聖女様、逃げる
街の中心にあるのは、泉の聖女を祀る神殿である。
神殿といっても、そこまで大それた建物ではない。
こんこんと水を湧かせる泉があり、その四方を囲むように石柱が建てられ、半球状のドーム屋根を支えている。
それだけである。
少しばかり豪奢な雨よけのついた水源と見てもいいかもしれない。
だが、人々の信仰は本物のようで、行き交う街の誰もが例外なく祈りを捧げている。熱心な信徒らしいお爺さんなんか、両手を握り合わせて長々と跪いている。
「今、ここに聖女とやらの本体はいませんね。妙な気配が街中をウロウロと彷徨っているので、おおかた水路の中を逃げ回っているのでしょう」
「みんな祈ってるんじゃからそういうこと言うのはやめなさい。あと早くその神殿から出て。お行儀悪いから」
そんな中、ずけずけと神殿の中に乗り込んで泉を覗き込んでいるレーコである。
彼女が不機嫌に頬を膨らませ、聖女が逃げ回るのには理由があった。
それは、聖女からの救援依頼にまで話を遡る。
――お願いします。ペットのドラゴンさん。その少女は、あなたには心を開いているようです。あなたが説得してくれれば街の破壊も考え直してくれるでしょう。
どうやら聖女は、わしのことをレーコのペットと勘違いしていたらしい。
力関係際を考慮すると、あながち間違いともいえないけれど。
わしは、特にペット扱いを訂正をすることもなく「とりあえず侵略はしないよう説得はしました」と心の中で返事をしようとした。
そう、まさにその瞬間だった。
「愚か者め。このお方を誰と心得ている。偉大なる邪竜レーヴェンディア様を――こともあろうに犬猫同然のペット呼ばわりとは。貴様はたった今、地獄すら生温い罪を犯した」
なんと、聞かれていた。
わしの心に直接語り掛けてきたはずの聖女の声を、レーコは普通に傍聞きしていた。
そして以降、聖女はトンズラした。
わしが何を叫ぼうと、一切返事をよこさない。
それもそうだ。無害なペットと思っていたからこそ話しかけたのであって、事実上のボス(冤罪)と判明したからには気安く話しかけられるわけもない。
周囲からの批難の視線をよそに神殿から出てきたレーコは、
「おのれ聖女め。邪竜様を侮蔑した上に、顔すら見せぬつもりか。何たる傲慢」
「いやあ、ほれ。そんな風に怒っていたら誰だって怖いじゃろう。笑顔になって笑顔に。喧嘩をしにきたわけじゃないのだから」
「――ええ。喧嘩ではなく天誅です」
「笑顔で天誅ってなんかサイコよね」
警備兵たちは槍を持って近くで待機している。見張りではあるのだろうが、半ば彼らの顔には諦めの色すら漂っている。邪竜とその眷属が暴れ出せば一たまりもないと自認しているのだろう。実際、わしはともかくレーコなら警備兵を一網打尽にすることなど造作もあるまい。
兵士の一人が歩み出て、
「そ、それでは聖女様への礼拝も済んだようなので、よろしければご希望の宿にご案内しますが」
「礼拝ではない。宣戦布こ――」
「そうじゃの! お主も久しぶりに布団で休みたいもんの! ほれレーコ、先を急ごうぞ!」
ギリギリでわしの出した大声がレーコの不穏当な発言をかき消した。
警備兵たちは急な大声に警戒したようだったが、さすがにそれで襲い掛かってくるほど短絡的ではない。そのまま警戒しつつも、宿屋まで案内してくれた。
道中、街の風景を眺める。
民家や商店があるのは神殿周辺の中心部だけで、そこから放射状に伸びた水路の先――周辺部は、ほとんどすべてが畑や牧草地である。
本来、大規模な農園というのは作物の略奪防止や土地管理といった面からして、王侯貴族や教会といったある程度の権力者が運営するものである。
しかし、ここでは違う。
水路を伸ばすだけで聖女の加護が宿り、略奪者や害獣を寄せ付けなくなるのだ。
これほど農園に都合のいい場所はそうそうなく、結果として素人目にも分かるほど立派な穀倉地となっている。
「――聖女の気配がますます遠ざかっていますね。まさかこの街から逃げるつもりでしょうか」
だが、早くも次の収穫が心配になってきた。
わしの足が罪悪感に震え始めているのは、馬車の揺れで誰にも気づかれない。
このままでは街の農夫をみんな露頭に迷わせてしまう。わしは意を決して咳払いをし、
「よいかレーコ。憎しみは何も生まん」
「邪竜様……?」
「争いの果ての人生にわしは悟ったのだ。ええと……うん……なんかこう……話し合いっていいよね、と」
「なるほど。流石は邪竜様。圧倒的な力を背景とした交渉は時として戦以上に戦果を上げると」
「圧倒的な力は背景としない方針でいきたいんじゃけど」
なお、レーコとの話し合いは交渉のテーブルが最初からひっくり返されている状態だ。
しかも決して元には戻らぬよう、次から次にテーブルの裏面に重石が積み上げられていく。
わしはため息をついて、
「……ああ、レーコ。わしはちょっと散歩をしてきたい。お主は警備兵のみなさんの言うことをよく聞いて、おとなしく宿で待ってなさい。決して不用意な動きをしてはならんよ」
「承知いたしました」
馬車を止めてもらって、荷車から降りた。
まだ四肢の筋肉痛は深刻だったが、悠長なことは言っていられない。
近くの水路まで這いつくばるように移動して、
「おーい。聖女様。誤解なんじゃって。わしは単なる無力な駄竜だし、レーコも街にひどいことはせん。何日か休んだらここを出ていくから、どうか街の人のためにも逃げんでやってくれ」
返事はない。
どうやら完全に信用を失っている。レーコがひどいことをしないかは本当のところ、わしも自信がないし。
と、道のほとりで途方に暮れていると背後で声が上がった。
「わぁすごい! ドラゴンだよドラゴン!」
「すっげー! 本物!?」
「かっこいいー!」
振り返れば、何人かの子供がわらわらと道端の民家から飛び出してきて、わしの周りにどっと群がってきていた。
「商人さんの飼ってる竜かな?」
「迷子かも?」
「お腹空いてないかな?」
またもやペットと誤解されつつある。こんな風景を見られてはまたレーコが激怒してしまうと思ったわしはすぐさま弁解に走る。
「えっと、わしはペットとかそんなんじゃなくてね――」
「喋った!」
迂闊に言葉を発したことが混乱に輪をかけた。子供たちからすれば、言葉を解するドラゴンなど格好のおもちゃだったろう。
こうなると完全に見世物の動物扱いで、わしも強引に包囲を抜けることはできなかった。わしが弱いといえど、小さな子供にぶつかれば転ばせてしまうかもしれない
――だから。
「ほらドラドラー。うちの野菜の切れっ端だぞー。おいしいだろー」
「あー、ずるーい。こっちのお芋も食べてー」
「ん。どっちもうまいの」
こうして餌付けされるのは、やむを得ないことなのである。




