教育的指導
一瞬が永遠にも感じられた。
窮地を切り抜けようとするあまり、世界が走馬灯じみたスローモーションとなっている。
まず、わしが視認したのは短剣を振りかぶって聖女に飛び掛かるレーコの姿である。
これは聖女様がポカをした時点で避けられない未来だった。
それを受けて、わしは「殺してはならん!」と絶叫しようとした。だが、ゆっくり流れる時間の中で、身体の動きまではついてこなかった。それはそうだ。意識が鋭敏になっていても、身体まで速く動けるわけではない。
しかし、聖女様は意外にもファインプレーを見せた。
生来、臆病な性質なのだろう。最初からわしらを警戒していたと見えて、逃げに転じるのも早かった。
悲鳴とともにザルを放り投げ、散らばる野菜クズでレーコの視界を塞いだのだ。
もちろん野菜ごときに動じるレーコではない。短剣がひらめくと、風圧のカマイタチだけですべて微塵に刻まれてしまった。
だが、消え去った野菜クズの向こうに聖女様の姿はなかった。
消えた?
いいや違う。よく目を凝らすと、廊下の向こうの曲がり角で青い長髪が翻ったのが見えた。
普通に走って逃げたのだ。それにしても逃げ足が速い。
「こっ、殺してはいかん」
そこでようやく、わしの発声が追い付いた。
焦りで腰砕けになっていたせいで、叫ぶつもりが普通のトーンでの命令になってしまった。
今にも追おうとしていたレーコは「なにゆえ……」と短剣を握りしめたまま迫真の顔をしている。
わしは間に合ったことに安堵の息を吐きつつ、
「なにゆえ、じゃないわい。軽々しく人を傷つけようとしてはいかん。もし万一のことがあったら取り返しが付かんじゃろう」
「しかし、あの者は邪竜様のお食事にゴミ同然のものを――」
「ええのええの。些細なことで腹を立てんのが本当の強者というものじゃって。それにわしは野菜も好きじゃから」
わしは床に落ちた微塵切れの野菜を食べた。
だいぶ痛んでいたようなのでそこまで食べたいものでもなかったが、こうでもしておかないとレーコの怒りは収まるまい。
「じゃ、邪竜様。そんな食べ方をなさらず……、私が拾い集めますから少々お待ちを」
「ああええから。それよりもねレーコ。わしはお主にも、強者としての風格を持ってもらいたいと思う」
「強者の風格……ですか」
「そう。お主はこのわし――邪竜レーヴェンディアの眷属じゃ。その爪はちっぽけな揉め事で振るってよいほど軽いものではない。というわけで、お主が十分に自覚を持てるまでは、わしの許可なく力を振るうことを禁止する。あ、身を守るときとかは例外ね。他にどうしようもないときは戦っていいけど、それでも殺したりはダメじゃから」
そうだった。最初からこう命じておけばよかったのだ。
これでレーコは不用意な交戦を避けてくれるだろう。わしながら妙案である。
わしは一人で満足に頷いて、「分かったかの?」と床からレーコに視線を上げた。
そこには、想像以上に落ち込んでいるレーコの姿があった。
床に正座して大きくうなだれて、目の光を一切消している。今にも身体から魂が抜け出てしまいそうな生気のなさだ。
「れ、レーコ? どしたの? そんなに落ち込まなくてもええのよ。今後気をつければいいってだけじゃから」
ずーん、という効果音を背中に浮かべたレーコは頭を下げたまま、
「そうでしたか……私では邪竜様の眷属には相応しくありませんでしたか……」
「違う違う。そういう意味じゃなくて」
「お気遣いは無用です……」
妙案かと思ったが、思いのほか罪悪感がすごかった。この子、単純に見えて結構面倒くさい。
「レーコ、わしはお主が眷属であってくれて本当によかったと思っておるよ」
まだレーコは黙ってうなだれている。
「お主はまだ若いし、これからもっと成長していけばいいんじゃないかの」
まだレーコは消沈している。
「だからね? レーコが元気出してくれないとわしも元気が出ないっていうか……」
すると、いきなりレーコは「しゃきっ」と背筋を伸ばした。
「それはいけません。なるほど、眷属の気力は主である邪竜様にも多少の影響を与えるということですね。未熟な私が、これ以上邪竜様の足を引っ張るわけにはいきません。気持ちだけでも強く持たねば」
「うーん……そういう意味じゃなくてね。何といえばいいやら」
できればレーコのフォローをしておきたいところだが、それ以上に今は聖女様を追いかけて誤解を解かねばならない。なんせ殺されかけたのだから、いよいよ本気で街からの逃亡を図っているかもしれない。
「レーコ。ちょっとわしは用事で出てくるから、お主はおとなしく――」
いや、落ち込んでいるときに静かにさせてはかえって思いつめるばかりだろう。
「お主も街中を散歩でもしてくるとええ。この辺には子供も多いようじゃから、一緒に遊んでくれる子もおるかもしれんしの。人間の習俗を知っておくのも教養として大事なことじゃよ」
「分かりました。仰せのままに散歩を敢行いたします」
「そういう義務的な感じじゃなくて……」
完全にテンションが下がり切っている。
聖女様の追跡に足を踏み出したわしは、せめて最後の励ましにとレーコを向く。
「もしお主が眷属の力を失ってもわしはお主を嫌いになったりせんよ。眷属とか以前に、大事な仲間じゃから」
レーコはきょとんとした。主から「仲間」などと呼ばれて、ピンときていないのかもしれない。
そこでふいに、わしは尋ねてみた。
「ところでわしの力がなくなったとしたら、レーコはどう思うかの?」
「そんなの決まっています」
これには即座に反応があった。
できれば無力な駄竜でも仲良くしてくれればいいなあ――と思っていたわしの耳に届いたのは、
「邪竜様が力を失われるなどありえません」
はい。どうせそんな感じだと思っていました。
わしは背中をいつも以上に丸めて、てくてくと廊下を歩き出す。
聖女様のところから帰ったらレーコには改めてフォローする必要があるだろうが、誰かわしのこともフォローして欲しい。こんなに頑張っているのだから。泣きたい。
そう思いつつ、聖女様の消えた曲がり角に差し掛かったときだった。
足の先から「ぴちゃ」という音と、冷たい感触があった。
床を見れば、木張りの廊下にかなり大きい水溜りができていた。
誰か水でもこぼしたのだろうか? しかし、タライを丸ごとぶちまけたくらいの水量だ。
それだけのことがあったら大音が立って気づいていたのではないだろうか。
突如として、水たまりの中に聖女様の顔が映った。
びっくりして背後を振り返っても誰もいない。
ということは、聖女様がいるのは文字通り「水たまり」の中で――
「ひ、ひ、ひ、引っかかったなぁ――! えいや――っ!」
どぼんっ、と。
今度は水たまりを踏んだだけでは済まない音がして、わしの身体は深い水中に引きずり込まれてしまった。




