頃な石を拾い集めながら言う。
「ってことはわしは石と間違えられちゃってたのね――ってまた痛ぁっ!」
精霊は目の前にいるのにも関わらず、今度はわしの尻尾に痛みが走った。
誰の仕業かと視線を背後に回せば、いつの間にか背後に回ってきていたレーコがわしの尾に噛みついている。
「え、えぇと、何をしとるのレーコ?」
レーコは歯をかちんかちんと打ち鳴らし、
「私としてもあの精霊に負けず邪竜様への敬愛の念を表明したいと思いまして」
「お主の気持ちはこれ以上なく伝わってるから今後断じてそういう行為はやめてね」
「承知いたしました。ちなみに私もその気になれば岩は噛み砕けます」
「変な対抗意識を燃やさない」
そんな呑気なことをしているうちに、兵士たちの間から「あ、またタコが逃げた!」と声が上がった。
タコというのは縄抜けの芸当から連想された、長髪の魔物のあだ名だろう。わりとひどい。
「申し訳ありません邪竜様。すぐに捕まえて精霊を元に戻す方法を吐かせて――」
「まあまあレーコちゃん! いいじゃんいいじゃん! ここは寛大な心で許してあげてもいいんじゃない? 精霊さんの面倒はあたしが見るからさあ」
追跡しようとしたレーコを羽交い締めにしたのはシェイナである。明らかに精霊をそのまま自分の手元に置こうとしている。
「ね? 邪竜様もそれでいいよね?」
「いや……もうわしはそれで止めはせんけど、精霊さんはあの姿でええんかの?」
「気にしてなさそうだしいいんじゃないの?」
「待て、それは困るぞシェイナ」
そこでハイゼンが娘を諫めた。
「精霊があのままになるということは、代わりに金山が失われるということだ。我々はあの金山の見張りを命じられていたというのに、むざむざと失ったことをどう説明するというのだ?」
「いーじゃん。魔物の件は隠してさ、精霊が気まぐれに実体化したから手元に引き込みましたって説明すれば嫌な顔はしないって。貴重な精霊術師が増えれば戦力アップも見込めるし」
「だが……あれは見たところただのみすぼらしい野生児じゃないか。手懐けて戦力にできるかどうかも分からんし、今の段階で本営に説明しても到底同意が得られるとは……」
「あ、そうか……」
シェイナとハイゼンは揃って顎を抱えた。
「たとえばさ、あたしが今すぐあの精霊を手懐けて、普通の人間では不可能な術とかをバンバン連射させたりできたら本営も納得するよね?」
「それはそうだろうが、いくらお前でもそれは難しいんじゃないか?」
甘いっ、とシェイナは精霊に覆いかぶさるように飛びついた。
「昨日はお喋りした仲だもんね? ほらほらぁ。あたしにこう、チャチャチャッと力を授けたりしてくれたりするよね?」
『晴天に日消えし』
精霊はただシェイナの身で日光が遮られたことしか気にしていない。
ハイゼンがやれやれと首を振った。
「仕方がありません。眷属殿。やはりさきほどの魔物を追跡して情報を――」
「待った!」
「何だシェイナ。まだ何かあるのか」
「うん。やっぱり天才のあたしを以てしても精霊を手懐けるのは一朝一夕じゃいかない。だからね、ちょっと時間が欲しいの」
「だが、こんな異変は長くは隠せんぞ。じきに本営の耳にも届くだろう。というか私が報告する」
「そう。パパは全部正直に書いていいよ。で、私は本営に『精霊さん』を連れていって、ものすごい術を披露してみせるから」
「それは今できそうになかっただろう」
ふふん、と鼻高々にシェイナは笑い、今度は精霊でなくレーコの両肩にぽんと手を載せた。
「だから、こういうのはどう? 本営に精霊術を実演するときに付いてきてもらうのは、本物の精霊じゃなくてこっちのレーコちゃんっていうことで。精霊のフリしてもらって、ドンと一発派手なのやってもらうわけ」
とんでもないペテンが進行している気がした。




