死体に鞭
幸いだったのは、レーコの動きが速すぎたことである。
きっと銀のドラゴンは拳を喰らったことを認識できなかったろうし、さしたる恐怖も覚えなかったと思う。これ以上にトラウマを深めることもないだろう。
さて、問題はそれからであった。
「邪竜様。この竜の処遇ですが如何しましょう。私によい案があるのですが」
「うんレーコ。却下するけどとりあえず聞かせて」
「――まず磔にして」
「やっぱいい。わしもう聞きたくない」
耳を塞いでわしはうずくまる。
アリアンテは近くの風車小屋から鉄縄をくすねてきて黙々とドラゴンを縛っていた。
「おい眷属の娘。例の精神魔物の気配を探ってくれないか。今もこのドラゴンに憑りついているか?」
「何を言っている。あれは邪竜様がとうに倒した」
「それが、レーヴェンディアが倒したのは分体だったらしい。このドラゴンもついさっきまで憑りつかれていたようだったが、今はどうだ?」
レーコが少しむくれたのが分かった。わしが敵を倒しそこねたという表現が気に食わなかったのだろう。
それでも一応はドラゴンの脇にしゃがんで検分を始めた。
「……小さいけれど、異質な気配がある。たぶんまだ中にいる」
「だが、そいつも本体か分体かは分からんな。つくづく厄介な相手だ。どうするレーヴェンディア。とりあえずこの竜ごとまとめて始末するか?」
「なんでわしにそんな残酷な判断を仰ぐの」
げんなりとしてわしはドラゴンに歩み寄る。
とりあえず前脚で突いてみるが、さっきみたいに都合よくわしに乗り移ってはくれない。
さすがに向こうも学習したようである。
「あ、そうだ。聖女様。こういうのはお主どうにかできんかの? うまいこと精神魔物だけ追っ払うとか」
振り返って、遥か後方で次第を窺っていた臆病な聖女様に呼びかける。
こちらにおずおずとやってきた彼女は、手の中にぎゅるぎゅると渦巻く水の玉を作り出した。
「これ、街を守ってる魔物避けの水なんですけど――試しにかけてみましょうか? もしかしたら逃げていくかもしれませんし」
「おお、頼りになるの。そんじゃお願い」
ばしゃっ、とドラゴンの顔に水玉が落とされた。
まるで陸に打ち上げられた魚のごとく、縛られたドラゴンがびちびちと身を悶えさせた。
明らかに苦しんでいる。このままでは精神魔物が炙り出される前に銀竜が息絶える。
「修行中に倒れた弟子に水をかけるとこんな風になることがあるな……」
助けを求めてオロオロするわしと対照的に、なにやら感慨深げなアリアンテである。
この苦悶を見て大して危機感を覚えていないのが恐ろしい。
わしは嘆き仰ぐ大空にライオットの顔が浮かんでいるのを見た。たぶんまだギリギリ死んでないとは思うけど。
そしてレーコに至っては、
「続けろ。一発では足りない。滝のように浴びせかけろ」
完全なる鬼畜の顔。
しかもレーコを尊敬する聖女様ときたら無邪気な敬礼でそれに従おうとしている。
「いかん! ええと……まだこのドラゴンには死なれては困るでの。利用価値とかええと……可哀想とか……うん、いろいろ……」
いまいち有用な理由を思い浮かばなかったので、わしの視線が泳ぐ。
「それに、よく考えたら精神魔物を追っ払ってもまた同じことの繰り返しじゃ。ここは一旦様子を見た方がいいんじゃないかの?」
手を打ったレーコが目を輝かせる。
「なるほどさすがは邪竜様。おい撃つのをやめろ水魔。邪竜様のお言葉が聞こえなかったか」
「え? 邪竜様の言葉? 全然聞こえませんでしたけど――あ、そういうことですね! 私には聞こえませんでしたけどレーコ様にはきっと真の邪竜様の声がお聞こえになるんですね! さすがです!」
わしをトカゲと思っている(事実)聖女様は、頓珍漢な応答を見せた。
それを受けたレーコは、驚きの表情でわしに向き直って、
「はっ。邪竜様、まさか今のは私の心だけに直接……? 何たる光栄……」
アリアンテは石のような顔をしていた。このやり取りに一切関与しない方針と窺える。
わしも別段のリアクションは取らなかったが、とりあえず聖女様とレーコは早い段階で引き離そうと決めた。
この二人は歯車が噛み合おうと噛み合うまいと悪い方向にしか転がらない気がする。
「レーヴェンディア。このドラゴンを殺さないということなら、私から提案があるんだが」
機を見てアリアンテが手を挙げた。一も二もなくわしは「何々?」と頷く。
「実体がない上に分体まで駆使する精神魔物となれば、単純な力技では対処が難しい。封印用の道具や専門の術者を十分に揃えるべきだ。ついては私が一旦ペリュドーナに戻って、何人か心当たりを連れてこようと思う」
「おお。いいんじゃないかの。わしもそれに賛成」
実際に策として上等なのかどうかはよく分からないが、誰も死なないなら正直なんでもいい。
「賛同してくれて助かるぞ。では、このドラゴンの身体から精神魔物が逃げないように監視を頼む。聖女様の結界で囲んでおけば大丈夫だろう。万一他の魔物がきたら眷属の娘に相手させろ」
「できるだけ早く戻ってきとくれな。いろいろ不安じゃから」
「心配するな。私の馬なら日暮れまでには一往復できるさ」
既に時刻は昼下がりである。
丸二日近くかけてやってきたわしらと違って、アリアンテの馬はさぞ優秀らしい。
彼女が口笛を吹くと、街の中から泥を蹄に跳ねつつ、栗毛の馬が一頭走ってきた。
たてがみは真っ白で馬のわりにやたら風格がある。馬型の魔物ではないかと思ったほどだ。
わしらの傍まで走ってきた馬は、状況を見極めようとするかのようにその場をぐるりと見回した。
そして――
わしの方だけすごい勢いで二度見した。
まるで「マジかよ」とでも言うように。
たぶんこれは、戦場に子供が紛れているのを見かけた大人の目である。なぜこんな場所にただのトカゲが紛れているのか――そう如実に問いかける視線であった。
わしは年長者を思わせる余裕の笑みで応じた。
そんな理由なんて、わしの方がよっぽど聞きたい。




