人知れず金星
人々の沼化への備えは万全だった。
街の重要施設は陥没を想定した施工となっており、被害は最小限に抑えられている。
一般家屋についても応急修理用の資材がストックされており、本修繕もギルドを通じて滞りなく発注された。費用はすべて街運営の「聖女様泥祭り基金」が負担する。
本年度の作物の多くは泥被害で収穫減となる見通しだが、心配はいらない。
ここ百年ばかり聖女様が泥を湧かせなかったため、基金の積立金はとうに天井知らずの域に達していた。被害補填には余りある額であり、祭りの予算も無尽蔵。
おまけに泥は肥沃なため、湧いたら以降の数年間は豊作が約束される。
「――ということらしい」
アリアンテが説明を終える。
「ここまで対策されたら魔物としては屈辱の限りじゃろうなあ」
祭りの騒ぎに乗じて宿屋から無事に薬を回収したわしは、再びミニサイズに戻って祭りを眺めていた。
泉の前の広場では、この街に対する聖女様の恵みを讃える劇が催されている。
身振りの大きい進行役が感情を込めて状況を解説している。
『この街を築いたのは、魔物に故郷を追われた開拓民の一団でした。魔物が跋扈する平原で互いに身を守りあい、安住の地を探していた矢先に――彼らは平原の真ん中で、こんこんと肥沃な泥を湧かせる不思議な沼を発見したのです』
「お主、平原の真ん中なんかで罠広げとったの? 見晴らしよかろうし、そりゃ誰も落ちんよ」
未だに魔物状態の聖女様はえぐえぐと泣きながらうつぶせに寝ている。
祭りで酔っぱらった泣き上戸と思われているので街の人たちは誰も気にしていない。
泥の上に板を置いただけの即興の舞台で、演者たちは下手な台詞を読み上げている。
『ややっ! これはなんといい土だ! 沼の泥のくせに水はけもよく、養分が豊富じゃあないか!』
『土を濾過すれば簡単に飲み水にもできるほど綺麗だわ!』
『しかもこの近くには魔物が全然寄ってこないじゃないか!』
たぶん縄張りの関係で低級魔物は近寄ってこなかったのだろう。
っていうか、開拓民たちの利用根性が並外れて図太い。
辿り着いて三日もしないうちに沼の特性を分析しきって、完璧な有効活用法を考案していた。
人間の生きようとする力ってすごい、わしはただ感心するばかりだった。
辛い過去を思い出した聖女様はまだ泣いている。
「……うぇぇ……人間が寄ってたかって私を食い物にするぅ……毎日頑張って泥をブレンドしてるのに誰も落ちてくれないし……たまに落ちても普通に足抜いて出ていくし……あまつさえ泥を勝手に持って行ってその辺の地面に撒くし……」
「よしよし。ブレンドの比率がちょっとだけ農業向きじゃったんじゃろうなあ。そう落ち込まんの」
まあ、落ちた人が普通に脱出できている時点で底なし沼としては失格だろう。
と、劇の中では最初の収穫の時期を迎えていた。
『なんということだ! もうすぐ収穫できるというのに、魔物がやって来ているのか!?』
『なんてこった……。ついに新しい故郷が見つかったと思ったのに、またここも魔物に奪われるのか……』
どうやら縄張りの侵犯を恐れない強さの魔物が現れたようだ。
どうなるのかとハラハラして劇を見ていると、裏手から魔物のお面を被った男性が登場した。
『わははー。この街を襲ってやるぞー』
そして棒読みの台詞に応じたのは、同じく裏手から登場した青髪のカツラをかぶった女性だった。
『そうはさせません! この街の人々は私が守ります!』
舞台に向けて万雷の拍手が送られた。
進行役も声を熱くして語る。
『このとき、街を守るために御姿を現したのが聖女様でした。そう、彼女は平原に湧いた沼の主だったのです。そして見事に魔物を追い払った彼女に、開拓民たちは信仰を捧げることとなりました』
「……だって……だって……横取りされたらすごく悔しいもん……あれだけ泥を取られたんだから、絶対に私が餌食にしようと思ったんだもん……」
「いろいろ台無しじゃのう」
けれど、劇なんてろくに見たことないから、どんなに下手糞でも結構面白い。
裏解説付きだとさらに。
『街が大きくなり始めたころ、沼は突如として清廉な泉となりました』
「……泥が使われるから、押してダメなら引いてみろと思って……」
『これを幸いと、人々は水路を引いてさらなる畑の開墾に努めました』
聖女様はごろごろと転がって悶えていた。
ここ数百年の過去の追体験をしているようである。
そうして長々と劇は続き、
「そうして今日のこの街が、我々があるのです。さあみなさま、聖女様に感謝を捧げましょう」
という祈りの言葉で〆られた。
「ほら聖女様、捧げられとるよ」
その辺の資材の山に向かって三角座りしている聖女様を前から覗き込んだ。
おや、と思う。
魔物の浸食で顔が紫色に染まりかけていたのに、半分くらい普通の肌色に戻りつつある。
「そ、そうかぁ……。みんなが頼りにしてくれるならそれでもいいかなぁ……。なんだか不思議と力も湧いてきたし、食べる前にもうちょっとだけ様子を見てあげてもいいかなぁ……」
ニヤニヤしていた。
なんだかほっとする。山は越えたのかもしれない。
「邪竜様。ただいま戻りました」
そこでレーコが戻ってきた。
街の外に来ていた魔王軍のドラゴンを、三頭象とともに遠くの森に送り返してきたのだ。
「邪竜様式の教育法で二度と人里を襲えぬようにしておきました。傷は負わせていません」
そんな教育法は知らない。
だが、深く詮索すると今夜眠れなくなりそうなのでスルーしておいた。ドラゴンさんが心に傷を負っていないといいのだけれど。
「それにしても、すごい賑わいですね。邪竜様がそこの無能聖女をわざと操らせたのは、この祭りを開催するためでしたか」
「あ、そうじゃの。賑わってる方が楽しいもんの」
「やはりご慧眼です。聖女の愚劣さすら計算に入れていたのですね」
「……うん。ん?」
苦しいやり取りの中で、急に背中に重みを感じて振り向くと、聖女様がわしにもたれかかっていた。
顔色はとうとう元通りにまで回復している。
「おお。やっと戻ったんじゃの。よかったよかった、これで一件落着」
しかし、わしは少しだけ釈然としなかった。
少しずつ洗脳を押し返していたようだったのに、最後だけこんなに一気に回復が進むものだろうか?
そう考えたとき、わしの心の中に声が響いた。
『この水魔はもう使えん。仕切り直しだ。そこのドラゴン、貴様の身体を使わせてもらうぞ。さあ、心の闇を覗かせろ』
しまった、と思う間もなく意識が黒く染まっていく。
過去の悪行が記憶の底から湧き上がって来て、わしの心を染めようとする。聖女様に憑いたと思って油断していた。
『本性を晒すのだ。心を顕わにしてこそ真の力は生まれ出ずる。我は貴様の真なる望みを叶える者。さあ、醜い心根を出すのだ』
悪魔の囁きがわしの心を満たしてく。
――わしは。
――美味しい葉っぱのなる木を独り占めしたことがあります。
「はっ」
内心を吐露した瞬間、わしは意識を取り戻した。
「流石です邪竜様」
「あれ、今わしどうしてたのレーコ? 何で褒めるの?」
ご謙遜をなさらないで下さい、とレーコは嬉しそうに微笑んだ。
「たった今、例の精神魔物が邪竜様に乗り移ろうとしましたが、邪竜様の大いなる闇の奔流に呑まれ――消滅したようです」
わしはとても申し訳ない気分になった。




