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第9話  旅館のアルバイト

 マキノは、御芳の家の最寄りの駅近くのコンビニに寄って求人情報誌を手に入れ、さっそく近隣でバイトを探し始めた。


 お金のことを考えると、会社を辞めてしまったのは早まったか?と悔やみそうになる。

 いや、私は不器用なんだから会社に勤めたままでは前に進めない。すぐには開業できないのは分かっていたことなのだから、バイトをして資金を減らさないようにしつつ進めて行こう。いろんなやり方はあると思うけど、自分はこれでいい。そう思うことにした。


 求人誌を睨んでページをめくる。都市部の求人誌と比べてはいけないが、圧倒的に求人数も少なくて、時給が低い。これが田舎ってことなんだろうか。スーパーやコンビニのレジ打ちのバイトならありそうだけど、一番近くでも車で十分走らないといけない。・・いやいや、通勤距離はそれほど問題はないのだが、レジ打ちと言う仕事そのものに魅力を感じなかった。


 考えてみれば季節は今春。そして4月。御芳山には花見客が来るはずだ。まずは短期で御芳山周辺の旅館をあたってみることにした。御芳山の宿泊施設も求人誌にいくつか載っている。その中から、名前が気に入ったという理由で適当に「花矢倉」という旅館を選んだ。軽い気持ちで電話を入れると、すぐにでも面接に来てと言われてしまった。


 マキノは覚えのある道を、車を走らせて御芳山へと向かった。自分の家からは20分程だった。

 まだ桜は咲き揃ってもいないのに山は人でにぎわっている。寂しかった1年半前の秋のようすが嘘のようだ。

 旅館花矢倉は、なかなか趣のある純和風の建物で、御芳山の旅館街の中では大きい方らしかった。面接のほうは、女将と一言二言雑談をしただけで、即採用になった。


「お部屋係の仲居さんについて、お運びや片付けを手伝って欲しいの。ちょっと待ってね。」

 面接はフロントの中にある応接セットで受けていたのだが、女将さんはその途中で玄関に見えたお客様を出迎えにさっと立って出て行った。・・忙しそうだ。

「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ。お疲れのところ恐れ入ります。お宿帳のご記入をお願いいたします。美奈子さ~ん。」


 女将は一人で接客をして、裏の方に向かって仲居さんを呼んだ。美奈子さんと呼ばれたおばさんが出てくると、今度はマキノに向かって有無を言わさぬ笑顔を向けた。

「急で悪いけど今から仕事してもらうこと、できるかな?」

「え?・・まぁ、大丈夫ですけども。」


 マキノの思惑としては面接に来ただけのつもりだったから、少し強引にも感じたが、次々と押し寄せてくるお客様を見てすぐに状況を受け入れた。

「美奈ちゃんについてたら自然と分かるからね。」

「は・・はい。」


 Gパンでもいいのかなぁ。と不安になりつつ、マキノは美奈子さんの後についた。

「じゃあ、これを持ってついてきて。」

 美奈子さんもバイトの扱いに慣れているのか、すぐさまお客様が持っていたキャリアケースをマキノに持つように指示を出した。お客様の荷物は、大きさの割にそれほど重くはなかった。

「お部屋番号は233になります。どうぞこちらへ。」


 お客様は、落ち着いた感じのカップルだ。自分の母親ぐらいの年齢であろうと思われる。

「こちらの階段を降りますと、大浴場かげろうの湯と自販機とゲームコーナーがありまして、本日は男湯でございます。女湯はフロント前を通って本館地下の東雲の湯となっております。非常出口は・・・」

 お客さんを案内しながら美奈子さんが説明する。自分も聞き耳を立てる。すべてが学習だ。次のお客さんには自分が説明しなくちゃいけないかもしれない。

 部屋の前まで来ると、その場で待つように言われたので、その階のパントリーに控えて待つことにした。美奈子さんはお部屋でお客さんにお茶をお出ししてから戻ってきた。


「さて、あなたのお名前は?マキノちゃんか。わたし美奈子。よろしくね。このあと厨房からお料理をこのパントリーまで運ぶから、手伝ってね。」

 その日の美奈子さんの担当は新館の2階の5部屋で、ひとりサブがつく予定だったが、急に来られなくなって、女将さん自身が手伝いに入るか売店のバイトさんにお運びを手伝ってもらうかと考えていたそうだ。そんなところにマキノが3時頃から面接にくるという電話をかけたものだから、今日の花矢倉にとって願ったりかなったりだったのだ。


 厨房では、番頭さんみたいな人がどの棟のどの階にどんなお料理を上げるのか仕切っていた。料理のランクも宿泊料金によって少しずつ違うのでかなり複雑な仕事だ。

「新館の2階、前菜と酢の物持って行ってー」と番頭さんが叫んだ。新館2階って、美奈子さんの担当の分だったはずなので、女将が館内図に割り振りを書き込んである部屋番号を確かめてから「231から236のお料理運びます。」と声をかけた。

 番頭さんからは、お料理用のエレベーターではなく厨房横の階段から持って行くように言われた。 この旅館の夕食は、お客様に食堂まできていただくのではなく、それぞれの部屋まで運ぶことになっているようだ。そして、お料理を運ぶリフトエレベーターは3階や別館の料理が優先らしい。リフトなら1回で運べるところを自分で脇取を持って2回階段を上り下りする。こりゃ大変だ。旅館の仕事は体力勝負だな。


 お客様の食事の時間を聞いて、希望が重なれば十分でもずらしてもらうようにうまく誘導し、先にお風呂へご案内したりして時間調整をする。お客さんが離席している間に、お膳の用意を美奈子さんに教えてもらいながら、前菜や小鉢物と酢の物、小鍋のセットその手前に取り皿とレンゲを並べてゆく。「本日のお品書き」を真ん中にのせると、これでお料理は全部ではないが、とりあえず始められる。炊き合わせ、お造りとたまり、アユの焼き物と蓼酢を順番に置いていく。そこからは、お客様の食べる速度に合わせて、あとからお出しするのだ。


 お客様がお風呂から戻り、席について次々と食事がはじまった。

 美奈子さんは、それぞれからお酒とビールの注文を聞いて、マキノにフロントの横の部屋の冷蔵庫から取ってくるように指示を出す。

「部屋ごとに何本ずつ出たか、数えておいてね。あとでフロントにまとめて出さないといけないから。絶対間違っちゃだめよ。任せたからね。」

「了解です。」

マキノは、パントリーの電話の横に置いてあったメモ用紙に部屋の番号と酒とビールに正の字を書きとめていった。美奈子さんが下げてくる空いた器を厨房に戻して、続きの料理を運ぶ。天ぷら、茶わん蒸し、汁物とごはんと香の物。そして果物で終了。大変だけど、勉強になる。カフェの学校では習わなかった懐石料理が自然と学べそうだ、・・と感心している間もなく、パントリーの電話が鳴り、飲み物の追加とフロントや厨房からの指示が飛び交う。なかなかハードだ。

 お客様の食事が一段落すると、美奈子さんについて食事のかたづけをし、お部屋に布団を敷いて回り、本日の仕事が終わると夜9時になっていた。ヘトヘトだ。そしておなかが減った。美奈子さんについてまかない部屋へ入って遅い夕食をいただく。

「今日は助かったわ~。どうなることかと思ったけど。春はね。食べられるときに食べとかないと、遠慮してると食いはぐれるのよね。」

 美奈子さんは、そう言いながらマキノに千円札を一枚差し出してきた。

「233号室のお客さんがチップをくれたから、山分けね。大昔はチップを出してくれる人がたくさんいたから、それをみんなで貯金箱に貯めて厨房や洗い場やお掃除の人たちみんなで分けてたの。最近はめったにないから、そんな貯金箱もなくなったけどね。」

 まかないをいただいてから、女将さんに飲み物の報告をした。

「お疲れさま。有望なバイトちゃんが来てくれてホント大助かり。遅くまでありがとねぇ。」

いきなり激務の雇用だったが、女将さんには悪びれている様子はなかった。

「明日も出勤で大丈夫?基本8時から8時というお約束でどうかな。もちろん休憩を入れてもらったらいいんだけど、春はこんな感じでこちらから休んでって勧めてあげられないと思うから、自分で適当にやってもらえたらありがたいの。」

「わかりました。では、明日から8時に来ます。」

「まかないは朝昼晩いつでも食べてもらっていいし、女子寮もあるし、泊まり込みでもいいのよ。通勤が楽でしょ?洗い場のおばちゃんたちが寝泊まりしてる本館の下は景色がいいわよ~。今から大浴場でお風呂入ってから帰ったらどう?」

「はい。ありがとうございます。」

マキノは、礼を言いながらも、女将の甘くて黒い笑顔を振りきってお風呂は入らずに帰宅した。スマートフォンの万歩計を見ると、久しぶりに1万4千歩を数えていた。あの様子じゃ、よほど上手に隠れないと、休憩どころか食事もとれそうにない。約束の8時に帰るのも厳しそうに見えた。若干ブラックを感じる・・。でも、季節によって仕事も変わるだろうし今が一番忙しいはずだ。ここは永久就職先ってわけでもないし、板場さんのやっていることも観察できるし、接客もおもしろいし、必要な物を吸収して、雇ってもらった恩は、お給料の分きっちりと働いて義理を果たせばいい。

 やれるところまで頑張ってみよう。



 翌日の朝。出勤してフロントに声をかけると、女将さんはマキノのために作務衣を用意してくれてあった。

「お手伝いだからジーンズでもいいのよ。でも、あなたが着物を着ればとてもとても上等だと思うんだけどねぇ。」

 暗に仲居さんをしてくれと言われたのかな?女将さんの笑顔が黒い。お給料が増える?と思うと多少ぐらり・・やっぱいやだな。お酒を飲む人の相手は苦手だ。


 マキノは、朝出勤すると、まず作務衣に着替えしばらくは売店に入る。お客様が、朝食を済ませるとチェックアウトまでの時間を売店やロビーでぶらぶらと過ごすからだ。それが落ち着きお客様が帰ってゆくと、昨夜の続きで美奈子さんの助手として部屋の掃除を手伝う。昼食の予約が入っていれば仲居さん達は手分けして対応し、なければ夕方まで休憩になる。


 マキノは、掃除が終わったあとしばらく休憩をもらって、この旅館の庭をぶらぶらと散歩をした。 庭の小さな池の横では、樹齢髙そうな枝垂桜が咲きはじめていた。大きな木だが、幹の中にはうろができているようだ。腐って枯れてしまわないのかしらと心配になった。庭も広ければ手入れが大変だろう。ここの庭だけでなく、御芳の山は桜の木が主役になっている。桜は病気に弱い木らしいが、自然に任せて桜の成長を放っておけば他の木に浸食され廃れていくのではないのだろうか。

 人の手で世話をしないと・・。


 そこまで思いを馳せたところで、この近くで木の管理をしているはずのタツヒコさんのことを思い出した。

 こんなに近くまで来ているのに、ポムドテールや、山本モータースさんのお店にも顔を出せてない。お世話になることもあるだろうから、挨拶に行こうと思う。

 タツヒコさんにも、縁があればきっと、わざわざ探さなくても、いつか会えるにちがいない。



 旅館の仕事はおもしろかった。せっかくなので、空いた時間には厨房に入り浸って板場さんの仕事を観察するようにした。本格的にとったお出汁に感動したり、名前も知らないきのこや一般家庭では使わない食材の使い方や相性を教えてもらったり。仲居さんからは、お膳の並べ方やお料理を出す際の作法を教わった。初めて知ることばかりで、おもしろい。

「マキノちゃん、こっちお願い。」「マキノちゃん、手伝って~。」

 女将さんと、洗い場のおばちゃんから同時に声がかかった。

「ごめんね。女将さんの声を優先させてもらうね~。」

 自分の仕事をちょっとでも楽にしたくて、誰もが手の空いた者を見ると虎視眈々と狙っている。自分で調整してうまく隠れないとホントにブラックだ。


 しかし逆にそのブラックさがおもしろく、マキノはその忙しさを楽しんでいた。


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