こどもの名前
こどもの名前
「野菜ジュースの国産無添加って言葉がいつも気になってね。無添加にこだわるのは分かるよ。添加物は体に悪いそうだから。でも日本の土だと美味しい野菜ができるなんて話は聞いたことないし。別にインド産やフィリピン産でもいいじゃないかって。インド産無添加野菜ジュースなんてあったら迷いながらも冒険心で買うと思う。でも。遠い国から野菜を輸入する時はやっぱり添加物が必要になるのかな?」
恵子は進の話をぼんやりと聞き流しながらタスポを吸っていた。
二人はビジネスホテルのツインルームにいた。
ベッドの上の二人はお互いのことを見ていない。
二人は天井を見つめている。
大抵は二人の家のどちらかで寝る。
長い付き合いなのでお互いの部屋のことはほとんど把握している。
忙しく働く日々の中の間にある、ほんのひとときの休息。互いの休息が重なれば、恵子と進は互いの体を重ねていた。
繰り返される毎日。
同じ一日など決してないはずなのに、同じこと毎日繰り返しているような気がする。二人はいつもと違うなにかを求めていた。
二人のうちどちらかが、そういうなにかを求める時、ネットで調べたビジネスホテルに泊まるようにしている。ラブホテルを選ばない理由は進が嫌がるからだ。彼は交わりを終えた後にラブホテル独特の空間に居心地の悪さを感じてしまう。普通の会話をするには不似合いな場所じゃないかと恵子に言った。ラブホテルというものもさまざまで、色々と工夫されている。そのさまざまな工夫の中から彼が好むラブホテルを選択すればいいが、一つ探しあててそこに通い続ければ、やはりそこもいずれ、繰り返しの中の一つになってしまう。好みのラブホテルを探し続けるのは面倒なので、適当に選んだビジネスホテルに宿泊しようと二人で話し合って決めた。
いま二人はツインルームにいる。この部屋は二つのベッドと一体型の風呂トイレしかない。部屋の空間のほとんどがベッドで、どうにかそれらの中を移動できる程度の広さだった。シングルだとベッドが小さすぎるのでツインを選んでいる。彼らは裕福でもなければ貧乏でもない。たまの贅沢としてもう少し上等な部屋を選ぶこともできたが、その空間もやはり進は嫌がるかもしれない。そうして都会のビジネスホテルの料金というものは彼らにとっては決して安いと言いきれる料金ではなかった。
彼女は電子タバコの味があまり好きではなかった。普通のタバコと味が違うのかと聞かれると、安タバコのほうがまだマシ。そう答えていた。会社や人との付き合いの中でタバコの煙や臭いを嫌う人がいる。喫煙禁止のマークがいたるところにある。味に不満はあっても、タバコによって相手への不快感を与えたくないので電子タバコを吸っている。そうしてなぜだか分からないが以前のように吸えずに焦ることがなくなった。
二人は男女の長い付き合いの中で当然陥る倦怠の中にいた。進は結婚したがっているが恵子はそれをやんわりと拒んでいた。それは彼女の家庭があまりうまくいってなかったこと。それに彼女はこどもをあまり好きではなかった。
「ちょっとシャワー浴びる。」
恵子は掛布団から抜け出し、裸のままシャワールームに入っていった。
鏡の前に立ち、肩まで伸びた髪と自分の顔を見た。年相応の顔だった。成長ではなく徐々に老化へ歩いていること。彼女はそこと向き合うことはなるだけ避けるようにしている。
鏡を見ながら髪を束ねていると進が入ってきた。それから恵子をしげしげと見つめた。彼女は彼に目を向け、それから股間の方に視線を移した。僅かにふくらんでいた。彼は髪を束ねた女性が好きだった。うなじを見ていると女性特有のなにかを感じる。そのことは彼女に言ったことがある。彼は彼女に髪を束ねてほしかった。けれど彼女は常にそういう視線で見られるのは嫌だったので普段、束ねることはなかった。
進は恵子から視線を外し彼女の背中を通って浴槽の前に立った。それから蛇口をひねりお湯をためはじめた。
お湯がたまるのを見ながら進は言った。
「こんど旅行でも行かない?」
「旅行ねえ。行きたいけど、仕事が忙しいからあんまり遠くには行けないし。」
進はたまるお湯を見ながら色々考えた。
恵子も髪を束ねながら色々考えた。
浴槽にお湯がたまり進は湯船につかった。髪を束ねた恵子は彼に背を向ける格好でつかった。
進は恵子の体を包み込むように軽く抱きしめた。
「好きだよ。」
「私も。」
抱きしめているのにはなれているような、そんな気がした。
進は乳房のふちをゆっくりとなぞった。
彼は胸のことはそれほど気にしないタイプだった。恵子の裸を見るまえは少し大きいくらいにしか思っていなかったが、じっさいに裸になった姿を見ると想像していたより大きかった。
なぞりながら進は言った。
「こんなに大きかったら肩がこりやすそう。」
「どうかしら。自分ではこりやすいとは思わないけど」
進は指でなぞることをやめてお腹を両手で包んだ。
恵子はなにか疲れたような、そんな顔をして言った。
「十代のころはこの胸が嫌いだった。男の人と会うと顔を見たあと、胸に目をうつす人が多かったから。今は気にならなくなったけど。」
恵子の言葉について進はしばらく考えた。考えた後に言った。
「でも僕は恵子の胸はいいと思う。赤ちゃんが生まれたらきっと大きくてよかったと思うようになるよ。あかちゃんって視力が弱いらしいから、大きいとそれだけおっぱいを見つけやすいだろうし。」
それから胸に左手の人差し指と中指をあてた。
「あかちゃんが母乳を飲むとき、こんな風に手で押さえるでしょ?大きいぶんだけ手でおさえやすいと思う。恵子はいいお母さんになると思う。背が低いから低いぶんだけこどもと同じ目線になる。低いぶんだけこどものことを見守ってあげられる。でも背の高い人も高いぶんだけこどものことをよく見守ってあげられる。胸がちいさい人もきっと僕の知らないお母さんとしてのよさがあると思う。」
背中をあてる硬い感触がなくなっていた。道子は彼の話について考えた。
「そういうこと言われても私はうれしくない。まるで女の人がこどもを作るためだけの人形みたいじゃない。」
彼と結婚したい気持ち。彼とこのままでいたい気持ち。彼との結婚を夢見る気持ち。そうして女として妻という役割を担わなければいけいということへの恐れ。
彼女は母親となった自分の姿が想像できなかった。となりに彼がいてこどもたちが家を走り回っている姿も想像できなかった。そして、なぜだかその生活が悪い方向へ向かっていく煙のような不安はあった。
けれども自分は年をとっていく。年をとった後で後悔しても時間は巻きもどらない。
色々な思いが渦巻く中でため息を一つついた。
それから言葉のひとつひとつをしぼりだすようにして言った。
「もしも、もしもだけど、わたしたちのこどもが生まれたら、どんな名前をつける?」