邪竜様と眷属
もう世界が終わるのだと思った。
魔王なんかよりもずっと身近で現実的な恐怖がついに顕現してしまった。
「うう……わしは人類の皆さまにどう詫びたらいいんじゃろうか……」
暴風に吹っ飛ばされて仰向けにひっくり返った姿勢のまま、わしはしくしくと涙を流す。
頑張ったつもりだったが、ついにレーコを正しい方向に軌道修正してやることは叶わなかった。
こんなことなら最初にレーコが洞窟に来たとき、誤解のないようちゃんと説明しておけばよかった。
そうしておけばこんな悲劇は――いや、よく考えたら十分説明していた。
そうした上でこの結末である。
本当にどうすりゃよかったのだろう、わし。
「おいレーヴェンディア。嘆くのも泣くのも結構だが、まずはどいてくれないか」
どこからともない不意な呼びかけに身じろぐと、わしの下敷きになっていたアリアンテが土埃まみれで這い出してきた。
「うわすまん。下敷きにしとったのに気付かんかった」
「構わん。とっさにお前を盾にした結果こうなったからな。お互い様だ」
「わざわざ盾とか言わん方がいいと思うよ。場合によっては人間関係にヒビ入るから」
わしの忠告に耳も貸さず、アリアンテは鎧の汚れをはたく。
「しかし、翼の風圧だけで済んで助かった。あれが本格的な攻撃だったらここにいる全員が絶命していたぞ」
「れ、レーコがそんなことするかの? ああ見えて実は優しいとこも――」
そう、今までのレーコの善行を思い出してみよう。
盗賊に捕えられた人たちを解放したり。(奴隷として使うにはお眼鏡に適わなかったから)
街を守るために敢えて支配下に置こうとしたり。(そのために全面戦争も辞さない覚悟で)
「――えっと、根っこはね。根は優しい子だと思うんじゃけどね。ちょっと常識がね」
「歯切れが悪いな……。だが、暴走した魔力に引きずられている以上、あの娘の本来の性格などもう関係ない。あそこにいるのは、文字通りの邪竜そのものだと思え」
アリアンテが上空を示すように剣を向けた。
わしは息を呑んで視線を上げる。
赤い夕暮れに真っ黒な翼を広げて浮遊する少女の影。全身から禍々しいオーラを放ち、見るものすべてを滅殺せんとする狂気的な蒼い輝きを眼にたたえている。
「それにしても、あの子にはわしってあんな風に見えとるんかの。そうだとしたらショックなんじゃけど」
「何をいまさら。でかいときのお前はかなり人相が悪いぞ。ああ見えてもしょうがない」
「人を見た目だけで判断するのってわし本当によくないと思う」
レーコはこちらを睥睨しつつも未だ沈黙している。ならば、今できることは。
「ほとぼりが冷めるまで逃げるのはどうじゃろ。魔力を使い果たしたら元に戻るんじゃろ?」
「ダメですよぉ――っ! そんなことしてる間にこの街が消えちゃうじゃないですかぁ――っ!」
間欠泉のごとくして、半液状になっていた聖女様が地面から湧いて出た。
そして人の形に戻るなり、「どうにかしてください! どうにかしてください!」と連呼しつつわしの頭をつかんでがくがくと揺すってくる。
「落ちっ、聖女様っ、落ちついてっ」
手を離した聖女様は膝から崩れ落ちて顔を手で覆う。すっかり情緒不安定だ。
「うう……まさかレーコ様があんな風になってしまうなんて……。こんなことなら祭りの最中に飛び込みで正体を明かして思う存分チヤホヤされておけばよかったよぅ……」
「そんな俗なことを言う人は聖女様って認められんのじゃないかの」
むしろ逆に怒られそうだ。
というか、諦めるにはまだ早い。アリアンテと聖女様と街の兵士たちが力を合わせれば、元に戻るまでの時間稼ぎくらいは――
「退避!」
だが、希望の一角が早くも欠けた。
街の兵士たちはさすがにプロだけあってわしよりも判断が的確だった。どうあがいても勝ち目がないと確信し、すごい速さで逃げ始めたのだ。
「大丈夫だ! 街に逃げ込めば聖女様が何とかしてくださる!」
「そうだ! 俺たちには聖女様がいる!」
しかし逃走の裏付けとなる守護者が今は役立たずなことを想定していないようだ。
当の聖女様は子供のように駄々を捏ねながら末期の欲望を吐露しまくっている。主にチヤホヤされたいという内容の。
こちらもあまり期待できそうにない。
「こうなればアリアンテ。お主だけが頼り――」
「え?」
アリアンテは愛馬に跨って今にも手綱を引こうとしていた。
「ちょっと何やってんのお主! 騎士としての誇りとかそういうのは!?」
「すまない」
「そういうシリアスな態度で謝るのやめて。いよいよ深刻な感じになるから」
「いや、実際どうしようもないぞあれは。あれが魔王と言われても全然驚かんくらいだ」
魔王の看板が安い。
思い込みだけで魔王になれるなら、この世は魔王だらけになってしまうではないか。
「……えっとねアリアンテ、駄目元で聞くけど時間稼ぎってできんかの?」
「私が50人くらいいて、あらゆる準備が万端なら多少は」
「つまり今は無理と」
「遺憾だが」
「かといって即断で逃げるのはなかろうよお主」
わしが伏せて頭を抱えると、アリアンテは空のレーコを見上げた。
「この街を見捨ててでも事後の対策を練らねばならんからな。力を使い果たして元に戻れば御の字としても、最悪あのまま邪竜の魔力に呑み込まれて一生元に戻らんかもしれん」
それにしても、と繋いで。
「飛んでからは妙に静かだな。意外と自制心がまだ残っているのか?」
「え? 本当? レーコ偉いっ。負けずに頑張っとるのね」
音もなく空中に浮遊したまま、レーコはじぃっと地上を見下ろしている。
そしてよく見れば、パクパクと口を動かしていた。
わしに聞こえる距離ではない。
だが、アリアンテが唇の動きを読み取って、断片的にこう伝えた。
「聖女。水魔。滅する。許せない。野菜クズ。ペット呼ばわり。八つ裂き。火炙り。いかなる刑を。こういった感じの言葉を繰り返している」
なんということだろう。
聖女様の今までの自爆行為が回り回って、処刑法の長考という時間稼ぎの利に繋がっていたのだ。
自己犠牲をもってしてでも街を守ろうとするとは、まさに守護者の鑑である。
でもなぜだろう、わしの涙が止まらない。
誰かこの子を救ってあげてください。
聖女様はフレーズの恐ろしさのあまり、歯をカタカタと鳴らしてわしの前脚にしがみついている。
「思わぬ幸運だな。このまま延々と迷い続けてくれればいいんだが……」
アリアンテには人の心がないらしい。このまま延々と料理法を考えられては聖女様が精神的に死んでしまうではないか。
さりとて、下手に動いてこの危うい均衡を崩すのは論外だった。
「え、え、え、えいやぁ――――っ!!」
あ。
真綿で首を絞められる恐怖に耐えきれず、聖女様がとうとう悪あがきに出てしまった。レーコに向かって、滝を逆さにしたような怒涛の水流を撃ち放ったのだ。
これにレーコも反応した。
ぴくりとも身体は動かさぬまま、しかし大きく息を吸い込んで――目の眩むほど真っ青な灼熱の炎を噴き出した。
レーコを呑まんとした水流は炎に触れるや霧すら残さず蒸発し、そのまま勢いを緩めず伸びてきた業火の息は一直線に聖女様を狙う。
「いかん!」
正直なところ、後で振り返っても何が「いかん」だったのか判然としない。
レーコに対して叱ったのかもしれないし、聖女様の軽率な反撃を窘めたのかもしれない。それともただ単に動揺で叫んだだけかもしれない。
動転と焦燥の中でわしが取った行動は、わしの眼前で竦みきった聖女様に覆いかぶさることだった。
「レーヴェンディア!」
アリアンテの叫びと同時に、わしの背中に熱が触れた。
鉄すら融かしたであろうその火炎は、当然わしの鱗などで止められるものではなく――
ん?
ちっとも痛みや熱さを感じなかったので、恐る恐る伏せた姿勢から視線を上げると、炎はいつの間にかなくなっていた。
「あ、ありゃ? もしかしてレーコが寸止めにしてくれたのかの?」
「いいや、あの娘は最後まで攻撃を止めなかった」
否定したのはアリアンテだ。剣を鞘に納め、この上なく真剣な顔をしている。
「じゃあどうして」
「お前に触れた瞬間、あの娘の攻撃意志に関係なく炎がすべて消滅した。なるほど――そういうことか。わずかだが光明が見えたぞ」
「え? どういうこと? お主一人で納得してないで、わしにも分かるように説明を」
「つまりこういうことだ」
アリアンテは剣をしまって自由になった両手で、がっしりとわしの尻尾を掴んだ。
「歯を食いしばっていろ!」
レーコが今度は右手を振り、爪の形をした光の斬撃を飛ばしてきた。
それを視認するとほぼ同時、わしの身体が円運動をもって宙に浮く。
「はぁっ!」
尻尾を握られたまま思い切りスイングされた。
歯も食いしばる暇もなく、声にならない悲鳴を上げながら、わしは光の斬撃に迎撃としてぶつけられる。
結果、斬撃はわしの皮膚にかすり傷一つ付けることもなく消滅した。
「あの娘の攻撃は――お前にだけは効かんのだ。主である『邪竜様』にはな」
わしを剣のように振り回して、アリアンテはそう言った。




