落ちる聖女様
「うう……もうどうにでもしてください……」
しばらく目をぐるぐると回してのびていた聖女様だったが、目を覚ますや、滂沱の涙を流して白旗を上げた。
元のサイズに戻ったわしを見て、完全に戦意喪失したらしい。ちっとも強くなんてないのに。
「あのな聖女様」
「分かりました……。もうお望み通り魔王軍でも何でも入りますから、街の人たちにだけは手を出さないで下さい……」
「人の話を聞かんうちから勝手に悪の道に落ちるのはやめなさい。いい? わしは魔王軍の一員とかじゃないから」
それを聞くなり、がばっと聖女様は跳ね起きた。
「魔王軍の一員ではない――で、では、あの噂は本当に本当だったんですか? あの邪竜レーヴェンディアが、大幹部の座に飽き足らず、世界征服を企てて魔王に反旗を翻したという……」
「その話も五十歩百歩で間違っとる」
文中に正しい箇所が一つとしてない。
まずわしの名前は邪竜レーヴェンディアではないし、魔王軍の大幹部でもないし、反旗を翻そうともしていない。
ほとんどレーコのもたらした風評被害である。
「わしはただ図体がでかいだけのトカゲみたいなもんじゃよ。お主が怖がるような存在じゃないの。この街をどうこうするようなつもりもないから、まず落ち着いとくれ」
「え……? だって、それならあの恐ろしい女の子は……?」
「あの子についてはわしも対応を苦慮しておる」
わしは床に伏せって頭を抱えた。
いまごろレーコはどうしているだろうか。くれぐれも街の人たちに迷惑をかけていなければいいのだけれど。
自由に遊べとは言ったけれど、ここまで目の届かないところに来てしまうと、とんでもなく不安になってきた。
「……? えっと、つまり、あの子の方が本物の邪竜レーヴェンディアということですか?」
「お主の発想もたいがいおかしいけど、一周回ってだいぶ近いとこ突いとる」
「それでは、あなたは邪竜に捧げられた生贄か何かで?」
「あ。うん。だいたいそんな感じ」
意外と頭がいいのかもしれない。聖女様はズバズバと核心を突いて来る。
レーコの前でこんなこと言ったら即処刑だろうけど。
「ところでさっき言ってたことじゃけど、お主って魔王軍に勧誘とかされとったの?」
聖女様は涙を拭いつつ、
「ええ、そうなんです。魔王軍の一員になって人類殲滅の片棒を担げば、この街だけは見逃してやると言われて……。でも、全世界魔物の巣になってここだけ無事って逆にぞっとしません? 住み心地悪そうですよね?」
「すごく異様な街になるよね」
少なくともわしは絶対に住みたくない。
まあ、だけどこれで安心した。レーコの言っていた「聖女様が魔王軍の一員」発言は、この辺の事情を第六感で察知して早とちりしたのだろう。
納得の根拠に第六感を持ち出してしまうあたり、自分でもだいぶ常識が壊れてきていると思うが、わしはそれ以上理性を働かせるのをやめた。
「ですから勧誘は断っていたんです。しかし、聞けば数日前に近隣の冒険者の街が魔物の侵攻による大火に見舞われたということ。これは魔王軍も本腰を入れてきたのだと、戦々恐々としておりまして……」
「あそこなら大丈夫じゃよ。建物は焼けたみたいでも、人の被害はほとんどなかったようじゃから。復興もたぶん早かろう」
「え? そうなんですか?」
「そうそう。たまたまわしらも滞在しとったんじゃけど、レーコが街を守るのに一役買ってな。あの子もあれでなかなか優しいとこあるのよ」
聖女様は喜々として立ち上がり拳を握った。
「では、やはりあのレーコという少女風の邪竜様は魔王を倒されるつもりなんですね!?」
「レーコはレーコであって邪竜とはまた違うから一緒くたにしないで」
しかし聖女様は単なる生贄に過ぎない動物の言葉など知ったことではないようで、
「そうと決まればあの子に討伐をお願いします! 見てろー! あの邪悪な三つ首象め! 真の邪竜の恐怖を思い知ればいいんだー!」
「心当たりがあるけど、その象ならもうたぶん田舎に帰っとると思う」
そんじょそこらにいるような強さの魔物ではなかったし、三つ首象といえば十中八九あの哀れな象さんのことだろう。
「え? 既にレーコ様が討伐を?」
くるりとわしを振る向いた聖女様は、ナチュラルに様付けを始めている。
危険な兆候だ。レーコの妄想にさらなる拍車をかけかねない。
何よりわしを差し置いてレーコ本人を邪竜扱いすれば聖女様の首が飛んでしまう。
「いやぁ流石です。同じ魔物として尊敬する限りです!」
ついには魔物にカテゴライズされてしまった。
わしはレーコの行く末を思ってちょっぴり涙した。
「あ、ところでトカゲさん」
「間違ってもレーコの前ではそう呼ばんようにね」
「さっきは勘違いで危ない目に遭わせて申し訳ありませんでした。このとおりです」
唐突ともいえる素直さで聖女様は頭を下げてきた。
ちょっと残念なアホの子とばかり思っていたので、この殊勝さにはやや面食らってしまう。
「どうかしました?」
「いや、ちょっと驚いての。魔物といったら凶悪なのが多いとばかし思ってたんじゃけど、お主は最初っから人間に友好的みたいじゃし」
「そんなことありませんよ。私だって最初はすごく凶悪な魔物だったんですから。街のみんなのおかげで改心できたんです」
「信じられんのう」
凶悪な様子がまるでイメージできない。
水に引きずり込もうとしてきたときも、凶悪というより必死さが目立っていた。
ともあれ、わしにも聖女様にも談笑できるほどの余裕が生まれていた。
よかった。これで穏便に街を出ることができそうである。
「じゃあ街に戻りましょうか。今、泉への出口を開けますからね」
聖女様が手を叩くと、わしの図体に合わせた特大サイズの扉が空間に出現した。
両開きの扉が音もなく開くと、神殿の泉の前の光景が広がっている。
と、その風景の中から、こちらに向けて飛び込んで来るものがあった。
緑色の小さいバッタだ。
普通の虫かと思ったが、扉をくぐってきた瞬間に違うと気付く。そのバッタは、腐ったような異臭を纏っていたのだ。
「こりゃ死臭蝗かの。作物にたかって腐ったような悪臭を付ける低級の魔物じゃ」
ポピュラーな魔物なのでわしの知識にもあった。
群れなければ基本的には普通の害虫と大差ないレベルの存在だ。
「あら? でも、結界でこの街に魔物は入れないんじゃなかったかの? なあ聖女様、その辺はどうなって――」
返事はなかった。
聖女様は硬直していた。
よく見れば、頭の上に死臭蝗が乗っている。
「……虫が苦手なんかの? おおい、困っとるならわしが追っ払うけど」
のそのそと歩いて聖女様の救援に向かう。
しかし、次の瞬間に振り返った聖女様を見て、わしは腰を抜かした。
「『――街を――沈め――』」
顔の肌が紫色に染まり、目が煌々と赤く光っている。
聖女様が手を振り上げた瞬間、扉の外に広がる街の地面が、どこまでも続く一面の沼地と化した。




