集合前のプロローグ②
「タイザンカタリトカゲ……?」
アリアンテは荷造りの手を止めて聖女様に向き直った。
初めて聞く動物の名前である。魔法や魔物の知識は多い方だと自負しているが、あいにくと危険生物以外の動物には疎い。
「はい。うちの町って牧畜とかもやってますから、獣医さんも多いんです。その獣医さんたちが最近『前に来た邪竜ってなんだか見た目はこのトカゲに似てたよな』って噂してまして」
「あいつの正体がトカゲなのは今更の事実だろう。珍獣の正式名称が分かったところで特に目新しい情報にはならんぞ」
「それがですね、この噂なんだか不思議なんですよ」
聖女様が麦わら帽子を押さえながら首を傾げる。
「何が不思議なんだ?」
「みなさん、数日前からいきなりこの噂を始めたんです。水に隠れてこっそり話を聞いてみたら、みなさんこれまでずっとタイザンカタリトカゲって存在を忘れてたみたいなんです」
「……忘れていた?」
「はい。古い文献や生物図鑑には載ってたみたいなんですけど、それを読んだ人たちも全然記憶になかったって。つい最近急に思い出したそうです」
待て、とアリアンテは深刻顔となる。
「数日前というが、具体的にはいつからだ?」
「たぶん三日前くらいからです」
三日前。
ちょうどレーヴェンディアから相談の連絡があった日である。
詳しい情報をすべて聞いたわけではないが、その日にあったことといえば――
3億4320万倍事件しかない。
衝動的にガチャ切りしてしまったため、詳しく何があったのかはまだ聞いていない。
だが、レーコがそれだけパワーアップしたということは、向こうで相応の事件があったのだろう。それがこの異変に関係していると見てまず間違いない。
「ところで聖女様、そのタイザンカタリトカゲとやらはどういう動物なんだ? 少しでも獰猛な要素とかはあるのか?」
「いいえ。とても賢くはありますが、年がら年中草ばっかり食べてるだけの大人しい動物だそうです。獣医さんたちは『あの邪竜と似てるのは見た目だけだな』って言ってます」
「中身も完全にあいつそのものだ」
元が凶暴な野生動物というなら、訓練でその野生を叩き起こすことも可能かと思ったが、もともとそういう動物なら望みが薄そうだ。
「ですけど心配ないですよ。トカゲさんには以前私がしっかりコーチングしてあげましたから。きっといまごろ最強無敵になっているはずです」
「……は?」
「あれ? アリアンテさん知らないんですか? えっとですね、前に私がトカゲさんに魔物としての心構えを教えてあげたんですよ。一緒に草むしりをしました。その成果で、いまや本物の邪竜レーヴェンディアになっているはずです。つまり私は最強の邪竜の師匠ということになるわけです、えへん」
意味が分からない。
どんな理屈を捏ねれば、草むしりをしただけであのトカゲが最強になるというのか。
アリアンテが怪訝な顔をしていると、自慢げな調子で聖女様はベラベラと事情を解説し始めた。
曰く、レーコの魔力は世界中の『邪竜への恐怖』が集ったものであるということ。
曰く、それをレーヴェンディアに戻すべく、悪事のレクチャーをしてやったということ。
「それはないな」
「えぇっ!?」
ひとしきり聞いてから否定すると聖女様は驚愕の表情となった。
「どうしてですか! これで私はトカゲさんの師匠として世界中に勇名を轟かせるはずだったのに!」
「まず草むしりごときを悪事に勘定するな。どちらかというと善行だろうが。同じ方向性ならばせめて百万歩譲って作物泥棒にしろ」
「駄目ですよ! 農家のみなさんが丹精込めて作った作物を盗むなんてとんでもありません! 悪事を通り越して外道の発想です! 私は悪事を働くにも美学というものがあるんです!」
「そうだな」
これで元魔物とは信じられない。
魔物と見たらわりとすぐ退治するタイプのアリアンテだが、この聖女様とは魔物時代に出会っていたとしても攻撃するのを躊躇したと思う。
「それに、そもそもの前提がおそらく誤っている。『邪竜への恐怖』がレーコに集まったというのは理論としては面白いし、場合によっては私もその推測を信じたかもしれん」
「じゃあどうしてですか」
「あの娘が覚醒して間もなくこの街に来たとき、魔力を使いすぎて疲弊したからだ」
聖女様はいまいち意味が分かっていないようでぽかんとしている。アリアンテは補足を続ける。
「『邪竜への恐怖』という形で外から無限に近い魔力供給を得ていたなら、魔力切れに陥ることはあるまい。あのとき眷属の娘は、一時的に私にすら負けるほど弱体化した。あれが己自身の魔力である何よりの証拠だ」
とはいえ、おそらく今のレーコは自分自身で大量の魔力を保有しているだろうから、魔力切れに陥ることはほぼないだろう。あれは覚醒直後で連戦を重ねたことによるレアケースだ。
「もしあの魔力切れを見ていなかったら、その理論は検討に値したがな……。やりようによっては横奪いすることもできたかもしれん」
無論、草むしりという手法は論外ではあるが。
「それじゃあトカゲさんは今も弱いままということですか?」
「たぶんな。通信で話したときも特に変わった様子はなかった」
「そうですか……でもまあレーコ様が付いているし実質最強のようなものですよね。どうあれ私が最強の邪竜の師匠という構図に変化はありません」
けろりとした口調で聖女様が開き直る。
この小物臭い性格も一周回って大物っぽさがある気がする。
止めていた荷造りの手を再開し、一通りの必要物資を背嚢に詰め終える。狩神の洞窟は近場なので、この物資は主にレーヴェンディアたちへの差し入れだ。
若返りの薬も補充してやるか――と考えて、やめた。最初に渡した分だけで数年分にはなるだろうし、なかなか高価なものなのだ。
「だいたい揃ったし、出発するか。行くぞ聖女様」
「はいっ!」
道場で修行に励むライオットを放置し、聖女様とともに裏口から外に出る。
あとはここにドラドラを呼ぶだけだ。
厄介者ではあったが、移動の足としては便利なので最近は意外と助かっている。前からの愛馬がヘソを曲げがちなのは申し訳ないが。
「ドラドラさんといえばあの銀竜さんですよね。私とは何かと因縁があった方ですが、まさか背中に乗せてもらう日がくるとは思いませんでした。雨降って地固まるというやつですね」
「いうほどお前と因縁があったか……?」
確かにセーレンの町を襲いに来た魔王軍の一員ではあったが、たぶん今のドラドラにとって聖女様は眼中にない。
呆れつつも、とりあえず呼び出しに指笛を吹く。
これで普段は十数秒でやってくる。
「……来ないな」
「留守なんじゃないですか?」
「いいや。あいつがここを留守にするのは、他の冒険者連中と修行で戦って一旦逃げるときだけだ。今日は私が足に使う予定だから、あまり痛めつけるなと連中には言ってある」
「相変わらずこの街は怖いですねえ」
ドラドラ自身もそれを承知で残っているのだから、同情の必要はないだろう。
とはいえ数分待っても一向にドラドラがやってこない。
「嫌気が差していなくなっちゃったんじゃないですか?」
「根性はある奴と思っていたが……」
ただの足とするなら馬で代用は効くが、今回は元・魔王軍としてドラドラの出席も不可欠だ。
と、そのとき。
「あっ、あれじゃないですか?」
聖女様が指さしたのは城壁の外。
ずいぶん緩慢な動きで、ふらふらと揺れながら空に舞い上がるドラドラの影があった。
だが、満足に飛べないようですぐに地に落ちていく。
「……弱っているな」
街の誰かが言いつけを破って勝手にドラドラをしばいたのか。
いいや、それはあり得ない。そんな勝手な真似をする奴は自分が叩きのめすし、この街の連中はそれを十分に心得ている。
「聖女様、行くぞ」
「はい」
アリアンテは聖女様を小脇に抱え、凄まじい速さで疾駆する。
次々と建物の屋根を跳び移り、その勢いのまま街を囲う城壁を垂直に駆け登る。
登った城壁を反対側へと飛び降りれば、ついさっきドラドラが落ちていった場所である。
そこには、ひっくり返って小刻みに震えているドラドラがいた。
言い方は悪いが、死にかけの昆虫のようだった。




