第8話 出発
マキノは、実家に夕方の5時頃帰宅した。
さすがにもう家族にも黙っていられない。この興奮の冷めない、今日のうちに、発表することにした。
バイクのエンジンを止めて母さんの様子をうかがう。
母さんは、いつも通りに台所で食事の用意をしていた。
「ただいま。」
「おかえり。」
ヘルメットを居間の隅っこのサイドボードの上に置く。和風の部屋にこんなものを置くのはなんとも不似合いだ。
「今日は何?」
「天ぷら。メインはイカ。」
「手伝うよ。野菜は?」
「サツマイモとピーマンとしいたけ、ナス、インゲン豆、玉ねぎ。酢の物と、煮びたしが残ってるのよ。あなたは大根おろしをお願いね。」
「わかった。・・そんなに食べられるのかな?万里子姉は?」
「もうすぐ終わるでしょ。今日も食べて帰るって。」
「あんなに旦那さんの事ほったらかして、捨てられちゃうよね。」
「・・なんですって?」
万里子が仕事を終えたらしく、絶妙なタイミングで台所に入ってきた。
「なんでもないよ~。幸久義兄さんのごはんは?」
「それ、持って帰れるかな?」
万里子は、マキノがおろしている大根の横の天ぷらの盛り合わせを指さした。
「だって、ちょっと遅くなっただけで、幸久さん自分で作って食べちゃうんだもの。」
「便利な旦那さんだよね。わたしもそういう人がいいな。」
「マキノは?彼氏はできないの?」
「ダメだね。あの会社には私の眼鏡にかなう人はいない。」
「逆じゃないの?・・天ぷらにきゅうりと小松菜かぁ・・食べて帰ろっかなぁ・・。」
万里子はそう言って食卓に座り込んだ。
マキノは、そのまま黙って、手抜き技で市販の天つゆの素を薄めてレンジで温めながら、息を整えつつ話を始めるタイミングを測っていた。
小松菜も小鉢に盛りわけてから、ようやく口を開いた。
「あのぅ・・あのね・・。お話があるんです。」
母さんと万里子が同時にマキノの顔を見た。
「まじめな顔して、どうしたの?」
万里子が言った。
「わたくし今日、大きな買い物をすることにしたのです。」
「・・何を?」
万里子がたずねる。
「家。」
「えええ?なにそれ?どこに?」
「んーと・・・田舎。」
「なんのためによ!・・結婚じゃないよね?彼氏いないって言ったものね。あっ!わかった。最近、休みのたびにバイクでうろうろしてたことでしょう。」
「・・うん。」
「いったい何を考えてんの・・結婚も決まってないのに家なんか買っちゃダメでしょ。」
「んと・・んと・・。わたし、脱サラしようかなと思って。」
「ええー脱サラ!!もったいない!」
一刀両断で痛いところをついてくる万里子の言葉をかわしつつ、マキノは言葉をつづけた。
「・・せっかく就職したのにバカだと思うけど・・。違う仕事をしたいの。」
「違う仕事ですって?」
「うん・・古民家を改装して、カフェをやりたいの。」
「えー・・。そんな。ほんとに薮から棒じゃない・・なんなのそれ、突然に。」
「万里子。黙ってマキノの言うこと聞いてあげなさいよ。」
母さんは、まぁまぁと上下に手のひらを振って万里子を黙らせた。
「自分の人生に向き合おうって考えたら、やりたいことがそれだったの。」
「そう言えば、だいぶ前にお金貯めるって言ってたね。ハイツまで引き払って・・。」
「うん・・・でもまだ、そんなに貯まってないんだけどね・・。今日すごくいい物件が見つかって、それでそこに決めちゃったんだ。」
万里子は大げさにため息をついた。
「マキノ・・・いくらなんでも、素人が簡単にできるものではないでしょ?改装だってお金がかかるんだろうし・・」
「うん。わかってるよ。勉強はするつもりだし、お金の足りない分は借りようと思う。」
「・・借金まで、背負うつもりなの・・?」
万里子もだんだんマキノの本気度を理解し始めた。
「いいんじゃないの?マキノの人生なんだから。」
「母さん・・。もう、ちょっとぉ・・。」
「足りない分どれくらい?」
逆に、母さんはすんなりと話を受け入れたようだ。
「えー・・母さん・・。マキノに甘いよ・・。」
それを聞いた万里子が目を丸くした。
マキノは物件の詳細を書いた書類と、今まで貯めた通帳をテーブルの上に広げた。
「これなんだけど・・・。」
母さんはまず、その物件がいくらなのかを見て、そのあとマキノの通帳の残高を見た。
「広いのね。土地付きの一戸建てなのに、こんなに安いの?」
「過疎化の進む田舎だし、築五十年以上だもの・・でもこれは特に条件がいいの。」
「勤めてから2年半で、ここまでよく頑張って貯めたね。会社はすぐには辞めないで、3月まで頑張りなさいよ。それなら足りない分にもう少しで届きそうでしょ? 今すぐ決めないといけないなら、その分は母さんが貸してあげるから。」
母さんは最初から分かっていたかのようだ。・・物分かりが、良すぎた。胸が痛くなってくる。こんな我儘娘を、信頼してくれて・・。
「・・ごめんなさい・・ありがとう・・。」
万里子は何度目かのため息をついた。
「一年間もよく黙ってられたわねぇ・・。随分決心が固かったのね。」
「もちろん、いっぱい考えたし、いろいろ迷ったもん・・。」
万里子はもう、何も言わなかった。
契約や登記の手続きは、村上さんに依頼すると、淡々と進んだ。期日までに約束の金額を振込み、思ったより簡単に、不動産を所有してしまった。
マキノは、これまで妄想でしかなかった夢に向かって、ついに目に見える一歩を進めた。
しかし、古民家は手に入れることになったが、このままの状態でカフェを開くのはちょっと問題がある。「カフェ」という単語を使えるようにするには、大幅な改修が必要だ・・。
それは、できれば地元の業者にお願いしたほうが良いのではないか・・と思う。
とりあえず住むことはできるので、万里子の居住区を侵していたマキノの家財と家電を引っ越し業者に頼んで運び込み、電気や水道、ガスなどのライフラインも手続きをした。給湯器とエアコン1台もそのまま取り外されていなかったので、お風呂や台所がすぐに使えるようになった。
家が、生活可能になると、マキノはお天気の良い土曜日にはバイクを走らせて一泊旅行のように泊まって帰ったりもした。そうして、ここでの暮らしのイメージを膨らませた。
そして、十一月からは、カフェ教室に通い始め、それを4か月間で終了した。たった十六回の講習だが、ドリンクとフードの実習はもちろん、インテリアや経営についても学べるカリキュラムだったので、少しは知識が増えたと思う。実際の場に直面しないと、役に立つのかどうかは定かではないが、心構えと安心感が違う。
手持ちのお金は、不動産を買う時に一旦ゼロになったけれども、その後も実家から通って節約した分でぐいぐいと復活してきた。 母さんから借りた分は、しばらくは返済を待ってもらい、さしあたって必要な改装費用のために備えさせてもらうことにした。
それから、田舎で生きていくには自動車も必需品。まだまだ出費はかさむ。移動手段がバイクだけでは、荷物も運べないし、雨の時に困るし、バスは本数も限られているし、買い物ひとつでも不便だ。値段も手ごろで乗りやすい中古の軽自動車を買うことにした。車とバイクと2台も維持管理できるのか、バイクは処分しようかと悩んだ末、もう少し保留にして、しばらくは実家に置いておくことにした。
二十五歳。3月。就職して3年。
マキノは、辞職を願い出た。
職場の皆さんは、ちょっとした送別会をしてくれて、サクラは泣いてくれたし、あんなに苦手だと思っていた上司の糸原女史でさえ別れを惜しんでくれた。こんなことなら、もっと心を開いてお仕事すればよかったと別れ間際になって申し訳なく思う。
今は、わずかな寂しさと期待と不安。そして自分の未来を切り開いていきたいという意欲で胸がいっぱいだった。
出発の日。
マキノは、実家に残っていた衣服や荷物をダンボール箱に詰めて、軽自動車の後ろの座席を倒して積み込んだ。
母さんはパートに出かけていて、いない。
お客さんと雑談をしながらカットをしている万里子に声をかけた。
「行ってくるね。当分帰らないかも。」
「いってらっしゃい。がんばって。」
万里子は一瞬だけこちらを振り返りウインクをした。が、すぐにお客さんに向き直った。
マキノは新天地へと出発した。