プロローグ その2
中等部へ上がっても、小夜子は毎週伊織の部屋にやってきた。
身体の線も丸くなっていき、日に日に女性らしく成長していく小夜子。
どんどん仲が良くなっていったが、それ以上の関係にはならなかった。
知識がなかったわけではないが、お互い触れるだけのキスで満足していたし、焦る必要もなかったのだろう。
外で二人きりで会うことは許されていなかったのもあり、部屋で一緒に勉強をしたり、借りた本の感想を言ったりする逢瀬が続いていく。
ときには小夜子の膝枕で耳かきをしてもらう伊織。
そんなとき、伊織は小夜子に甘える。
耳かきを終える前に眠ってしまう伊織を見る小夜子の表情も、とても幸せそうだった。
高等部に上がり、同じ敷地内にはあるのだが、校舎が男子部女子部に分かれている為学校で逢うことはない。
男子部女子部の校舎の行き来は、校則で禁止されている。
食堂も別々なため唯一方法があるとすれば、生徒会に入る事だった。
中学校では交流のなかった男子部と女子部だったが、高等部からは合同で行事を行うこともある。
伊織は中等部では男子部の生徒会長を務めていたため、高等部で1年のときに立候補するとあっさり当選することができた。
初めての顔合わせで伊織の部屋以外の姿をお互いに見る伊織たち。
学生帽に詰襟姿の伊織。
セーラー服姿の小夜子。
もちろんお互い最初は知らないふりをする。
役員の前に立ち、挨拶をする伊織。
「僕が生徒会長になりました、篠崎伊織です」
副会長に当選していた小夜子も並んで挨拶をする。
「私が副会長になりました、本郷小夜子です」
学年トップと学年二位の二人。
学校での二人は、昼休みには一緒に生徒会室で弁当食べ、放課後は一緒に書類整理などをする。
目が合って微笑み合う以外、恋人同士としての接し方はしていないので、周りも聞いてくることはない。
体育祭のときや学園祭のとき、一緒に学校を盛り上げる。
そんな行事の際、伊織には女性とからここぞとばかりの告白が待っている。
その度に、丁寧に断る伊織。
週末には小夜子に冷やかされることもあったが、小夜子も伊織を信じているので嫉妬をしたりしなかった。
修学旅行も伊織は北海道、小夜子は京都奈良であった。
思い出となるのはやはり、一緒に過ごした生徒会での活動だけであった。
そんな高校生活も間もなく終了を迎える。
卒業式も終わり、伊織と小夜子は部屋でまったりと過ごしている。
「あのね、伊織ちゃん」
「なに?」
「私ね、明日から学校の友達と卒業旅行でフランスに行くのね」
「そっか、楽しんでくるといいよ。見送りは出来ないけど、気を付けて行ってくるんだよ」
「うん、伊織ちゃん大好き」
小夜子は重ねるだけのキスをしてくる。
伊織もお返しと小夜子にキスをする。
「えへへ。幸せだなー」
「そう?」
「うん、大学行ったら伊織ちゃんと一緒に通えるんだよ」
小夜子と伊織は地元の同じ大学を受け、合格していた。
伊織も父からその許しをもらっていて、楽しみで仕方なかったが、それを顔に出すまいと堪えている。
「あ、もうこんな時間」
「準備は終わってるの?」
「うん、あとは明日出るだけだよ」
「じゃ、気を付けて行ってきてね」
「うん、いってきます、伊織ちゃん」
二人は少しだけ長くキスをした。
自然と離れていく二人。
「またね、伊織ちゃん」
「うん、またね」
伊織が部屋で本を読んでいると、小夜子からメールが送られて来る。
スマートフォンのメールを見ると、写真が添付されていた。
そこに写る小夜子は凱旋門をバックに笑顔で笑っている。
メールの本文はこうだった。
『伊織ちゃん、明日帰るからね。お土産楽しみにしててね。大好きだよ。いつまでも一緒にいようね』
これが小夜子の最後のメッセージになるとは思ってもいなかった。
『なんでもいいよ。気を付けて帰って来るんだよ』
そうメールを返した伊織。
明日現地を発てば数日以内に小夜子は帰って来る。
その夜であった。
暇つぶしに流して見ていたテレビの報道特番。
その内容はあまり憶えていない。
ただ犠牲者の名前の中に小夜子の名前があったということだけしか。
伊織は気を失っていた。
伊織が目を覚ますと、そこは病院の個室のようだった。
右腕に点滴の針が刺さっている。
左手を誰かが握っている。
握り返してみた。
その瞬間、その人は声をあげた。
「伊織、大丈夫なの? 私がわかる?」
よく見ると、母志津代だった。
「母さん?」
「そうよ、貴方五日も目を覚まさなかったんだから」
「そうなんだ…小夜子は?」
「小夜子さんは、もういないの。亡くなったのよ……」
「嘘だろう。昨日メール来たんだよ」
「本郷さんからも、婚約は解消してほしいと伝言をもらったの。ご遺体が戻らなかったのもあってね、明日葬儀をすると言っていてわ」
「小夜子、死んじゃったのか……」
翌日、退院した伊織は、小夜子の葬儀に出ることになった。
焼香の際、小夜子の父が話しかけてくる。
「イオリ君、本当に済まない。こんなことになってしまって」
「いえ、本郷さんの方がお辛いでしょう。僕はだいじょ……」
棺に入っていたのは、焼け焦げたパスポートの一部。
パスポートには小夜子の写真の半分だけが焼け残っている。
伊織は声を押し殺して上を向き、涙が流れるのを我慢した。
でもそこから一歩も歩けない。
葬儀が終わるまで、ずっと小夜子の父の横に座ってうつむいていたのだった。
部屋に閉じこもっていた伊織。
最低限の食事だけ摂り、部屋へ戻るだけの生活。
部屋でただひたすら本を読んでいるように見えるが、ページはいつも同じ。
家族が見ても目に精気が感じられない。
大学の入学式が過ぎた。
外に出ることなんてしなかった。
入学手続きと休学届の提出は母がしたようだ。
そのまま一月が経ち、二月が経ち。
それでも伊織は家から出ない。
それでも父も母も伊織がそうしていることを責めるようなことはしなかった。
ある晩、父武蔵が伊織を飲みに誘った。
酒が好きだった伊織は少し飲みたくなった。
もちろん父はそれを知っていたからだ。
黒塗りの自家用車で乗り付けると、そこは高級そうな店構え。
武蔵の行きつけの店なのだろう。
車から出ると同時にクラブのママと数人の女性が出迎える。
「俺の息子の伊織というんだ。こいつに優しくていい子をつけてくれないか? 俺は別の部屋で飲むから。俺より優しい子のがいいだろうと思ってね」
個室に通されると武蔵はママにそう言う。
「そうですね、葉月」
「はい、ママ」
「篠崎様のご長男で伊織さんと言うのよ。お願いできるかしら」
「ナンバーワンの紗也乃さんもいるのに、私でいいんですか?」
「あの子はちょっと性格きついから…」
「わかりました、お任せください」
この女性との出会いが伊織の心の一部を救うことになる。
ぽつんと座る伊織を見た葉月は伊織の異様な様子を感じていた。
仕事として経験してきたことから、その人が機嫌がいいか、悪いかくらいはある程度判断できる。
一つ深呼吸すると、覚悟を決めて伊織の側へやってくる。
「篠崎様、初めまして。葉月と申します。お隣りへ座ってもよろしいですか?」
伊織はやや下を向いたまま返事をする。
「はい。伊織と言います」
「水で割ってもよろしいでしょうか?」
「お願いします」
葉月は何も言わず、水割りを薄めに作って伊織に渡す。
「どうぞ」
伊織はグラスの水割りを一気にあおった。
葉月はその飲み方を見て確信する。
今度は先ほどよりもやや薄めに作り、伊織の前に置いた。
「何も聞いてこないんですね」
「聞いて欲しいのですか?」
「いえ」
「それならば、話したくなるまで待ちます。私が出来る事であれば何でも言ってくださいね」
伊織は無表情で葉月を見るが、また視線を戻しグラスをあおる。
更に薄く、伊織に気付かれない程度の濃度で作り目の前に置いた。
伊織はグラスを持ち、葉月の顔を見る。
「出来たら一人にして欲しいんだけど」
「いえ、それはできません。私はこの店のオーナーママからこの席を任されました。お金を頂いている以上、これは私の仕事です。これだけは譲ることはできないのです」
伊織を慈しむような優しい表情をして、葉月はゆったりとした口調で答える。
伊織よりも五つほど年上なのだろう、化粧も薄く、きつい香水の匂いもしない。
長い髪を結って右側の肩へ流し、膝を揃えて背筋をしっかり伸ばして座っている彼女。
伊織の目をしっかりと見据え、まるで心配でもしているような表情をしていた。
少しだけいらっとした伊織。
グラスの中身を飲み干し、少し乱暴にグラスをテーブルに置き、葉月を見る。
「お金のためですか。何でも言えっていいましたよね? なら、服を脱いで見せてくださいよ。それが出来ないのなら俺を一人にして欲しい」
葉月は少し困ったような顔になる。
ほら見ろ、という表情をする伊織。
「わかりました」
一言そう言うと、葉月は立ちあがって後ろを向いた。
(出来るわけないよな。やっと一人にしてくれるのか)
するとどうだろう、伊織の予想とは全く違うことが起きる。
葉月は首の後ろに両手を持っていき、ドレスのホックを外してジッパーを下ろす。
ドレスを下ろしていき、片方づつ足を抜いて畳んでシートへ置いた。
優しい表情のまま伊織の方を向き、ブラジャーのホックに手をかけようとしたとき。
伊織は慌てて後ろを向いた。
「いいから、いてもいいから。服着てください。俺が馬鹿でした」
布ずれの音が聞こえ、その音が止まると伊織の椅子のあたりに振動を感じる。
「もう着ましたから、こっち向いていいですよ」
伊織は振り向き、安心した。
「なんでそんな無茶なことするんですか」
「そんな今にも泣いてしまいそうな顔をしている篠崎様、いえ、伊織さんを置いていけるわけありません。誰かが一緒にいないと壊れてしまいそうで、放っておけないと思ったのです」
伊織の頭を抱き、自分の膝の上に誘導する。
「何があったかは聞きません。でもまだちゃんと泣けていないのではないですか。私はお金の為に仕事をしているにすぎません。仕事ですから貴方の秘密は守ります。私の前だけでも遠慮しないで泣いてください」
葉月は伊織の頭をつむじから襟足までやさしく撫でる。
ついに伊織の涙腺は決壊した。
葉月の膝に顔を押し付けて泣いてしまった。
「あぁあああああ……」
泣きつかれて葉月の膝の上で寝てしまっている伊織。
コンコン……
「はい」
「葉月、伊織さんの様子は…あら、寝てしまわれたのですね。では私から篠崎様に言っておきましょう」
「ママ」
「なんでしょう」
「改めでお願いがあります。私にこの人を任せてもらえないでしょうか?」
「あら、好きになってしまったのかしら」
「いいえ、もし私がこの人の姉であったら、泣いているなら側にいてあげたいのです。限られた時間でしかありませんが、一緒にいる間は姉のようになりたいんです」
「葉月、あなた亡くなった──」
「あの子の代わりじゃないんです。でも、生きていたらこれくらいの歳なんでしょうね。幼くして亡くなったあの子に。私、姉としてなにひとつしてあげられなかったから。罪滅ぼしみたいなものでしょうか」
愛おしそうに伊織を見ている葉月。
「あなたに任せると言ったんです。最後まで責任もってくださいね」
「はい、ありがとうございます。このまま私の部屋へ連れ帰りたいのは山々ですが、そういう訳にもいきません。近くに部屋を取ってもらえると助かるのですが」
「わかりました。そうさせましょう。黒服の子に部屋に運ばせるから、あなたも一緒に行きなさい」
「ありがとうございます、ママ」
取ってもらった部屋へ行くと、伊織をベッドに寝かせる。
葉月は化粧を落とし、店から持ってきた服に着替える。
デニム地のジーンズにタンクトップを着て、その上からゆったりとした半袖のTシャツを着る。
ベッドの上に上り、伊織の頭をそっと自分の太腿へ乗せた。
寝ている伊織の顔をうっとりと見る葉月。
「まるであの子が帰ってきたみたいね、本当に……」
葉月は今持てる愛情を伊織に注ぎたいと思っていた。
姉のような存在として。
この後、二月程かけて伊織は自分で外に出られるほどには回復していくのであった。
おそらく、葉月との出会いがなければ、伊織は復学出来る程に回復はしなかっただろう。