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第56話 戻っていく日常、変わっていく日常 その3

「どうしたんだ、マール」

「……なんかね、こう、嬉しさがこみ上げてきてね。今、私、このまま死んでもいいかな、って思っちゃった」

 そう言って、マールは伊織の胸に飛び込んだ。

「駄目だよ、そんな簡単に死ぬとか言ったら……」

 マールは伊織を見上げ、今にもまた零しそうなくらい涙を溜めている。

 そして伊織の心臓を鷲掴みにするような、笑顔で笑ってくれる。

「ホント、真面目なんだから。言葉の綾ってあるでしょ」

 伊織とマールはいつまでも見つめ合ってしまいそうになるが。 

「あの二人、婚約でもしたのかしら?」

「そうでしょ、宝飾店の前なんて、ちょっとムードが足りないけど、問題は気持ちよね」

「そうね、羨ましいわ……」

 往来の女性からの声に恥ずかしくなった伊織。

 マールの肩を抱いて、その場から逃げ出す。

 初夏だというのに、この国はそれほど暑くはない。

 比較的高地にあるのか、それともこの世界の気候がこうなのか。

 おまけに伊織の服は黒に統一されている。

 日本であれば実に暑苦しい恰好、そして結構目立つのだ。

 伊織は自分の趣味で黒地を気に入っているが、この世界でも悪目立ちする可能性もなくはないだろう。


 先ほどの恥ずかしさと初夏の陽気で喉が渇いてくる。

 ひたすら歩いてきたせいか、ここが何処だか分からなくなった伊織。

「あのさ、マール」

「なぁに、イオリさん、えへへ」

「喉乾かない? それと、ここ何処だろう……」

 マールは周りを見回してみる。

「んー、あまり来ない地域ね。確かこの先に…あった、ほら、お母さんのやってる店」

「こんなところにもあるのか」

「うん、ジータで六か所あるの。行きましょ、イオリさん」

 ぐいぐいと引っ張られて店に入る。

「いらっしゃいま……マールディアお嬢様じゃないですか」

 黒い動きやすそうなエプロンドレスを着た、伊織より少し上に見える女性。

 これが私服であれば、伊織と趣味が合いそうな感じの黒地に白。

 ブラウン系の髪を肩にかかるくらいで揃えて、メガネをしている。

「今日はこのお店で接客見てるの? あ、この女性(ひと)ね、うちの侍女の統括をしてるのね」

「お嬢様、結婚前の女性が、男性とそんなはしたないことを──」

 マールは右手を出して手の甲を見せるように掲げる。

「フレス、これ見て、これでもはしたないって言うの?」

 そのフレスと呼ばれた女性はマールの手を見て、メガネを外しハンカチでよく拭いてから顔を近づけてよく見た。

「ま、マールディアお嬢様、それ、もしかして」

「そうよ、ね、イオリさん」

 凄く困った顔をし、苦笑いをしている伊織。

「こ、これは大事件です。今馬車を用意させます、貴女、御者に言って馬車をこちらに回すようにお願いね」

 女性の従業員だろうか、一礼して慌てて走って行く。

「マールディアお嬢様、今日は絶対逃がしませんよ。イオリ様とおっしゃっていましたね。私、侯爵家の侍女を統括しております、フレスコットと申します。貴方もお嬢様と一緒に来て頂けますよね?」

「えっ、それ、どういう……」

「イオリさん」

「ごめんね」

 馬車が店先に横付けされ、マールと一緒に背中を押されて乗り込んでしまう。

 カチャン…

 鍵がかかる音が聞こえて、伊織は不安な気持ちになる。

 行先を告げずに問答無用で馬車に乗せられる。

 もしマールが一緒でなければ暴れているところであった。

 マール関係の場所に連れていかれるのは分かっていたから、気持ちを落ち着けるように努力する。

「イオリさん、ホント、ごめんね」

「大丈夫だよ、ところでどこに向かってるかわかる?」

「うん、私の実家」

「えっ」

「イオリさんが来てからね、私実家に戻ってないの」

 実家に戻っていない、どういうことだろう。

「でもね、今日、大手を振って帰れる理由がやっと出来たの」

 マールは指輪を見て、うっとりとした表情をする。

 その辺は彼女から聞いていた話から、そして今の彼女を見ていれば察することは出来る伊織。

「見合いを退ける為の理由だね」

「うん」

 マールに対してはある程度以上親しくはなれたが、その家族にはどうだろうか。

 勿論、かなり気を付けないと失礼な態度を取ってしまうだろう。

「マール」

「はい」

「もし、俺がマールの家族を怒らせたらどうする?」

「うん、家出するよ」

「そっか……って」

「イオリさんいないと、私もう駄目だもの」

 伊織と同じような事を言うマール。

 マール越しに見える馬車の窓には、徐々に街並みが寂しくなっていく様子が分かる。

 かなりの速度で走っているような感じもする。

 彼女も不安なのだろう、俯いて黙ってしまった。

 伊織は彼女の頭をポンポンと軽く手のひらで叩く。

「ま、そんなに落ち込むなって。何とかなるよきっと」


 馬車がスピードを落とし始めた。

 窓から流れる景色がゆっくりになっていく。

 馬車が停まり、ドアが開いた。

「マールディアお嬢様、到着しました」

 フレスコットがそう告げる。

 マールについて馬車を降りる伊織。

 そして目の前に広がるあり得ない光景。

「なんじゃこりゃぁあ!」

 周囲をレンガに包まれた洋館、いや、洋館というには大きすぎた。

 レンガのブロック一つの大きさが縦一メートル、横二メートルはある。

 分かりやすい例えで言えば、ビジネスホテル並みの大きさだということ。

 あれが大きなレンガ組で出来ているイメージをすればいいだろう。

 大きさがそれくらいあったからだ。

 窓の数を縦に数えても十以上ある。

「マール」

「はい」

「実家ってレベルじゃないだろう」

「そうですか? 王城に比べたら小さいですよ」

 すっかり忘れていた、マールはこの国の序列第二位の貴族だということを。

 もうこうなったら、腹を決めて入るしかないと思った伊織。

「ご案内します、こちらへどうぞ」

 フレスコットが先に進む。

 高さ三メートルはありそうなドアがあった。

 そのドアが開いていく、そう、音も立てずに。

 どのような原理で動いているか分からないが、そんなことは今はどうでもいい。

 玄関ホールに入ると、目の前の両側に緩い螺旋階段があり、伊織達は右側を上っていく。

 二階へ上がり、そのまま右に折れて突き当たりの部屋のドアが開けられた。

 伊織の部屋の数倍はある、待合室のような作りの部屋に通される。

「こちらにお座りになってお待ちください」

 そこにある長さ五メートルはあるテーブルの椅子を引かれ、伊織達は座って待つことになる。

 一度部屋から出たフレスコットが、茶器を持って帰って来る。

「どうぞ」

「はい」

 伊織は一口含み、変な味や苦み、痺れのないことを確かめた。

「イオリさん」

「あ」

「もう……」

 マールにはバレているので、困った顔をされる伊織。

 伊織たちが入ってきたドアが再度開くと、そこから二人の女性が入ってくる。

 一人は見知ったファリル、そして、彼女にとても似ている妙齢の女性だった。

「お母さん、ファリル先生まで」

 マールの母と呼ばれた女性は、椅子に座るとファリルに確認を取る。

「この方が例の?」

「はい、そうです奥様」

「その言い方やめてくれないかしら、貴女といくつも変わらないのに……」

 その女性が伊織の方を向き、目をじっと見る。

 そして柔らかな笑顔で口を開いた。

「貴方がイオリさんね、ファリルから聞いています。私は、マールの母、コゼットと申します」

 伊織はその場で立って一礼し、頭を上げる。

「俺、いや、僕……」

「いつもの通りでいいのですよ」

「はい、すみません。俺、伊織と申します」

 それが伊織がマールとセレン、ミルラ、そしてファリル、ガゼット以外、初めて出会う貴族の女性だった。


沢山のブックマーク、ご評価ありがとうございます。

これからも頑張りますので、よろしくお願いします。

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