8.だいあべてす めりつす まにあ
「ふむ、転属願いね……」
俺は執務室の天井を見上げながら、この難問に頭を悩ませていた。
今手に持っている書類は、西北部軍騎士団からテルネラント子爵直轄の領主軍騎士団への転属を希望する書類だ。
提出者はフレッド魔術医官。この騎士団で他の追随を許さない回復魔術使いとして、骨折程度の怪我ならば1日に20人も癒すことができる医者だ。代わりの者など、そうそう居ない。
彼はつい数ヶ月前、エリー子爵令嬢の誕生日パーティーに参加してからというもの、奇行が増えている。
すごい勢いで砂糖をボリボリ食べたり、トイレに1時間も閉じ篭もった後で急にぶっ倒れたり、極め付けは自分の血や尿を煮込み始めたりと、気が触れたかと思うような行動ばかりだ。
新しい治療技術の研究だと思うのだが、少しは周囲の目を気にしてもらいたい。
たぶん今回の転属願いにしても、この奇行の派生だろう。
子爵邸に行って何かしたいんだろうが、とにかく話を聴かなければ先に進むまい。
俺は執務室を出て、医務室に向かった。
「あら。マックス団長がお怪我とは、珍しいですね」
「いや、今日はフレッド先生の転属願いについて話をしに来た」
受付にいた女性看護官に事情を伝え、フレッド先生の診察室に入る。
「団長、私の転属願いは叶いますでしょうか?」
「まあ、難しいな。どこも医者不足で、はいそうですかって訳にゃいかねえ」
フレッドはがっくり肩を落とす。
「だがな、とりあえず休暇ならやれるんだ。次の報告日、一緒に領主様の屋敷に行かねえか?」
フレッドの目に光が戻り、首をブンブン縦に振っている。こいつ、判りやすいな。
「じゃ、転属願いは破棄。休暇願いは日付け空欄で書いておけ。行く日が決まったらすぐ伝える」
俺は医務室を後にした。
◇
私のお誕生日パーティーから3カ月が経ちました。スレイア様は週に2〜3回、遊びに来てくださいます。
世間の常識について、怪しまれずに実地で聞ける先生が欲しかったのですよ。知識先生では辞書のような感じなので、世間認識とのズレがイマイチ分かんないんですよねー。
スレイア様はあのイケメン医者にご執心みたいで、私が回復魔法を教えて差し上げると、「彼のお役に立つの!」と、とても喜んでもらえます。
そんなある日のこと。私は1人、お庭で簡単な魔術訓練をしていましたら、馬車から2人降りるのが見えました。大きな人は北西軍騎士団のマックス団長さんでしょう。今日は報告日だったはずですし。そしてもう1人は……。
「おはようございます、エリー様。今日も魔術訓練ですか」
うわあ、幼女への声掛け案件です。通報しなければ!
……イケメン無罪ですか、そうですか。
「……おはようございます、フレッド先生」
スレイア様がいれば、無条件で抱きつきにでも行ったことでしょう。ですが今日はご自宅で習い事があるとかで、来ておりません。変態紳士への接触は少ない方がいいのです。
「エリー様は魔術が得意なのですね。私にも1つ、教えていただけませんか?」
来た。そんなに『幼女の甘いおしっこ美味しいです』がしたいですか。変態に教える訳にはいかん! とりあえず牽制してみましょうか。
「お誕生日の時の魔法ですか? ああ、お花を咲かせる魔法ですね! 冬でも奥様に花束をプレゼントできますものね」
「いやいや、スレイア様の食欲を戻した魔法ですよ。あの時は腰に魔力が働いているようでした。……腎臓を狙いましたか?」
うわぁ、直球でおしっこ魔法に食いついてきましたよ。ぐぬぬ、私におしっこ発言をさせて楽しもうというのかこの紳士は!
「あの……あれは栄養をおトイレに捨てる魔法でして……。レディとして、お話がし難いのですが……」
「ああ、失礼しました! 違います。あの魔法は糖尿病という病気を治せるかもしれない魔法なのです。病気で苦しんでいる人を救う為、教えていただきたいのです。……その、貴女は転生者なのでしょう?」
あれ、今糖尿病とか転生者って言った? この世界にも糖尿病の概念があるのかー。それに転生者ってばれてたねえ。やばくね?
「はい、糖尿病は数十年前に異世界人の医師が伝えました。彼の師匠がそうです。異世界人は、こちらの世界に新しい文化をもたらす神のような扱いをされるほど受け入れられていますので、迫害の虞はありません」
あら、知識先生が言うなら本当でしょう。それにしても、異世界人は私以外にも居たのねー。
うーん。迫害はされないだろうけど、異世界のチート知識が欲しい人はあれこれいるかもしれないよねえ。拉致監禁してチート知識で世界征服を企む悪の秘密結社とか。
けど、フレッドさんだけなら異世界人としての私を担ぎ出して、どうこうという展開にはならないよね? 紳士の人かと思ったけど、一応医師としては優秀なこと考えてるわけだし。
そんじゃ、先生の知りたい情報は渡して、転生者の秘密は守ってもらうよう協力願いを出してみますかねー。
「そこまでバレてるなら仕方ありません。私は転生者ですが、まだ3歳にしか成長していない軟弱者です。独り立ちできるまであと7年間秘密にしていただけるならば、あちらの世界の糖尿病治療についてお話いたしましょう」
「秘密はお守りいたします」
うわ、イケメンスマイルはまぶし過ぎるからやめて。あとでスレイア様が何と言ってくるかわかんないからまじでやめて。私と貴方は、情報提供と秘密保守のビジネスライクな関係。OK?
というわけで、場所を変えましてお庭のテーブルで。お部屋になんて上げませんよ?
「早速ですが、あの糖分を排出するメカニズムについて教えて下さい」
フレッドさんは目をキラキラと輝かせて、紙とペンを取り出しました。このやる気、前世で働いてた薬局の隣の医者に見せてやりたいです。あ、たいていのお医者さんは、このフレッドさんの少なくとも半分以上はやる気ありますよ? 隣の医者が皆無だっただけで。
ちょっとばかり医療者の顔を出したフレッド先生に気を良くした私は、糖尿病の病理から確認することにしました。
「あの魔法をそのまま教えてもよろしいのですが、具体的にどのような効果なのか、お知りになりたいでしょう?」
ぶんぶんと首を縦に振る先生。わんこ系だな……。
「では、まず病理の確認からですね。この病気は、膵臓のホルモンであるインスリンが上手く働かないことで、栄養過多状態になり、血液中の糖分があちこちに害を出します。ここまで、よろしいでしょうか?」
「はい。師匠からはそのように聞いております。その過剰な糖分を排除できれば治せるとも聞いております」
ふむ、話は早いわ。治療について話しても問題なさそうね。
「では治療法は、『運動療法、栄養療法』『インスリン分泌を増やす薬や、インスリンの効果を増やす薬を使う』『インスリンそのものを使う』の3つがベースである、というのはお聞きになってますか?」
「はい。今こちらの世界で使えるのは、運動と食事制限だけです。薬に関しては、師匠でも作れないと言っていました。しかし、あの魔法ならば、薬がなくとも重度の患者から糖を抜くことができます! 大変画期的です!」
うーん、知識先生のチートを使えば、薬作る手順だけならなんとかなるのよねー。スキルチート無しで結構な化合物作るのはまじで死ねるからやらないけど。
まあ、薬が作用するポイントを適正に、回復魔法で操作してやれば同じ効果でるからいいか。……よくない。魔術師が死ぬ!!!
「画期的ではあると思いますが、毎日の食後にコントロールしてあげる必要があるんですよ? 魔術師がどんなに居ても、作業が追いつきません。これならまだ、薬を作る方に尽力したほうがましだと思います」
「研究すれば、何か見つかるかもしれません。是非、魔法をお教えください」
ほーう、研究者気質でもありましたか。私を巻き込まずにやっていただけるなら、導入のお手伝いくらいはいたしましょ。
「ええ、お約束ですから、魔法はお教えします。ただ、実践がないと解らないでしょうから、そのうち先生の診療所にお伺いしますね」
やる気のベクトルを外されて、フレッド先生はかなりがっくりきたみたいです。
ちょうど西北軍騎士団長のマックスさんが家宰への報告から戻ってきたので、しおしおになったフレッドさんを渡して、北西軍を訪ねるアポイントメントを取ることにしました。団長さんならOKできる立場よね?
マックスさんは、「いつでもお出でください」と豪快に笑うと、フレッド先生を米俵担ぎにして持っていきました。
じゃ、明日にでも行きますかねえ……。
だいあべてす めりつす(Diabetes mellitus)は、英語で『糖尿病』の意味でつ。