懐かしの仇敵
「お、お主は……!」
ぼんやりと闇の中に、言葉の主の姿が浮かんでくる。
人魂ように揺れ動く不定形の輪郭に、不気味な人面が貼り付いている。
――正直、あんまり見覚えがなかった。
「……誰じゃっけ?」
「おいふざけるな! 我を忘れたか! 我だ我!」
「あ、そういう手口の詐欺があるから気を付けろって前にアリアンテが」
「何が詐欺だ! 我が水の聖女を乗っ取ろうとしたのを邪魔してくれたくせに! 『虚』という名を覚えているだろほら!」
「えっと……あっ! そういえばいたのう!」
初めて倒した魔王軍幹部ではあったが、彼との交戦直後にレーコの方がとんでもないことになってしまったので、かなり印象が薄かったのだ。『虚』という名前も、そういえばそんな感じだったなあと思い出す程度である。
「思い出したか……」
「ごめんの。最近あんまり物覚えがよくなくての」
「嘘をつけ。明らかに我をどうでもいい存在にカテゴライズしていただけだろう」
そう言われるとちょっと反論し辛い。
軽く頭を下げて謝ってから、わしは話題をずらしにかかる。
「で、なんでお主がこんなところにおるの?」
「前に我の分体が貴様に浄化されたことがあったろう」
「そうじゃったね。懐かしいなあ」
「我はあのときの残り滓だ」
わしの胸中に『美味しい葉っぱ独り占め事件』の過去が思い返される。
「貴様の中があまりに居心地が悪いから、ほぼ死んでいたも同然だったがな……」
「ごめんの。あの後、わしなりにワルを志したこともあったんじゃけど」
「危うくトドメを刺されるかと思ったわ。草むしりで邪竜になれるという発想が怖すぎる。あの聖女と組んで我に復讐しているのかと疑ったぞ」
なんか粘着質に絡まれ始めたので、わしはちょっと視線を逸らす。
「ま、まあ久しぶりなことじゃけど、わしは今忙しいところでの。続きはまた今度どこかで会ったときにでも」
「忙しい? こんなところで、何を急ぐことがある」
指摘されて、わしの意識ははっと明瞭になった。
そうだった。今は道端での雑談というような状況ではない。よく分からない空間――わしの心の中とやらに、閉じ込められてどうしようもなくなっている状況なのだ。
「あっ、そうか。ここが心の中だから、お主が出てきたのね。お主ってそういう魔物じゃったもんの」
「察しが鈍すぎるな……」
「ええと、それじゃったら、わしを乗っ取ったりしちゃうつもりなのかの?」
恐る恐るわしが尋ねると、ため息をつくような気配があった。
ふわふわと『虚』の人魂がわしの近くまで飛んで来る。
「乗っ取るも何も、今の貴様は既に他の奴に――あの仮面の魔物に乗っ取られているだろう。我の出る幕はない」
「そうなの?」
「そうだ。というか、本当に何も状況を理解していないんだな貴様」
「すまんのう」
呆れ果てたかのように、『虚』の人魂が上下する。
「まあいい。目が覚めたなら、さっさと意識の主導権を取り戻せ。我を浄化した貴様ならできるはずだ」
「うーん……それは無理じゃないかのう」
「なぜだ?」
わしは偽眷属の言っていたことを思い出す。
「お主は……魔王軍の幹部さんたちは、もともとわしに負けるために作られたって話じゃったから。ああいう浄化はお主にしか通用しなかったのではないかの」
「ふざけるな」
強い語調で『虚』が否定した。
「我は魔王軍幹部だ。断じて貴様の餌などではない。我の敗北を、あのような仮面野郎の仕組んだ茶番劇だなどと言わせてたまるものか」
「そうは言われても、わしだけじゃここから抜け出すのは難しくてのう」
「このフヌケめ」
罵倒の言葉とは裏腹に、真っ暗だったわしの足元がほんの少し明るくなった。『虚』が発する人魂のごとき光が力強さを増したのだ。
「えっと……もしかして、助けてくれるのかの?」
「我がなぜ貴様を助けねばならん。そんな義理はどこにもない」
だが、と言葉は続く。
「貴様が勝つにせよ負けるにせよ、見物はさせてもらおう。どちらにせよ我は愉快に笑えるからな」
わしは、泥沼のようだった地面に一歩だけ足を踏み出してみた。
人魂の明りに照らされたその地面は、しっかりと踏みしめることができる。
お礼を言おうかと思ったが、めちゃくちゃ怖い顔で睨まれたので、わしは急いで歩を進めた。
あるかどうかわからないが、とりあえず出口を探すために。




