第1話 魔族領へ
朝、皆に見送られながらマールから借りた馬車へメルリードとレーリアと共に乗り込んだ。
昨日クァールのせいで何もなかったはずなのに、マールの機嫌はすこぶる良かった。
「私だって大人なんです。あれくらいで怒るわけないじゃないですか」
マールはそう言っていた。
今も笑顔で見送ってくれている。
「じゃ、マール行ってくる」
「はい、先生。連絡は入れてくださいね」
「うん。なるべくそうする。でも、魔族領は初めてだからその辺は行ってみないとわかんないよ?」
「もちろんです。気を付けて行ってきてください。メル姉さん、イオリさん頼んだわよ。レーリアちゃんも気を付けてね」
「うん。任された」
「はいっ、行ってきます。すぐ戻ってきますからねっ」
「じゃ、ドルフ、頼んだ」
「はい。行ってらっしゃいませ、旦那様」
馬車を出す。
辺境伯領を出て、暫く行ったあたりで伊織はすっかり忘れていたことに気付いた。
「リーブエルムまで転移しておくかな。あっちにはまだ転移板置いてないけど、どうする?」
「あんなところに置いたらうるさいのが来ちゃうから……」
「あははは。とりあえず、メル姉さんのお義母さんには挨拶していきますか」
「そうしてくれると嬉しいかも」
「レーリアはそっか。魔石版以外で転移したことないんだっけ? 気持ち悪くなったら言うんだよ」
「えっ? あっ、はいっ」
ヴンッ
「め、目の前が……」
これほど明確に長距離の移動をしたことがないはずだった。
魔石版での転移はまるで部屋の移動のようにあっさりとできるから、それほど意識しなくてもよかったのだ。
前に来たときは一面麦に囲まれていたのだが、目の前には雪景色が広がっていた。
「うわー。失敗したな。まさか雪かきされてないとは……」
「昨日、沢山降ったのかもしれないわね。さて、どうしようかしら」
「うん。見える範囲で移動するから大丈夫だよ。レーリア、気持ち悪くなってない?」
「はい、大丈夫です。びっくりしました……」
「ごめんね。ここがもうリーブエルムだよ」
「そう、私の生まれたエルフの国だよ」
「うわぁ、ボクも始めてですよ」
「そういえばさ、レーリア、『にゃ』って言わなくなったよね?」
「はい。アウレアさんに『侍女は正しい言葉遣いをしなければなりません』って教えられましたので」
「屋敷じゃないんだから無理しなくてもいいよ」
「そ、そうですかにゃ?」
「うん。でも偉いよ。ちゃんと使い分けできるなんてね」
「えへへ。嬉しいですにゃ……」
「これよ。これが可愛いのよ……。最近この言葉使ってくれなくなって寂しかったのよね」
「ごめんですにゃ」
「いいの。イオリ、いこっか」
「そうだね」
伊織は目視できる範囲で進んでいく。
すると雪の中、もこもこに着込んだ衛兵が見えてきた。
「あ、姫様じゃないですか、お帰りなさいませ」
長い年月を生きるだけあって、久しぶりという概念ではないのだろう。
実にあっさりとした対応だった。
「お疲れ様。ママいる?」
「はい、どうぞお入りください」
前と違って歓迎されているようだった。
伊織にもしっかりと頭を下げている。
城下は雪かきがされていて、馬車で行けるのだが、ここで預けないと駄目だったのだ。
馬車を預けると、衛兵に負けないくらいにもこもこに着込んだレーリアを連れて歩いて城へ向かっていく。
伊織とメルリードはいつもより一枚多く羽織っているだけだった。
なんとなく見覚えのある街並み。
行き交う人にパームヒルドからの行商人だろうか。
人の姿もあちこちに見られるようになっていた。
「交易結んで良かったと思うよ」
「そうね。前より物資が豊かになっているように感じるわ。馬鹿よね、パパたちって」
「仕方ないでしょ。そういう風習だったんだし」
「イオリに負けたんだからもうそんな風習いらないのよ。でもこれでこっちに戻りやすくなったから助かるわね」
「そうだね」
そんな話をしている間に、大きな木でできた城が目に入ってくる。
レーリアは口をぽかんと開けて上を見上げていた。
「お、おっきいですにゃ」
「そうだね。俺も最初はびっくりしたね」
「ほらイオリ、レーリア。ここは寒いから早く行きましょう」
「うん」
「はいですにゃ」
メルリードの母、シルフェリアが迎えてくれる。
「お帰りなさいメルちゃん。イオリちゃん。あら、その子は?」
「はい、ご主人様の侍女でレーリアと申します」
「お久しぶりです。この子は俺のとこの侍女なんです。この先の魔族領から攫われてきたところを助けて、うちで働いてくれているのですが、一度両親に会わせないとと思いまして。そのついでに寄らせてもらいました」
「そう。それは大変だったわね。いらっしゃい、レーリアちゃん」
「は、はい」
伊織が作った木製の彫像のような優しい顔でレーリアを抱きしめてくれる。
「そういえば、パパは?」
「カルフェならほらそこに」
シルフェリアが指さした場所で土下座をして震えていた、メルリードの父、カルフェルド。
「こ、この前は申し訳ありませんでした。話に聞くと、首が残っていただけマシだったと聞きました……」
「あー。もうその話はいいんですって……」
挨拶も済ませて、シルフェリアが引き留める中、魔族領へ向かうことにした。
「帰りに寄らせてもらいますから」
「えぇ、待ってますよ。私の義理の息子でもあるんですから」
「ありがとうございます」
「レーリアちゃんも待ってるわね」
「はい。ありがとうございます」
「メルちゃん。そういえば、赤ちゃんは?」
「ママ、私まだ……」
「あら、そんなに魅力ないのかしら……」
そんな気まずい見送りでリーブエルムを後にする三人。
馬車に乗り込み、城下を出ていく。
「この先どうしようか。馬車で来て失敗だったかも」
「そうね。車輪が回らなくなるから馬が疲弊しちゃうかもしれないわ」
「んー。あ、そうだ」
伊織はストレージから沢山の木片を出して地面に置いた。
木片を結合させて大きな長い板を二枚作っていく。
馬車をその上に移動させると、板を湾曲させて船のような形に変えていく。
「よし、これでいけるんじゃないかな? ちょっと進ませてみて」
馬車をソリのようなものの上に乗せた感じになっていた。
「どう?」
「うん。そのままゆっくり」
雪への沈み方から接地面をなるべく少なくして、抵抗を抑えたりしながらちょっとずつ形を変形させていく。
数枚のスキー板が下についたような船の形へ変化させてやっと前に進むようになった。
「とりあえずこんな感じかな。いらなくなったらしまっちゃえばいいし」
「イオリってほんと非常識よね……」
「そう? 独創性があるって言ってくれたら嬉しいんだけど」
レーリアは馬車の中で丸くなっていたため、その異常性には気付いていなかった。
外の街道(といっても道幅があるだけで舗装はされていない)に出ると、メルリードの指示に従って進んでいく。
伊織が使う転移魔法は見える範囲か、知ってる場所以外転移はできないのだ。
もし適当に転移させた場合、何が起きるのか試すこともできないのである。
街道はくねくね曲がっていて、先を見通すことが難しい。
仕方なく道に沿って進むしかないのであった。
「メル姉さん、もう魔族領に入ってるのかな?」
「そうね。このままだと明日になっちゃうかもしれないわね。まさか雪でこんなに移動が遅くなるとはねぇ……」
「俺も失敗したと思ったよ。まぁ焦らないでゆっくり行こうよ」
「そうね。でもそろそろ陽も傾いてきてるし、野営をした方がいいかもしれないわ」
「んー。そうなると、寒いから風呂も必要だよね」
「えぇ。あると助かるわね」
「テントだと風呂が……。よし、作っちゃおうか。前みたいに」
「えっ? 作るんです、かにゃ?」
レーリアがメルリードに抱かれたままこっちを見てくる。
「そうだよ。そんなに難しくないからね。あ、あそこがいいかも。馬車止めて作っちゃうからちょっと待ってて」
伊織は少し開けた場所に馬車を停めた。
雪を蒸発させて地面を軽く整地する。
余っていた建材(砂)をストレージから出して山にすると、魔力を流して一気に作り上げてしまう。
木でドアを作り、暖炉と煙突を繋げて、風呂を作って。
ほんの十分ほどでできあがってしまった。
適当に厩舎も作って馬車をそこに入れる。
飼葉を出して、馬に与え終わる。
「メル姉さん、もういいよ。暖炉に薪を入れて燃やしといてくれる?」
「えぇ。しかしまぁ、相変わらず見事だわねぇ」
床は簡易的なフローリングのようにしてある。
「靴はそこで脱いでね。俺風呂入れてくるわ」
「そ、そんなご主人様は……」
「いいんだって、こういうのはできる人がやるものだから」
「そうね。イオリも楽しそうにやってるんだから、邪魔しちゃ悪いわよ」
「は、はいですにゃ」
そこからは分担で作業を始めた。
レーリアは料理を、メルリードは寝具の用意を。
伊織が風呂を入れ終わるころにはなんとなく、準備が整っていた。
「メル姉さん、風呂、いつでも入れるから。ご飯食べたらレーリアと一緒に入ってきたらいいよ」
「そう? 悪いわね」
部屋の中は暖炉の熱気でもう暖まっていた。
メルリードも相当な量をストレージに格納できるようになっているのか、寝具は全て用意されていた。
もちろん、料理の素材も全てだ。
「ご主人様、そろそろご飯できますにゃ」
「うん。ありがと。レーリアの料理ってさ、どこで教わったの?」
「はい。話に聞いて、ジータの町にいるときにキャルさんという方から」
「嘘っ。姉さんから? どうりで伊織の好みに合うのが作れるわけね……」
「あれ? キャルさんってメルお姉さんのお姉さんだったんですか?」
「そうよ。そっくりだったでしょ?」
「いえ、あの人は銀色の髪で」
「あぁ、これはイオリに染めてもらったのよ。元々は銀髪だったの」
メルリードはお気に入りの金髪をさらりと指で持ち上げる。
「そうだったんですか。それならそっくりですね」
「そう言われるのもなんか嫌ね……。あたし、料理全くできないし……」
しゃがんで落ち込み始めたメルリード。
誰に教わったのか、床に『のの字』を書いていた。