14.診察室のマニアックな午後
激動の1日の後半戦、はっじまっるよー!
午後の部は病棟回りの予定だったのですが、ちょうどよく20名ほどの魔術騎士達の治療が入りましたので、同僚と代わってもらいました。エリー様から教わった【魔力操作】で【回復魔術】を使ってみるチャンスですのでね。
何かタコ殴りに遭ったようで、あちこちに打撲の痕跡があります。普段は湿布を貼るくらいで終わらせるのですが、今日は特別に回復魔法を使う丁寧ぶりです。運が良かったですね、みなさん。
「では、私はこのミリアムのたんこぶで見本をお見せしますので、フレッド先生はスレイア様の膝の擦り傷をお願いします」
エリー様が人差し指でミリアムさんのたんこぶに触れると、少しずつ魔力を流していくのが解ります。1分も指の腹でたんこぶをなでていると、腫脹は落ち着いてしまいました。
試しにたんこぶのあった位置をつつかせてもらいましたが、周囲の状態とほぼ変わらず、痛みも無いとのことです。
今まで私たちが行ってきた回復魔法とは、魔力を患者の全身に通すことで治癒能力を上昇させるものです。一方エリー様の方法は、患部にのみ魔力を作用させて同様の効果を狙うので、使用魔力量がかなり減ります。適切に患部を見定める目を養う必要と魔力操作の技量を鍛える必要がありますが、消耗少なく大量の人を癒すことができるのは大変な進歩でしょう。
「今の魔法は、発痛物質や痛みを増強する物質の合成を抑え、水の循環を改善するように自身の魔力を流すよう、外部からの魔力で調節するというものです。切傷擦り傷などの損傷がある場合には、組織の細胞分裂を促すなど生合成を強化する方向にも魔力を使います。では、スレイア様の傷を治してみてください」
私はスレイア様の傷を見定める。かさぶたになっているが、その下では皮膚や血管を修復するための生合成が亢進しているはずだ。私はそれを促すように、魔力を流せばいい。
「痛っ……あ、大丈夫です」
「ごめん、大丈夫?」
「だめですよ先生。先に発痛物質、特に痛みの増強物質の合成を止めないと。修復と一緒に両方とも合成が進んじゃうんですから。……はい、もう大丈夫。赤いところは水の循環が上手くいけば治っていくはずですから」
なるほど、難しいもんだ。体内の物質を操作して、治療効果を引き出す魔法か……。これは本当に精密な魔力操作が必要な魔術を身に着けないといかんな。それと、正しく精密な生化学や生理学の知識が要る。師匠の本田先生から教えを受けたノートを、もう1度見直す必要がありそうだ。その上で、またエリー様に教えを請うことにしよう。
「発痛物質などの生合成抑制が上手くできるようになれば、あとはその応用で『あの魔法』が使えますよ。がんばってくださいな」
「なんですって!? がんばります!!!」
おお、ならば特訓だ! 糖を血中から尿中に強制排出する魔法、絶対に会得してみせよう!
「はいはい。次の患者さん入れちゃっていいですか?」
「はい、キャロルさんお願いします」
ときどき発痛物質を増やしてしまった患者もいたようだが、医学の進歩のためだ。諸君らの犠牲を無駄にはしないと誓おうじゃないか!
◇
「ほおー、きれいに治るもんだねえ」
「もう痛くないですよ」
えへんぷいぷい。キャロルさんの目から見てもきれいな治り具合だと褒めてもらいましたー!
スレイア様が転んでつけた擦り傷はフレッド先生が1度回復魔法をかけましたが、かさぶたが剥がれきってなかったので、皮膚修復にもう少し魔力を通して完治させました。あと少し練習したら、フレッド先生も1回なでるだけでこれくらいはできるようになるはず……と思いたい。
なんか後ろの方でぎゃーとかひーとか言ってる声が聞こえるんですが、我々女性陣は処置室に引っ込んでお茶してます。
「あの、ごめんなさい。お母さんがお仕事増やしてしまって……」
「ああ、いいよいいよ。フレッド先生も喜んでるんだし、私は今お茶できてるんだし、楽なもんだよ」
患者の方は全く喜んでなさそうなんですが、気にしないことにしました。
お母さんはケーキを食べたらご機嫌になって、「いっちょー稽古でも着けましょうかー!」と修練場のほうに行ってしまいましたので、これから増える患者さんもご愁傷様です。
「それにしてもあのケーキ、美味しかったです。私、くまさんをいただきましたけど、エリー様もくまさんがよろしかったのでは?」
「私は苺が好きですので、ショートケーキがうれしかったです」
「あのお菓子屋さんは、ここのすぐ隣にある『ボン・ソワール』ってお店なの。胡散臭いヒゲの店長がやってるんだけど、なかなか先見の明がある人でね。病院の見舞い客相手にしてるうちにこのへんで1番の人気菓子屋になっちゃったの。……マックス団長もこっそり通ってるみたいよ?」
ほー、あの団長さんがねえ。美味しいは正義ですので、正義の保護を行っているのでしょう。うんうん。
それにしても、先生がんばってますねえ。だんだん悲鳴が聞こえなくなってきましたよ。
「ところで、フレッド先生って糖尿病研究なさってるみたいですけど、今はどんな治療をなさってるんですか?」
「糖尿病? うーん、フレッド先生の師匠である本田先生って方がいてね。異世界から迷ってきたお医者さんだったんだけど1文無しで、先代の西北部代官様が軍で引き取ったんだよね。その時に伝えた内容からあんまり変わってないのよ」
「ええと、具体的にはどんな治療内容なんです?」
「食事制限と運動がメインね。進んでしまったら薬が無いのでお手上げだって言ってたわ」
聞き始めてから『スレイア様がついて来れない話題振っちゃった!』とか思ったけど、ご本人は全然興味深げに聞いてるし大丈夫かな。恋は強しですかそうですか。
話を聞くとなるほどねえ。こりゃあの糖分排出魔法も欲しくなるわなー。
「スレイア様、私のお誕生日の始まりに、おトイレに行ってもらったでしょう? あのときにかけたお腹を減らす魔法を先生がお知りになりたいというので、今日ここに来てるんですよ」
「あらそうでしたの? では私は先生のお役に立てましたのね!」
なんかスレイア様に気合が入ったようだ。いやいや、普通にあのときの先生を見てたら、幼女のトイレを狙う不審人物だからね!? ほら、キャロルさんもなんかため息を吐いてるし!
「そ、それで今診てる糖尿の患者さんは、どんな具合なんですか?」
「こっちの今の代官様でドルフ様っていうんだけど、神経痛が足に出始めてるわ。歩くのがつらそうなのよ。ここに入院して治療しているのだけど、一度症状が出ちゃうとなかなかねー」
お父さんの部下さんでしたか。治療に協力して恩を売っておけば、私に軍を差し向ける可能性はちみっと減ってくれることでしょう。生存のための努力は惜しんではいけません。
それにしても、そこまで進行しちゃってると、血糖の排出だけじゃ無理そうだよねえ。
生合成的に考えると、血液中のブドウ糖、別名グルコースからソルビトールにめっちゃ変換進んでいて、さらにソルビトールからフルクトースという別の種類の糖に変わる速度を追い越しちゃってるって状態なのよねー。
このソルビトールが溜まってきちゃうと、細胞内の浸透圧が上がってぶりぶり浮腫んでくるわ、神経細胞では電気信号の伝わる速度が低下するわ、血管を広げてる物質産生を減らして血行不良起こすわで、全くろくなことが無いのです。
前世ではグルコースからソルビトールに変えるところの酵素をブロックする薬があったけど、こっちでは無いもんねえ。えぱるれすたっとー!!!
うーん、薬だったら普段から生合成を抑制しとくって手が使えますが、魔法でやると一時的にしかなりませんしー……。となると、フルクトースに変えちゃう方で考えるしかないわけで。
先生にはまだ難しいかなー? ブラジキニンやプロスタグランジンの生合成阻害で躓いてるわけだし。あ、今も悲鳴が聞こえた。だめだこりゃ、練習してもらわなきゃ。ソルビトールをフルクトースに変える間に、グルコースからソルビトールに変わっちゃ困るのよ。
おや、何か診察室の外がざわついています。お母さんでも戻ってきたのでしょうか?
「ドルフ様、わざわざこのようなところまで……」
「なに、病棟の先生から、フレッド先生が新しい治療法を見つけて修行していると聞いてね。応援に来たのさ」
ありゃ、突然上司が来たので騒がしくなったということですか。
それにしてもドルフさん、足が痺れてるというのに1人で歩いて大丈夫なんでしょうか? 変に怪我してたら壊死して大変なことになるので、おとなしくしてて欲しいものです。
それはともあれ、フレッド先生の最終目標がいらしたのであれば、私も診ておくべきでしょう。早期解決すれば、異世界人というとこに着目する人数は抑えられますし、恩を売って西北軍から攻められる可能性をぐっと減らせるでしょうし!
私は意を決して、診察室内をそーっと覗き見るのでした。だって怖いもん。