少し遅い卒業
わしは人の言葉を喋ることができる。
レーコならその理由を「全知全能の邪竜様に知らぬものなどありません」とでも解釈するのだろう。
もちろん、そんなことはない。
わしが人語を解することができるのは、過去に人間と交流があったからに他ならない。
まあ、あんまりロクな思い出ではない。
喋れないトカゲだったころは雑草処理役を兼ねた非常食の家畜として飼われていたし、喋れるようになってからは見世物として各地を連れ回された。大した芸ができるわけでもないのであんまり稼げず、次から次に詐欺まがいの手法で売り飛ばされて飼い主がコロコロ変わったのも覚えている。
ただ、楽しいことがまるでなかったわけでもないのだ。
それは、「金を稼げ」とも「玉に乗れ」とも「煮て食うぞ」とも言わず無邪気に餌をくれる子供たちとの交流であった。
元々、最初の村で家畜から脱することができたのも、わしに餌をくれていた村の子供たちの言葉をカタコトで覚えたからである。そのおかげで「食うには気分が悪い」という評価が得られて事なきを得た。
そういうわけで、わしにとって人間の子供というのは命の恩人であるとともに、かけがえのない安らぎの時間を与えてくれる存在だったのである。
さて――それで今現在である。
たったここ数日で、わしが持っていた「人間の子供」の固定観念はガラガラと音を立てて崩れ去った。わしの想定していた「人間の子供」というやつは急に覚醒したりしないし、黒い翼で空を飛ばないし、灼熱の炎を噴いたりもしない。
レーコに向かって真っすぐ投げ飛ばされたわしは、正面を見据えて呟く。
「でもなレーコ。わしの図体が大きくなってから、臆せずに話しかけてくれた子はお主が初めてじゃったよ」
嬉しくなかったといえば嘘になる。
突拍子もない押しかけ生贄に対する困惑の方が圧倒的に勝ってはいたけれど、久しぶりに話すのは長い退屈が晴れる思いだった。
そうして結局は一瞬の退屈すらない刺激的すぎる日々に陥ってしまったが、それでも一つ確信できたことがある。
「お主はだいぶ捻じれ曲がってはおるけど、優しい子には違いなかろう。邪竜なんかになっていい子ではない」
レーコとの距離が縮まる。
大技を掻き消したばかりだ。そう素早く次の行動には移れまい。
しかし、どこまでも規格外なのがレーコである。火炎放射の攻撃姿勢からすぐさま立ち直ったかと思うと、今やわしの巨体にも匹敵するほどの大きさに広がった両翼をはためかせ、嵐のような暴風をわしに浴びせかけてきた。
一番して欲しくなかった迎撃である。
おそらく、二度の攻撃消滅を受けてわしに魔力が通用しないことを察したのだ。
「くぅ……」
勢いと質量で強引に突っ切ろうとするも、風はまるで壁のように厳然と立ちはだかる。
アリアンテが渾身の投擲で付けてくれた初速がみるみるうちに落ち、レーコへの直線軌道は高さを欠いていく。
ほとんど息もできない濃密な風の中、わしは肺から空気を振り絞って思いきり叫ぶ。
「こりゃあっ! わしが分からんかっ!」
ぴたっ、と。
竜の身に浸食されつつあるレーコの動きが止まった。ぎこちなく、何かに抗うように身体をぴくぴくと震わせて。
やはりレーコも必死に頑張っている。
ならばわしも相応にやらねばなるまい。
邪竜として眷属を止めるとか、そういう堅苦しい立場の話ではない。まして、真の邪竜が生まれるのを阻止して世界を救うためでもない。
わしが心底臆病だからである。
だから、自分のことを慕ってくれる風変りな娘を見捨てるだけの度胸がないのだ。
「狩神様! わしをレーコに届かせとくれ!」
精一杯に爪に力を集中する。
武器としての爪ではなくもっと単純な用途。『引っ掛けて、引き寄せる』ための湾曲した形状のそれを。
右前脚から一本の鉤が勢いよく伸びて、願ったとおりレーコの翼に引っかかる。
「んぎゃああっ! 重っ! わし重っ!」
引き寄せるつもりだったが、レーコはわしの全体重が翼にかかってもびくともしない。一方、右脚一本で全体重を支えることになったわしはほとんど悲鳴に近く絶叫した。
レーコが動くと大きくわしが振り子のように揺れるという、まさに地獄の宙吊り状態だ。
「いかん! いかんってこれ! 普通に落ちるよりも悪質な状況なんじゃけど!」
「レーヴェンディア! その爪はお前の意思で動かせる! 縮めて娘の元まで這い上がれ!」
地上からアリアンテがアドバイスを送ってくる。
そうはいっても、爪を動かす原動力はわしの体力である。この状況でいえば、レーコまでの高さを右腕一本の懸垂でよじ登るにも等しい負荷が――
「んりゃあああああっ!」
うだうだ考えるのはやめた。
どうせ冷静に考えればわしにはできないことの方が多いのだ。冷静に物事は考えない。できると信じ込んでひたすらに力を込める。
――レーコがいつもそうしているように。
前脚の感覚が消えるほどの痺れが走ると同時、一気に身体が引き上がった。
そして眼前に捉えたレーコを、わしは両手でしっかりと抱えた。
「ウン。モウ、ダイジョウブ」
その頃、遠い平原の地下遺跡の中。洞窟の天井を見透かして空を仰ぐ狩神は人知れずにそう呟いた。




