聖女様は何者でしょうか?
邪竜様視点に戻ります
宿の廊下で水たまりに引きずり込まれた。
たかだか廊下の水たまりがなぜこんなに深いのか――と悠長なことを考えていられたのは一瞬だけで、あとはひたすら空気を求めてもがくばかりだった。
しかし、浮くことは叶わない。
それもそのはず。わしの前脚に聖女様が両腕でしがみついて、水底に引きずり込もうとしているのだ。
わしは息苦しさに死にそうな顔をしているが、聖女様はもっと死にそうな顔をしていた。
いいや、覚悟を決めた顔というべきかもしれない。見ればわかる。これは刺し違えてでも相手を倒そうとする戦士の面構えである。
やめて欲しい。落ち着いて話を聞いて欲しい。わしに相打ちを狙うような価値はない。
「ど、ど、どうだぁ――っ! 苦しいだろぉ――――っ! 街中の魔物避けの水をぜーんぶここに集めたんだから! こ、降参するなら今のうちだぞぉっ――!」
今のうちに降参したいけれど口からは泡しか出てこない。
というか、魔物避けの水とか関係ない。普通の水で十分わしは死ぬ。
もうだめだ、とわしが諦めかけたときだった。
水で満たされた空間に、凄まじいまでに濃密なレーコの殺気が走り抜けた。
殺気を放った人間の特定など、普段のわしにできる芸当ではない。
では、なぜレーコの殺気か断言できたかというと、聖女の首筋に短剣を突きつけている半透明のレーコの幻がうっすら見えたからである。
この世のものとは思えないほど恐ろしい形相で命を狙うその姿は、まるで生霊のようだった。
殺気の直撃を受けた聖女様はあっけなく気絶した。
途端に空間を満たしていた水は引いていき、爪先ほどの水位を残して、石造りの白い床を露わにした。
壁は見当たらない。どこまで見渡しても延々と白い空間が続いている。
「なんだかんだで、助けられてばっかりじゃのぉ……」
力の使い方を注意したばかりだったが、今のは本当に助かった。
聖女様はまだ青い顔で横たわったままうなされている。悪い夢を見ているようだ。
おっかなびっくりと歩み寄りつつ、わしは爪先で聖女様の肩を揺する。
「あの、大丈夫かの? たぶん誤解があると思うんじゃけど、できれば落ち着いて話を……」
「う……ううん……はっ」
聖女様は意外とすぐに目を覚ました。
そして、わしと目を合わせるやいなや、目を裏返してまた気絶した。
他人のことを悪く言うのはあまり好きではないが、この子は控えめにいってポンコツである。
それでも、この空間から脱出するには聖女様に直談判するしかないので、わしは根気強く待つことにした。あまり近くにいるとまた気絶させてしまうので、適度に距離を置いて四つ脚を伏せたまま。
早起きと歳のせいか、じっとしているとこちらも眠くなってくる。
いかんいかんと思いつつも、いつの間にか瞼が落ちていき――……
「起きてください。可愛いドラゴンさん」
気づけば、誰かに頭を撫でられていた。
昨日の子供たちかの――と思って目を開けると、目の前で手を触れていたのは何と聖女様だった。
「え? あら?」
当惑するわしに聖女様は微笑んで、なにやら早口で説明する。
「あなたは街の水路で溺れてしまったのです。そこを私が助けたのです。ですから、引きずりこまれたというのは何かの間違いです」
引きずり込み作戦が失敗したと判断し、言い訳モードに切り替えたようだ。
あまりにもキレのいい掌返しにさすがのわしも表情を失うが、ここで下手に反論したら、またヤケクソで相打ち狙いの攻撃をしてくるかもしれない。
「そりゃあ世話になってしまいましたの。ところで、ここはどこじゃろうか? 連れを待たせているので早く宿に帰りたいんじゃけど」
「ええと、ここはですね……ええっと……偉い人の家です。だから広いんです」
「そっかあ。偉い人の家かあ」
極めて斬新な間取りである。
地平線まで白一色の水張り床なんて常人の住む家ではない。神か何かか。いや、聖女様はこの街では神に近い存在ではあるけれど。
「んじゃ、悪いけど出口を案内してくれるかの?」
「あ。はい。分かりました。じゃあちょっと後ろ向いててください」
なぜ後ろを向かないといけないのか。疑問はあったが、指示通りにした。
その間に背後で聖女様がゴソゴソと何かをしている気配があり、
「はい、こっち向いていいですよ。お帰りはこちらです!」
どこから持ってきたのだろう。先ほどまで何もなかった場所に、ハリボテの扉が用意されていた。
明らかにペラッペラでどこにも通じていないが、聖女様が扉を開くと、街の中心部の風景が映し出された。
「この家のドアはちょっと変わったドアになってまして――ここをくぐると、街の泉から噴水みたいに勢いよく飛び出すようになってるんです。でも、気にしないでくださいね?」
「うん。わし、気にしないでいられる自信はないけど、なるべく気にせんように努力するよ」
泉の前で祈ってる人がいたら何て説明しようか。
新感覚の水遊びをしていたということで納得してもらえるだろうか。聖なる泉でそんなことをしていたら、それはそれで不敬罪とかに問われそうな気がする。
わしはドアの目前に立つ。いつでも泉に向かって脱出できる準備を整えた上で、あくまで低姿勢を維持しつつ聖女様に振り返る。
「ところで下らない噂を聞いたんじゃけど、この街の聖女様が魔物なんてことはありませんよな?」
振り向いた瞬間、しくじったと思った。
聖女様が目を見開いて、がくがくと震えていた。
「や、やっぱり――そうなんですね。あなたもそのことを知っていて、私のところに来たんですね」
「あの? ちょっと? えっと、わしは全然他意はなくてね、ただ少し気になっただけで」
ぎゅるんっ、と足元で何かがうねる音がした。
それは、床に張られていた水が蛇のように蠢いてわしの脚に絡みつく音だった。
「え」
「だけど屈しません! たとえ魔物だってなんだって! 私はこの街を守るんだから――っ!」
水の大蛇が大きくしなって、わしを扉の前から投げ飛ばした。
宙高くまで、聖女様が豆粒のごとく小さく見えるほどに。
単に脱出口から遠ざけようという投げ技だろうが、このまま着地すれば受け身も取れずわしはお陀仏になってしまう。
「いかん」
ここで死んではレーコが暴走してしまう。
あの子にとっても人類にとっても、そんなのは悲劇でしかない。
わしの焦りとは裏腹に、落下の軌道は頂上を過ぎてみるみるうちに床が近くなっていく。
そしてとうとう、床に溜まった水が大きな飛沫を上げた。
だが、わしの意識は保たれていた。
それどころか、痛みすらない。地面に四肢をだらしなく開いた姿勢ながら、聖女様に視線を向けて相対することができていた。
その理由は、すぐ真下に広がっていた。
狩神のくれた役立たずの武器――黒い霧が、わしの身体の下で広がってクッションになっていた。




