魔王の居所
しばらく、誰も声を発さなかった。
ただ一人枢機卿だけが「ところでこの数字は何なのでしょう? 聖なる意味を持つ数字ということであれば我らの教義に加えたいと思いますが」と能天気に跪いている。彼のことはひとまずスルーを決める。
「え、えっとね……さすがにそこまでは考え過ぎじゃないかの? だってレーコ、いつもとそんなに変わっておらんし……そこまで桁違いになっているとは思えんよ?」
『お、おう。そうだな……』
わしと焔華は額に汗を浮かべながら、拭き掃除に勤しむレーコをそっと向く。
レーコは淡々と大理石製の聖堂の床を拭いている。
――拭いた跡にバキバキとヒビ割れを刻みながら。
「おっと……まだこの溢れ出るパワーに力の調整が追いついていないようですね。ふふ、早く制御を心得ねば。なんせこの世の万物はすべて邪竜様の所有物。この私がうっかり力を解放して、すべてを灰燼にしてしまうわけにはいきません……」
楽しげに、そして怪しげにほくそ笑んでいるレーコ。
「ふぅむ。あの小娘、やはりなかなか大した奴であるな。これは吾輩も負けていられん、精進に励まねば。焔華よ、決闘はお預けでも組手ぐらいは付き合ってくれるな?」
『うるせえ一人で便所掃除でもしてろ』
「分かった。後でしておく」
ヨロさんはマントから便所ブラシを取りだした。だいたいの日用品が収納されているようである。
『それより爺さん。さっさとあのちびっ子を説得して力を没収してこい。『物騒だから99%預かるね』とか言えば削減できるだろ』
「わ、分かったよ焔華さん。わし頑張ってくる」
意を決してわしは拭き掃除中のレーコに歩み寄る。
「の、のうレーコ。さっきはお疲れ様じゃったの。パワーアップした感じはどうじゃの?」
「はっ。なんら問題ありません。あと数時間のうちに完璧に制御下に収められるでしょう」
「それなんじゃけどね。わしもちょっと調子に乗りすぎたというか、あの倍率はちょっと上げ過ぎた気がしなくもなくての……だから大幅に魔力を一時カットしようと思うんじゃけど、ええ?」
返事がない。
ショックを受けているのだろうか――と思ってレーコの顔をよく見ると、何か違和感があった。
ぱたりと耳を折りたたんで、わしの言葉に文字通り耳を塞いでいた。
「申し訳ありません邪竜様。溢れ出る膨大な魔力が私の耳に流れ着き、耳が一時的に攣ってしまったようです。残念なことにその至言が聞こえそうにありません」
「耳が攣るとかいう生理現象をわしは5000年間で聞いたことがないよ。ねえレーコ? 聞こえておるよね? 聞こえた上で都合の悪い内容から逃げておるよね?」
「私が邪竜様の言葉に耳を塞ぐなどありえません」
「ほら聞こえてる」
わしが前脚をびしりと向けてレーコの耳を指すと、レーコは観念して耳を開きつつも、不満そうなふくれ面となった。
「なぜです邪竜様。これだけの力があればもはや魔王など恐るるに足りません。先制強襲を仕掛けて一秒以下で消し炭にすることが可能です」
「ま、まあそれはそうなんじゃけどね……」
そう言われると少し揺らぐ。
少なくとも魔王を退治するまでは、今のままでもいいかもしれない。不意打ちで今のレーコの全力攻撃を当てればほとんどノーリスクでやっつけられるだろうし。全力攻撃で魔王以上の大災害を起こさないように注意してもらう必要はあるけど。
「今この場で実演してみせましょう。以前は失敗しましたが、今の私なら容易に敵の根城を発見できるはず――『開け第三の眼 邪竜の千里眼 ~万物の息吹を感じて~』」
「パワーアップしたら技名にサブタイトルが付くんじゃね」
レーコの目から発せられた蒼い光が大聖堂の広間を照らす。
「ふふ……少々お待ちください。発見次第、亜空間を介して魔王の懐に飛び込み、反応する隙もなく全力の爪撃で消し飛ばしてくれます」
「お願いじゃからその爪撃の二次被害にだけは配慮してね?」
もしかすると本当に魔王討伐の旅はあと数秒で終わるのかもしれない。
わしは些細な期待と不安を抱えて待っていたが――レーコの表情はだんだんと渋くなってくる。
「どうしたのレーコ?」
「妙です。邪竜様からこれだけ膨大な力をいただいた私の目に、見えぬものなど何一つないはずです。だというのに、なぜどこにも……?」
困惑するレーコの近くに、歩み寄ってくる者があった。便所ブラシを肩に担いだままのヨロさんである。
「小娘。手がかりがないなら、吾輩の魔力を追ってみろ」
「貴様の魔力を?」
「ああ。吾輩が消滅しかけたとき――感じたのだ。霧散した吾輩の『魔王』としての魔力が、どこかに奪い去られていくのをな。その先に貴様の敵がいるはずだ。探してみるがいい」
「なぜ貴様の指図を受けねばならん」
意固地になりかけるレーコだったが、ヨロさんは「ふむ」と己の顎に拳を添えた。
「無理にとは言わんがな。しかしこれは、そこの邪竜が吾輩を倒したからこそ出てきた手がかりといえる。主が激闘の末に与えてくれたヒントを無碍にするのは貴様の本意ではないと思うが?」
「何を言う貴様ふざけるな私が邪竜様の労を無駄にするはずがあるか見ていろすぐに探して見つけてやる」
とてつもない早口で激昂したレーコが、目の輝きをさらに上げた。わしがヨロさんの顔を向くと、彼は口元で得意そうに笑っていた。
すっかりわしとレーコの関係性を見抜かれている。やっぱりお手上げである。
「――む」
そしてレーコが唸り、瞳の輝きを鎮めた。今にもトンデモ技を発揮して魔王の元にいくかとハラハラしたが、幸か不幸か動き出そうとする気配はない。
「ど、どう? 見つかったかの?」
「いませんでした」
「そっか。でも落ち込んだらいかんよレーコ。地道に探していけば見つかるかもしれんのじゃし」
「いいえ。見つからなかったのではなく、いませんでした」
わしは首を傾げた。
レーコは己の見た事実に絶対の自信があるのか、揺るぎのない声色で告げる。
「今のこの世界のどこにも、魔王などという者は存在しません」




