プロローグ
第三部 魔族領編 スタートします。
他の兼ね合いもありまして、週に一度、遅い時は二週に一度くらいの更新頻度になるかと思いますが、よろしくお願いします。
目の前には元ミデンホルムの国民。
伊織は屋敷の外の庭先に出て領民を前に、イオリ・シノザキ辺境伯の就任と元ミデンホルム王国、現シノザキ辺境伯領のパームヒルド入りを宣言した。
「あー、めんどくさいことはあと回しで、とにかくこの領地の領主になりました、イオリ・シノザキです。……あれ? 反応がないぞ」
すると、一呼吸置いて、拍手と共にどどーっと反応が返ってくる。
「よかった。歓迎されてないかと思っちゃったよ。えと、皆さんは今日から正式にパームヒルドの国民ということになります。俺はパームヒルドの辺境伯になりまして、この領地を治めることになったわけです。ですが、俺は領地を治める知識をもってません。そこで紹介します。近いうち俺の嫁さんになる、今は婚約者の女性です。ほら、マール」
伊織はマールの背中をぽんっと軽く押して前に立たせる。
「ま、マールディア・クレイヒルド・シノザキでしゅ……。あっ」
つい先日、セレンがアールヒルド家の当主となり、篠崎姓を名乗ったことから、マールも篠崎姓を名乗ることにしたのだった。
葉月が元から篠崎姓を名乗っていたので二人とも公の場に出るときは名乗りたいと言ってきていた。
伊織は苦笑いしながらも『いいよ』と一言言ったのだ。
マールはこの晴れ舞台でお約束のごとく、噛んだ。
「うぅうううう……」
伊織を恨めしそうに睨んでいる。
「緊張するなって方が無理でしょ。いいんだよ、俺も辺境伯らしくないんだし。とにかく、領地経営はマールディアに任せることになります。俺は近いうち、ちょっと領地を離れるのでマールディアの言うことは俺の言葉だと思ってください。なーに、難しいことは言いませんよ。『悪いことをしたら駄目』それだけだから」
この言葉は広い意味を持っていた。
領民は皆、この領地から『悪所』と呼ばれる場所に屯っていた者たちがいなくなっていることに気付いている。
「あと、この領地の治安はこいつが守ってくれます。おい、ジム。一言頼むぞ」
ジムもマールと同じように背中をどんと押されて一歩前に出る。
その姿は以前ガゼットが結婚式に着ていた正式なパームヒルドの騎士の制服。
それをミルラがアレンジしたものだった。
純白の生地に金糸の刺繍が施された、実に見事な姿だった。
「辺境伯閣下からご紹介に与りました、パームヒルド騎士団長のジム・マグムレットと申します」
「……お前なぁ、閣下はやめろっていっただろうに。ったく、あ、こいつ、婚約したんですよ。マール、ケネスちゃん連れてこいよ」
「ちょっ、やめてくれってイオリ……。あ、辺境伯……。もういいや、勘弁してくれよ」
「あははは。こいつは、俺の親友でもあって、信頼できるやつです。腕も、まぁまぁかな? そこいらの奴らには負けないと思う。彼女にデレデレで見てるこっちが生暖かくなるくらいにそれはもう……」
「勘弁してくれよ……」
領民からも笑いが溢れていた。
「俺にも嫁さん一人と、婚約者が五人いるんですよ。これから大変だと思ってます。ですが、こうして辺境伯として表に出た以上、やることはしっかりやるつもりです。ここはパームヒルドの一番外側。きっと他国が攻めてくるとしたらここが一番最初だと思う。……だけどね、俺はそんなことはさせない。だから、安心して生活してほしい」
「あぁ、本当に連れてきちゃったよ。ケネスちゃんごめんね」
「んもう……」
「俺はこの子を守る。ついでにこの領地も、この国も守ります」
『ついでですか』と領民からも声が上がる。
「イオリに任せられたんだ。その責任は全うするつもりだ。男同士の約束だから、それは守っていくつもりだ。俺の数少ない親友だからな」
にやっと笑うジムが腕を上げると、伊織もその腕に軽くぶつけるように腕を合わせる。
「各地の名産を集めたんだ。俺の就任祝いだから、飲んで食べて欲しい。今日から、よろしく頼むよ。パームヒルドのみんな」
伊織の屋敷の庭先では、立席形式のパーティが催されていた。
伊織が座る席の後ろにはドルフが立ち、辺りをレーリアが走り回っていた。
「お疲れさまでございます。旦那様」
「あぁ、慣れないことをするもんじゃないね」
「ですが、今日からこの国でも上位の貴族なのですぞ? これが覇道の始まりだと思うと、私は嬉しくてたまりません……」
ドルフは何気に男泣きをしているではないか。
「えぇ、ドルフ。旦那様のこの覇道は私たちの悲願でもありましたからね」
ドルフの横でアウレアも目元を押さえていた。
「二人とも大げさだなぁ。担がれたとはいえ、なっちゃったものは仕方ないんだ。現女性公爵のセレン姉さんを嫁さんにしちゃったからね。バレバレだよ『セレネード・シノザキ・アールヒルド』だもんなぁ」
セレンは嫁入りではなく、婿をもらった形になっているため『シノザキ』をミドルネームに入れているのだった。
「早めに魔族領から戻られて、式を挙げられる必要がありますね」
「そうなんだよ。まぁ、いつでもいいって言ってくれてるから助かってるけどさ。そんなに待たせるつもりもないけどね、次が待ってるから」
「そうですよ先生。セリーヌちゃんが終わらないと私の番が回ってこないんですから」
「わかってるって。何かあったら戻ってくるってば」
「それはそうですけど……。大変だったんですよ? ここまで持ってくるだけでも」
それはそうだろう。
役人の取り纏めから、一応領地が回るようになるまでマールが奔走したのだから。
「プリシラさんもお疲れ様。大変だったでしょう?」
プリシラはマールの後ろに静かに立っていた。
あれからマールの秘書として助けてくれている。
「マール様は大変努力されていました。慣れない領地経営も、教え直しましたので」
「プリシラ。それ言わないでって……」
「あら。秘密でしたの? それは申し訳ありません」
プリシラはわざとらしく頭を下げる。
伊織がレストランで会ってから随分印象の違った感じもしていたのだ。
そんなとき、屋敷の中からセレンが出てきた。
「イオリさん。就任おめでとうございます」
「セレン姉さん、ありがとう。セレン姉さんこそ公爵就任おめでとう」
「あらぁ、私はあなたの妻なんですから、そんなに畏まらなくてもいいんですよ」
セレンは伊織を背中からきゅっと抱いてくるのだ。
前よりもかなり積極的になってきている。
「セレン姉さん、公の場。公の場だって」
「あっ、ごめんなさい……」
何気に周りから生暖かい目で見られてしまっている。
「セレン姉さん、私だって我慢してるんですから」
「ごめんなさいね、マールちゃん」
夜になっても催しはまだ続いている。
さすがに疲れた伊織は役人、伊織は職員と呼んでいる人たちに任せて自室に戻ってきていた。
「イオリ、ほら」
「ありがと。メル姉さん」
グラスに並々と注がれた琥珀色の液体を口に含んで、喉に流していく。
「くはぁ。たまんないね、一仕事終えた酒は」
「そうね。お疲れ様。ところで、いつ出るの?」
「あぁ、明日にでも出る予定だよ。マールのおかげで役所も綺麗に回ってるみたいだし。そろそろ大丈夫だと思うからね」
「そっか。レーリアには言ってあるの?」
「うん。さっき言っておいた。荷物は俺じゃまずいからメル姉さん頼むよ。ほら、下着とか俺じゃね」
「そうだね。それにしても、この『畳』っていうの? 凄くいい匂いだよね」
「でしょ。似た匂いの草を集めるのに苦労したんだよ。この匂いが一番落ち着くんだ」
「ちょっと固いけど、座り心地もいいのね」
「うん。この匂いに包まれて眠るのは、いいんだよね。安眠できるっていうか、気持ちよく起きられるんだ」
「あたしも今日初めて入ったからさ、靴脱ぐのは知らなかったよ」
「そういう文化もあるって憶えてくれてたらいいよ。俺は元々こういう部屋で生活してたから、これが一番落ち着くかなー」
「打ち合わせも終わったし、あたしは戻るね。マールがおっかない顔で見てるし……」
「あははは。じゃ、明日」
「うん。おやすみ。マール、もういいよ」
入れ違いにパジャマ姿のマールが入ってくる。
「ごめんね、なんか急かしちゃったみたいで」
「いいんだよ。明日からイオリの代わり頼んだからね」
「うん。メル姉さんおやすみ」
「おやすみ、マール」
マールがちょこんと伊織の横に座った。
掘り炬燵に足をいれてふにゃっとした表情になる。
「ふぁ。あったかい……」
「でしょ。はい、いつもの」
「先生ありがと」
伊織は薄くした酒にジュースを混ぜたものをマールに渡した。
「先生。お疲れ様です」
「うん。お疲れ様」
チンッ
グラスを軽く当てると、マールは半分くらい飲みほした。
「んくんく。ぷはっ。美味しいっ」
「うん、俺が飲んでる酒だとそれ作れないから、ちょっとだけ癖のない酒を用意したんだよ」
「そうなんですね。ありがとうございます。んくんく。美味しい……」
酒も進んできて、マールはとろんとした表情になってきていた。
最近自重していた、伊織へ甘えるという行為。
伊織の肩へ頭を乗せて、とてもいい雰囲気になっていた。
「先生。明日行っちゃうんですよね?」
「そうだね。マールには苦労かけるけど、頼むね」
「はいっ。先生のためですから」
自然と伊織とマールの顔が近づいていく。
マールの唇が伊織に触れそうになったとき。
「……我、空腹。はむっ」
「えっ?」
じゅるるるる
クァールが伊織の指を咥えたかと思うと、一気に吸い上げてしまった。
「……久しぶりに満腹。これで暫く持つ。ごちそうさま、おやすみ」
そう言って指輪に戻って行ってしまった。
もちろん、残された伊織は失神寸前。
「ま、じか。ここん、とこ、顔、みせない、とおも……」
くたっと倒れてしまった。
「またなのぉおおおおおおっ!」
仕方なくマールは伊織の布団を敷いて伊織を寝かせることにした。
「油断してたわ。まさか、こんなことになるなんて……」
伊織を見ると、幸せそうに眠っていた。
こうなると揺すっても抓っても起きないのだ。
今日は伊織のせいではない。
解ってはいるのだが、なんとも巡り合わせが悪いというか。
部屋の灯りを消して、伊織の横に身体を滑り込ませる。
伊織の顔を見て、ふにゃっとした笑みを浮かべると、そのまま軽くキスをする。
「あっちから帰ってきたら、逃がしませんからね」
伊織の腕に頭を乗せて、目を閉じたマール。
こうして就任の日の夜は更けていった。