悲しき水飛沫
――ふかふかしている。
潰れたボールのような形となった黒い霧は、落下の衝撃を見事に吸収しきって、床に張られた水に静かな波紋を揺らしている。
身を包むその柔らかさは、強いてたとえるなら特大の海綿に近い。
「た、助かっ、た」
恐怖のあまり片言になった安堵の言葉を漏らすと、しゅるしゅると音を立てて黒い霧は爪に戻っていった。
わしは天を仰いで、狩神への感謝を心に思い浮かべる。
ありがとうございます。役立たずの武器だなんて思って申し訳ありませんでした、と。
「もしかして――土壇場で使いこなせるようになったのかの。それなら少し希望があるやも」
今はどんな細い藁でもすがりたい。前に狩神から言われたとおり、爪先に力を込めてみる。
生えてきたのは以前と同じ、ハエ一匹分の爪である。
試しに床を引っ掻いてみるが、つるつると滑るばかりで傷の一つも付けられない。
「邪竜め! 覚悟しろぉっ!」
こちらが軽く絶望している間に、聖女様は次の一手を打っていた。
ばたばたと不慣れな様子で走りながら、しかし背後に特大の波を従えてこちらに突進してきたのだ。
また水に沈めてくるつもりだ。
さっきはレーコの殺気という助け舟があったが、次はきっとない。おそらくレーコは、今ここで起きている事態を把握していないからだ。
仮に把握していたら、聖女様は既に10回くらい殺されているだろうし。
「って、そんなことを考えとる場合じゃない! どうにか、どうにか逃げる方法を――」
せめて浮くことができれば――と思った瞬間、ぐるんっ、と身体に何かが巻き付いた。
また聖女様の操る水の蛇かと思ったが、違った。
爪から伸びた黒い霧が、胴体を一周していたのだ。
「……浮輪、かの」
用途を何となく察して、大きく息を吸い込んだ瞬間、頭上から凄まじい量の水が降りかかってきた。
波の勢いに揉まれて天地の区別がなくなるが、身体が一方向に自然と向かっていく。浮輪が効いているのだ。
だが、それを妨げようとするものがあった。
聖女様がまた、わしの脚にしがみついて沈めようとしてきていた。
「浮かないで! 浮いちゃダメだってばぁっ!」
しかし存外に、彼女の力もまた貧弱だった。
浮輪の浮力の方が引きずり込む力よりも強く、みるみるうちに水面に顔が出る。
逆に聖女様は水面下で顔を真っ赤にして、渾身の踏ん張りを見せている。それでも浮輪がビクともする様子はないけれど。
少しばかり心に余裕ができたので、心臓の鼓動を抑えつつ穏やかに話しかけてみる。
「なあ聖女様よ。誤解があるようなんで、ちょっと落ち着いて話をせんか?」
「そんなの信じられない!」
水面下からでも聖女様の声はよく通った。
「かといってこのまま綱引きを続けるわけにもいかんじゃろう。わしはお主と戦うつもりは一切ないから、水を引かせてくれんか?」
「……本当に? あ、でも子供には優しかったし、邪竜なのにいいところあるのかな……?」
「ええと、邪竜じゃないけどまあこの際どうでもええか。まずは平和的に――」
ぱっ、と聖女様の手がわしの脚から離れた。
「うん、分かった。だけど、話す前にあなたの魔力を吸い取らせてもらうけど、いいよね? だって戦うつもりはないんだよね? 魔力切れになっても構わないよね?」
なんだか急に物分りがよくなった。
一抹の不安を覚えないでもなかったが、わしは「ええとも」と頷いた。
もともと吸い取られる魔力がないのだ。砂漠の砂から水が吸い取れないように、ないものを吸われても何も変わりはしない。どうせ最初から不毛地帯だ。
じわじわと水位が引いていく。
代わりに、わしの周りの水だけが濃縮したように青みを深めていく。
「うりゃあっ!」
聖女様がわしの眼下で両手をかざした。
たぶん、魔力を吸い取ろうとしているのだろう。わしには何の自覚症状も出ないけれど。
思ったとおりに吸い取れないせいか、先ほどまでと同様に顔を真っ赤にしている。
「なんで、なんで吸えないの? まさかこれが邪竜の力……? 根こそぎ奪い取ろうとしたのに……」
「ないものは吸えんからね」
これを機にわしの本当の素性を話そうとしたが、既に聖女様の闘争思考にはブーストがかかりきっていた。
「ええいっ! ここで邪竜の力を全部奪えば私は無敵だもん! 後はどうとでもできるもん! 負けるな私っ! とにかく全力をもって吸い取りを――!」
「おおい聖女様。違うんじゃって。っていうか本音が漏れとる漏れとる」
「うるさい、えいやぁ――っ!」
聖女様が一層の馬力を込めたとき、事件は起こった。
おそらく聖女様は、わしの身体を巡っていた唯一の魔力――アリアンテのくれた若返りの秘薬に込められていた魔力を吸い取ってしまったのだろう。
その結果として、唐突に薬の効果が切れたのだ。
いきなり巨大化したわしの図体は、水飛沫を高々と上げてダイナミックに着水した。
そして直下にいた聖女様は、物理的および精神的ショックの複合コンボで意識を刈り取られた。
それがこの一瞬で起きた悲劇の全貌である。




