生贄少女は再び食べられようとする
わしの爪は見た目に反してそう鋭くないし、握る力も大して強くない。
邪竜様と呼ばれるにはあまりにも情けないが、幼子の身を抱えるにはかえって適している。
思ったとおり、わしが抱えた途端にレーコの翼が消え、手足を覆っていた竜鱗も引いていく。
「よし! そのまま死んでも離すな!」
そう叫んだアリアンテが聖女様に向かって合図の手を上げる。すると、宿屋でわしを引きずり込んだのと同じ水たまりが着地点に出現した。今度は池といっていいほどの大きさである。
「トカゲさん! 絶対説得してくださいね! じゃないと私の結界なんて大してもちませんからね!」
「任せとくれ! この子はきっと話せば分かる子じゃから――んぎゃああっ!」
水面で思いきり腹を打った。
手に握ったレーコを落下の衝撃から庇うことに集中して、自分の受け身を忘れていた。
視界がちかちかと眩む。それでもわしはレーコを手放さない。息を詰めたまま水面に顔を突っ込んで潜ると、頭上で聖女様が結界の入口を閉じた。
前と違って、そのまま溺れることはない。水位はすぐに引いていき、浅く水の張った白亜の空間の底までわしとレーコを横たえる。
「のうレーコ。わしが分かるかの?」
「……はい。邪竜様」
わしが声をかけると、未だ呆然とした眼差しながらもレーコが応じた。
よかった。意思疎通ができるほどには正気を取り戻したようだ。
わしが安堵して両爪を緩めようとしたときだ。
緩んだ隙間から再び黒鱗の紋様が走ってレーコの身に刻まれようとし、慌てて手を握り直した。
「こ、こりゃどういう……?」
「御前にて醜態を晒してしまい申し訳ありません。すべて私の未熟がゆえです」
どこか達観したような調子でレーコが言った。
「邪竜様の力のほんの一部にしか過ぎぬ魔力だというのに――もはや私には制御することが叶いません。こうして邪竜様に抑えていただかねば、今にもこの身は邪悪な魔物に成り果てることでしょう」
そうはいっても、今こうして侵食を押しとどめてるのも実際はレーコ自身の無意識の力である。
再三のことだが、わしにそんな大それた力はない。
「あのなレーコ。軽々しく諦めてはいかんよ。頑張ってみれば意外と簡単に抑えられるかもしれんよ? 上手くできるまで気長にわしが付き合うでな」
「お気遣い痛み入ります。しかし、眷属の力量不足にて主の手を煩わせては本末転倒というもの。まして邪竜様は魔王討伐に急ぐ御身にあられます。無用の配下ごときに余計な時間をかけていい道理はありません」
「どうしたのお主? いつもの無駄なポジティブさどうしたの」
もしかして落ち込んでいるのだろうか。
しかしそれにしては落ち着いている。しょげている様子ではなく、妙に淡々としているのだ。
「ご安心ください邪竜様。私は捨て鉢になったのではありません。むしろこうなったからこそ、真に邪竜様のお役に立てる働きに思い至ったのです」
「あんまりいい予感がしないけどとりあえず言ってみて」
レーコはわしの手の中で穏やかに微笑んだ。
「――どうぞこの私を今度こそお召し上がりくだ」
「却下」
言い切る前にわしが断ったので、レーコはむっと頬を膨らませた。
「まだ全部言い切っておりません邪竜様」
「そこまで言えばもう言い切ったも同然じゃよ。あのねレーコ。何度もわし言ったでしょ? わしは草食なんだからお主は食わんよって」
「しかし魂はお食べになられるはずです。現に私は魂を食べていただいたおかげで眷属になることができました」
「そうなあ……。うん……そこがなあ……」
ひとえに軽はずみなその発言こそが、わしの受難の始まりであった。レーコに変な才能がなければ話は単純だったのだけれど。
わしがここ数日の苦い過去に顔をしかめている間に、レーコが抗弁の舌を回す。
「私は邪竜様の眷属としては力不足です。ですが、この短い旅路で気付いたことがあるのです。どうやら私には、ほんの少しですが自前の魔力も備わっていたようでして」
「うん、知ってる」
それはもう嫌というほどに。
「さすがは邪竜様。お気づきになられていましたか。でしたら話は単純です。邪竜様が私の魂を喰らっていただければ、眷属としていただいた魔力を返すだけでなく、ほんの少しばかりですが私の力を邪竜様の血肉としていただくことができます。眷属としてお役に立てぬなら、せめて糧としてお役に立ちたいと思うのです」
「あのねレーコ」
わしは生涯で最も長いため息をついた。
それでもなおレーコは続ける。
「未熟な私が最も邪竜様のお役に立つ方法はこれしかありません。どうか私に眷属として最後の働きをさせてください」
「お主はどうしてそう『役に立つ』とか『役に立たない』とかで物事を判断するかな」
少しばかり語気を強くして、わしはレーコに顔を寄せた。
「最初にわしのところに来たときもそうじゃったろう。いくら魔王討伐の助力のためといっても、お主が死んでしまっては平和になった後の世界も楽しめんではないか。何事もまずは自分あってこそなんじゃから、誰かの道具みたいに自分の命を投げ出すのはやめなさい」
「お言葉ですが、私がいなくなっても悲しむ者などおりません。ならばせめて道具として――」
「これ、わしがいるじゃろう」
ゲンコツをするように、鼻先でレーコの頭を小突いた。
「……邪竜様?」
レーコは当惑顔だ。孤高なる邪竜にはおよそ相応しくない発言をしたのだから当然である。
大昔、人間に飼われてそこそこ平凡に暮らしていたことがあるということは、まだレーコには明かせない。今はまだ邪竜の皮を被っておかねば、この子は暴走してしまう。
しかし、ほんの少しだけ本音を吐露するくらいは構わないだろう。
「わしは長いこと一人で生きておったから、お主がこうしてやって来て……何といえばいいかの」
前にレーコのことを『仲間』と言ったことがある。だが、よく考えたら仲間というのは同一の目的を持つ、同列の者を呼ぶときに使う言葉だ。わしは魔王討伐を目的としていないし、レーコと肩を並べて戦えるほど強くもない。
だから、たぶん仲間ではなく、
「そう、子供か孫ができたような気分でな。とびきり手はかかる子じゃけど――いなくなってしまったら悲しいに決まっとるじゃろ」
「邪竜様が? 悲しい?」
「何を驚いとる。わしだって人並みに嬉しかったり悲しかったりすることはあるからね。わしはお主が死んだら悲しい。だから食べたりしない。で、分かったならこれからはお主も命を粗末にしないこと。いい?」
レーコはきょとんとしつつ、ゆっくり首を傾げた。
「つまりそれは、私もドラゴンになって邪竜様の孫らしくなれという……?」
「毎度毎度すごいエッジの効いた曲解するよねお主」
「違うのですか? お望みなら頑張って角とか生やしますが」
「角って頑張れば生えてきちゃうものなのかあ」
世界にはまだまだわしの知らないことが溢れているらしい。どんどん常識が壊れていく。
けれど、それが可笑しくなってふいにわしは笑った。
「角が生やせるなら逆に引っ込めることもできようて。いいや、どんなことだって不可能はあるまいよ。なんせお主は、わしが見込んだ眷属なんじゃから」
「……分かりました」
レーコがわしの爪に両手を触れた。そしてそっと力を込めて、わしの手を開いていく。
「頑張ってみます。私もまだ、邪竜様と一緒にいたいですから」
「うんうん、その意気じゃよ。もし危なくなったらわしが止めるから安心して」
わしの手から離れると、レーコの身から再び魔力が迸り始めた。だが、今までとは様子が違う。
レーコの身に変化はなく、その代わりに、床の水に墨を流したような黒い波紋が広がっていく。制御できない魔力を外部に逃がしているのだ。
黒く染まった水がやがて生き物のようにうねり始め、巨大な竜の姿を象っていく。
大丈夫。怖くはない。
これもレーコの魔力が生み出した怪物だ。わしを傷つけることはできないし、わしが突進すれば簡単に倒すことができる。
静観しているうち、竜の姿はどんどん凶悪になっていく。
爪は鋭く、牙は長く、尾には棘。さらには大きさも膨れ上がり、実際のわしよりも強そうな見た目になってくる。
――これ、本当に大丈夫なのかの?
わしの心に不安がよぎる。
というか、いつまで大きくなり続けるのだろう。既にサイズはわしの倍以上だ。このままだと突進しても一部しか消滅させられないような気がする。全身倒す前に暴れ始めて結界が壊れたらどうしよう。
だらだらと冷や汗を流して安請け合いを後悔するわしの背に、とん、と飛び乗る重さがあった。
「スッキリしました。やはり邪竜様のお見立てに狂いはありませんでした。為せば成る。私も見込まれただけのことはあるようです」
えっへんと、二日酔いのゲロでも吐ききったように爽快な顔を浮かべてレーコが立っていた。
「あ、うん。それはよかったけど――」
あれの後始末どうするの、と問おうとしたわしの背中に「ばさっ」と黒い翼が展開された。
もちろん自力ではない。レーコの仕業である。
これからの展開を一瞬で予想したわしの表情が死ぬ。
「それではご助力願います。手短にあれをぶっ飛ばしましょう」
レーコの宣言とともに魔力の接続が切れ、完全に独立した黒い竜が暴走を始めた。
挙動一つで結界の空間を崩落させ、咆哮は世界を震わせるほどの轟音。紛れもない邪竜の姿がそこにはあったが、
「うぎゃああああああ―――――――――っ!!」
短剣を高々と掲げたレーコが翼を振るわせ、無慈悲かつ無自覚にわしを高速で突撃飛翔させる。
アリアンテに投げられたときの比ではない。まさしく生きた砲弾扱いである。
もちろん、狙い違わず巨竜の胸部に直撃。しかしなおもスピードは緩まず、死体に鞭とばかりにさらなる加速を続ける。ブレーキはない。
そしてそのまま、豪快に結界の天井をぶち破った。
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半泣きのレーヴェンディアが翼を生やして、結界から飛び出して来た。
何やら巨大な新手のドラゴンに頭から突っ込んでいたようだが、地上に出てすぐそちらは霧散していった。
その光景だけで、熟練の冒険者としては大体の経緯を察することができた。
「相変わらず哀れだな……」
アリアンテは微笑しながら呟き、
「ああなればもう、一生逃れられんのだろうな」




