第50話 伊織の処遇と新たな屋敷
「伯爵になっちゃわない?」
コゼットのその言葉がちょっとした罠だったとは伊織も思っていなかった。
事の始まりはドルフとガゼットの手合わせをしていたギルドの地下練武場だった。
マールがドルフとガゼット二人をけしかけ、直接対決をすることになったのだ。
メルリードが予想していた通り壊れている可能性があったので、マールと二人で様子を見に来ていた。
地下に降りたとき、伊織は目を疑った。
それは激しい戦いだったのだろう、と思えるくらいに、どうやったらここまで壊せるのかというほどの破損具合だったのだ。
怪我をしないように、土で作ってある床。
これは伊織が日本にいた頃、幼稚園や小学校が土のグラウンドが多かったという記憶をもとにそうしたほうがいいだろうと作ったのだ。
壁に至っては基礎の上に二重、三重と補強して最後に衝撃を吸収するために木材を使ってあったはず。
それがどうだろう、二人の戦闘の余波であちこちヒビがはいっていたり、えぐれていたりしている惨状だった。
伊織は、練武場の予想以上のぶっ壊れっぷりに笑いが止まらなかった。
「あははは……、これは凄いわ。室内でやらせた俺が馬鹿だったかも。はいはい、ちょっと二人ともどいてくれるかな?」
「イオリすまん……」
「申し訳ございませぬ……」
既にボロボロになっていたガゼットとドルフ。
怪我という怪我は見当たらないところが二人のタフさを物語っているのだろうか。
実力的に拮抗していて、結局勝負はつかなかったらしい。
ドルフもガゼットもかなり満足そうな顔をしていたのが、伊織には余計笑えてくるのだ。
伊織は破壊された床にしゃがみ込み、手をついて元あった形をイメージして一気に魔力を流す。
伊織を中心にぽうっと光が一瞬出たかと思うと、そこは壊れる前の様相を取り戻していた。
城を塵に帰す方法しか見ていなかったドルフは感嘆の声を上げた。
「これが旦那様の力の一端なのですな。実に見事でございます」
「褒めなくてもいいから、二人とももう少し端によってくれる? そこにいると直せないんだよね」
そう言われた二人はバツが悪そうな顔をしながらも、伊織の指示に従って端に寄った。
壊れていない壁を背にして床に座った二人は、そのままがっちりと握手を交わし、傍から見たらお互いの化け物さ加減を称えているようにも見える。
いくら木製とはいえ、素手と木剣。
あきらかにドルフが劣勢と思われるだろうが、そうではなかった。
二人ともすっきりした表情をしていることから力いっぱいぶつかり合ったのだろう。
それも手加減なしで。
「そういや、イオリとドルフさんはやってないのか?」
「鎧を素手で割るんだぞ。そのドルフさん相手に俺がどうしろっていうのさ……」
「馬鹿言え、俺が掠らせることもできなかったの忘れたのか?」
「あれ? そうだっけ?」
「……ほう、そこまでなのですな?」
「いや、まぁ。それなりに修練は積んでたからね」
「では、私とも一度お手合わせをお願いできませんかな? 旦那様」
「ほら、やっぱりこうなっちゃうじゃないか。……んー、俺が一発当てたら引き下がってくれる? 約束するならいいけど」
「了解いたしました」
伊織は壁にかけてあった木刀に近い木剣を手にする。
ドルフは少し間合いを保って伊織と対峙している。
伊織も実は毎日許す限りここに来て形などの稽古をしている。
内包している膨大な魔力のおかげで体形の維持はできるのだが、習慣のようなもので、身体を動かさないと調子が悪くなるのだ。
勇者というより、もはや化け物に近いのだろうが、本人は全く気にしていない。
二日に一度、クァールに吸い尽くされていることでかなり体力を消耗はするのだが、その後に倒れるように寝てしまうよりは寝覚めがいいため、なるべく身体を動かすことにしているのだ。
伊織は左腰に木剣を挿し、全身の力を抜いてゆったりと立つ。
目を閉じて深呼吸をする。
ふたつ呼吸を繰り返し、目をゆっくりと開けた。
「いつでもいいですよ」
「では、旦那様。失礼したします」
ドルフは左足を一歩踏み込み、その踏み込んだ力を膝、腰、右肩へと伝達させる。
遠慮のない一撃必殺ともいえる右拳が伊織の顔面を捉えようとしてくる。
伊織はその拳の軌跡をしっかりと見ている。
今、伊織の顔面を捉えようとしているドルフの拳を軽く身体を右に半歩移動することで躱そうとする。
だが、ドルフは筋力で無理やり拳の軌道を修正し、伊織の顔を追うように打ち込んでくる。
「(お、流石だな。そうくるんだ……)」
間違っても伊織にはできそうもない、人間離れした筋力を使った軌道の修正。
伊織は左手の手のひらをドルフの腕に添え、すっと優しく押しながら受け流すと、右手で木剣を抜き、横殴りドルフの腹を打った。
スパーン
乾いたいい音がする。
伊織はドルフの横を通り過ぎると、ゆったりと腰に木剣を挿し戻す。
ドルフは打たれた腹部を触り、こみ上げてくる感動をぐっと堪える。
それと同時に、背筋にぞくりとした悪寒のようなものも走ったのだ。
今のが真剣であれば、ドルフは真っ二つになっていただろう。
この主人だからこそ、アウレアを救い、あの腐りはてたミデンホルム王家を解体できたのだ。
ドルフは改めてこの主人に仕えることができたことが、心の底から嬉しくてたまらないのだ。
自然と涙が溢れそうになるのを、胸の前に拳を握って、顔を上に上げ、堪えるのだった。
「これで納得してもらえた?」
「いや、このドルフ。感服いたしました。私のこの拳を柔らかくいなすとは。これは敵いませんな。ガゼット殿が触れられないというのも納得がいきました」
「俺のはね、この国の剣術みたいに打ち合うものではないから。どうしても回避してからになっちゃうんだよね」
「またご謙遜を。私の拳が触れる前に、しっかりと打ち込まれたではございませんか。私は、旦那様にお仕えできることが嬉しくてたまりません。純粋な体術だけで私が全く及ばない。これが全力であればどれほどのものなのか……。これぞ正しく、覇王のお器。お手合わせしていただけたことに感謝いたします」
ドルフは笑顔が自然とこみ上げてくる。
それも、悪い笑顔の方だった。
「こうなるから、嫌だったんだよ。大袈裟にしないでくれないかな?」
壁際にある用具置き場に木剣を戻しながらぼやく伊織。
「い、イオリ、さん? 俺のとき、流れるように剣で流して打ち込んできたよな?」
「あ、そうだっけ?」
「いくら俺とドルフさんが同等とはいえ、今のを見てやっと負けた意味がわかったよ」
「ほう? ガゼット殿、それはどのようなものでした?」
ドルフ興味津々にガゼットに詰め寄っていく。
「あ、あぁ。俺やドルフさんが先に動いてたのに、イオリ、さんのが先に攻撃したような結果になってるんだよ。拳速は間違いなくドルフさんのが速かったはずなのに、な」
ドルフは伊織の執事ということもあり、普段は表情を顕わにすることは少ない。
たまに嬉しそうに微笑むくらいなのだ。
そのドルフが驚愕という表情をしている。
「だ、旦那様。どのような修練をされればその境地へたどり着けるのでしょうか?」
ストレートに尋ねてくるドルフ。
「あ、それね。服の上からでもさ、力の入り具合とかで相手の筋肉の動きを観察してね、ちょっとだけ先の動きを予測してるだけなんだよ。避けるために必要な感覚っていうのかな……」
ガゼットとドルフは、その言葉を聞いて伊織に頭を素直に下げる。
「旦那様。その方法、お教え願えないでしょうか?」
「イオリさん。頼む、教えてくれ」
二人には青天の霹靂だったようだ。
この国の修練にはない概念。
力任せに打ち付けるタイプの剣術。
素手であっても相手を打ち抜く鍛錬が主だった方法だったのだ。
「ちょっと、二人とも。それ以上強くなってどうするのさ?」
「いえ。人間、死ぬまで鍛錬と勉強ですので……。それに、その感覚があればあのときも……」
「俺は、それができていれば、悔しい思いをしなくて済んだかもしれないと思ってな……」
二人とも過去に死んだほうがましとも言えるほどの悔しい思いをしてきているのだ。
家族ともいえる二人に請われては、伊織も嫌とは言えない。
「んー、身体の構造は葉月姉さんに教わった方がいいかもね。専門だし。気配の感じ方とか動きの予測は、そのあと俺が教えてもいいよ。あ、でも、暇なときだからね?」
「「ありがとうございます」」
いつものように流されるような状態で、伊織は二人も弟子をとることになってしまった。
伊織は身内にもかなり甘かったのだ。
パチパチパチ
後ろから拍手をする音が聞こえてくる。
「あ、母さん」
マールの声でコゼットが来たことが解かった。
「ご無沙汰してます。コゼ……、お義母さん」
「あらいやだ、ちゃんとお母さんって呼んでくれるのね。嬉しいわ」
口元に手を添え、コロコロと笑うコゼット。
「母さん、転移魔石板で来たんでしょ?」
「えぇ、そうよ。便利なものを作ってくれてありがとう、マールちゃん、イオリちゃん」
「いえ、今回はマールの努力でできたようなものですから」
「ほらまた、謙遜は嫌味になるって言ったでしょ? お母さん、怒っちゃうわよ」
伊織より低い身長なのだが、コゼットは背伸びをして伊織の頭を撫でてくる。
「あ、すみません……」
コゼットは、素直な伊織をふかっと抱きしめて笑顔になる。
「うん、素直ないい子は、お母さん大好きよ。ガゼットまで弟子にしちゃうなんて凄いわね。ねぇイオリちゃん」
「はい」
「伯爵になっちゃわない?」
「へ?」
「といっても、辺境伯なんだけどね」
「いや、俺。そんな」
「あー、ごめんね。もう辺境伯になっちゃってるって言いにきたのよねーっ。なるの? ならないの? ならないなら、王様になるしかないわよ?」
コゼットに矢継ぎ早に責め立てられる伊織。
「あんなに広大な領地なのよ? 辺境伯でも足りないくらいなのよ」
「俺、その」
「マールちゃんをお嫁さんにするんでしょ? セレンちゃんの旦那様にもなるんだし。その後、公爵の子女になっちゃったセリーヌちゃんだって、お姫様のメルリードちゃんだって。それに、カレルナちゃんとこの国唯一のお医者様、葉月ちゃんが嫁いでくるんでしょ? 騎士爵ではもう、対外的に釣り合いが取れないのよ」
さすがの伊織もその事態の重さに気づく。
「そうでした……」
「本当はね、あの国。ミデンホルム地区をパームヒルドに入れる話になってね、揉めたのよ。国王が何もしてないのに、フレイヤードの後、あれだけの領地を拡大しちゃったんだもの。同盟国として建国するといっても文句言われないのよ?」
「(それって、コゼットさんとロゼッタさんが国王をイジメただけじゃ?)いや、そこまで大げさになると、俺も管理しきれないので」
『先生』
『マールか、どした?』
『もう決まってる感じですよ。この話し方だと』
『そうだよね、前のときと一緒だよ……』
『諦めましょうよ』
『そ、そうだね……』
伊織は仕方なくコゼットに抱き着かれたまま、諦めることにした。
「お義母さん。わかりました。その話、受けさせていただきます」
「あらぁ、よかったわぁ。もし駄目だったら、うちの馬鹿息子をクビにして代わりをやってもらうことも考えてたのよね」
「母さん、それでは兄さんが不憫ですよ……」
伊織が話を受けると、コゼットはニコニコしながら帰っていった。
結局伊織は、弟子を取ったばかりでなく、辺境伯にまでなってしまったのである。
まだ会ったことのないマールの兄に負担がかからなくてよかったと、一安心したのは言うまでもなかったのだが。
「あー、マールって名前をつけて、建国するものよかったかもしれないね。マールディア王国、いい響きだと思わない?」
「や、やめてくださいよ。先生」
「旦那様」
「ん?」
ドルフは何かを考え込むような、かなり難しい顔つきをしていた。
「辺境伯といえば敵国に隣接する、国家防衛最前線の指揮官に命ぜられる職のはずございます。国の中でもかなり高い権限を与えられていると聞きますが……」
「えっ、何それ?」
「いえ、私の持っている知識でしかありませんが。国によっては基本的には公爵などに並び、国王に準ずる地位とする場合もある、と」
マールは伊織を見て、苦笑していた。
もちろん伊織は段々と顔が青ざめていくのだ。
「先生、間違いなく母さんたちに担がれていますよ。多分、第一位にされてますね……」
「う、嘘だろ……」
「これが覇道への第一歩なのですね。このドルフ、感服いたしました」
ガゼットが伊織の肩をぽんと叩いた。
「俺もそうだったんだ。『あなた今日から伯爵しなさいね』って……」
凄く嫌そうな情けない顔でドルフを見る伊織だった。