基礎と発覚
およそ二年。
かつて異世界の日本から神田千秋が召喚されて、この世界での頂点に立っていた実力者である魔王を倒すまでにかかった時間である。
それだけを聞けば、まるで千秋が戦いの才能溢れる千年に一人の天才か鬼才のように聞こえなくもない。というか、実際にその事実だけを聞いた人物は、勇者のことを超人か天才か化け物のように扱うだろう。事実、千年後の現代に語られる御伽噺の中でも、勇者は千年に一度どころか、人類史上類をみない、空前絶後の才能の塊だったと紹介されている。
だがあえて、ここではっきりと言おう。千秋に才能があるなんて嘘である。
基本的な魔力の使い方だけを習熟し、逆にそれ以外の術式やら法則やら体術やら剣術やらの一切を覚えずに、本能のままに戦ってから周囲全てを圧倒する理不尽なまでの強さ。並び立つ者どころか、三合と打ち合えるものすらもいなかったほどの化け物。それこそが魔王の正体。
そして対峙していた千秋は、この世界で魔力を使えない者として最大の特異点であり、最弱者の称号を得てもおかしくなかった人物であった。
だがしかし、かつて魔王と千秋の一対一の決闘で、勝利したのは千秋だった。
つまりこれは、どんなに能力が弱くとも、方法さえ限らなければ強者を打ち倒すことも可能ということである。
つまり何が言いたいのかというと、スペックの関係でとんでもなく弱くとも、やろうと思えば最強の頂の端っこくらいには乗れるようになるというわけである。
そしてそんな千秋の強さの要因は、徹底的なまでに戦闘を分析して解析して、自分の性質を戦いに特化させたことである。
つまり、彼の強さを模倣でも真似でもしようと思ったら、まずはその強くなったプロセスを伝える必要がある。
「っつーわけだ。お前には今から俺を超えるために必要なことを全部教える。だが、そのために重要なものを叩き込んでやりたいんだがな。如何せん、今のお前じゃ少々脳が足りない」
「何だよそれは。俺のことをバカって言いたいのか?」
「馬鹿とは思っちゃいないが、今のお前じゃ俺の望む水準の処理能力と処理経験と基礎学力と身体能力に圧倒的に足りない」
怒ったように聞き返したリルに対し、千秋は淡々と感情を入れずに声を返す。特に熱を感じられない、端的な言葉に、怯んだようにリルは口をつぐんだ。
ラフサ・ハーンの密林のどことも知れぬ結界の中。早朝訓練と称して、千秋はリルにここ最近教え始めたナイフ系統の短刀術を仕込みながら、軽くリルに今後の予定を話している。
ナイフというのは、刀身が短く軽い武器だ。そんな武器では斬りつけても怯まないだけの多少のダメージしか与えることは出来ず、重さが無いために切り裂くにも十分な威力を稼ぐには非常に難しい。
ナイフを使っての斬撃でとんでもなくでかい猪の魔獣を一撃で切り殺すような達人もいるが、そういった技量の持ち主はごく一部であり、千秋にさえ単純な技量ではそんなことは不可能である。
故に、彼が教えているのは近接戦闘下での一撃必殺の刺突を中心とした短刀術だ。いかに的確に敵の弱点を狙い、確実に相手の生命活動を止めるかということを中心に据えてナイフの突き出し方をひたすらに反復させ、教え続けている。無論、ただの素振りでは無く、集中が途切れそうになる合間合間には千秋がギリギリに躱せる攻撃を入れたり、刺突の初動を潰す様に妨害の牽制を行っている。
早朝、といっても日の射さない森の中では、灯りなど欠片も入ってこないので、今が本当に早朝かどうかは体内時計に従うしかないのだが、そんな朝っぱらからリルは「武器の扱いは体で覚えろ」といわんばかりにスパルタな訓練を課されていた。
基本的な筋力や体力が無いと、あまり小手先の技術には意味がないのだが、武器を持たせて戦いを自覚させるのは早いほうがいい。強くなろうとしても、本当に心の底から戦いに自覚があるかどうかで、無意識の甘えやらも無くなってくるのだから。
そんなことを考えつつ、千秋は足りないものに関しては今はいいと先送りする。
「まあ、そこらへんは今からでも埋めることができる。取り敢えずお前文字は読めるか?」
「……一応」
「そうか。じゃあ早速で悪いが、今日からこの本から勉強してもらおう」
千秋はそういうとパチンと指を鳴らし、それと同時に千秋の背後の遠くでドサドサと床に大量の書籍が落ちる。内容は、基礎学力を高めるために選んだ数学、魔術言語学から王国言語学、魔術陣について、用兵術、戦術論、等々様々なラインナップである。
「…………は?」
「取り敢えず、今やってる訓練を終わった後から頭が覚めてくる前に徹底的に内容を頭に叩き込め。上の方にいる奴で、考えないで適当に技とか呪文だけ使って勝てるような甘い奴はいない。というか、全く考えないで戦ってたやつなんて一部の天才か初心者だけだ。で、お前は天才じゃないし、初心者は三日で
すぎてもらう予定だからな。まずはその戦略を練る部分を鍛えるためにも、一日の半分は座学に費やすからな」
発言内容の突飛さ故か、それとも千秋の突然使った空間魔術という高等技術のせいか、口をポカンと開けて動きを止めるリルに容赦なく攻撃を加える千秋。軽く見える掌底を胴体に喰らい、面白いように後ろへと飛んでいく。
しかしリルも空中である程度体勢を整えた後、上手く受け身を取って地面に落ちることができた。流石に殴られたり投げられたりの経験が多かったため、突然身体が宙に浮かされても動きが硬直しない。
「どうした? まさか今からやる勉強が怖くなって身体が竦んだのか? こういう駆け引きも鍛えないと俺には勝てないぞ?」
「ぐっ……嘘だったってことかよ」
「いや、勉強は本当にやるぞ。諦めろ」
千秋の一言に絶望的な表情を浮かべるリル。何となくその表情を見て、基礎訓練中も座学の内容を覚えているかの確認をさせようと思っていることを教えて苛めたくなったが、必死で堪えた。
彼とて、鬼では無いのだ。ただ、今まで見たことない、リルの絶望に歪む表情が面白いと思っただけで。
朝食代わりに汁気の多い果実をいくつか食べ、早速座学へと突入する。
取り敢えず基本的な四則演算は理解しており、関数や図形は未だに知らなかったということを確認したので、そこらへんから問題を解かせていく。
特に図形などの学問的認識は、高度な魔術式を編むためには応用できるものの一つであるので、そこらへんを徹底的に仕込んでおく必要があると、千秋は無情な時間制限を設けて問題集を終わらせるようにリルに命じた。
今さっき教えられた知識を、すぐさま使いこなせるように徹底的に反復練習させられるリルの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるが、問題自体はしっかりと解けている。今のところ、ミスは二十問中三問である。
リルが何とも情けない様子で問題を解いていく姿を見ながら、とは言え、と脳裏に言葉を浮かべる千秋。
リルは既に、自分よりも遥かに強い相手にさえ屈しない強靭な精神力という戦う者としては最も重要な要素を持っている。後天的な方法として、狂気による恐怖の塗りつぶしという方法で、戦いの高揚感で相手への恐怖を誤魔化し、戦うことが出来ないわけでもないが、明確な恐怖を直視して狂わないなど相当の胆力を持った者でもできる芸当では無い。
そしてその強靭な精神力こそ、千秋が最終的に教えようと思っている技術には絶対に必要になるものだ。
ある意味では、リルは千秋が最も望むものを既に持っているということである。
ただ、望むものは一つではないが。
「一個目と三個目と七個目にミスな。勿論時間内に直せ。後三十秒」
「ぐうっ!」
それを聞いてさらに筆の速度を上げて問題を解きなおすリル。その筆は、最近とれた質のいい毛を適当に縛って芯を炭化させて作った鉛筆であり、リルはそれを使って勉強させられている。勿論、時間制限を守れなかったら後から罰扱いで修業のスパルタが増加するというものも存在しているので、リルは必死になって問題を解きなおす。
実はその鉛筆は、作った材料を普通に売れば一か月は遊んで暮らせるほどの高級素材であったが、千秋は特に気にしていなかった。
「これでどうだ!?」
「む……残念だな。間に合いはしたが、ここのところをもう一回間違えている」
「ああ!!」
リルの必死な表情で突き出される解答用紙を、千秋はドヤ顔で指摘を入れるのを少し楽しみながら、採点し、午後の訓練へと入っていくのだった。
午後の訓練といっても、何か特筆すべき修業をするわけでは無い。至って普通の、単純な体力トレーニングが行われているだけである。
少々、内容が過酷なだけで。
「ほれほれほれほれ。さっさと走らんと攻撃を喰らうぞ~」
ドダダダダダダ、と重低音を響かせる軽く二トンは下らない重量級の魔獣の背中に胡坐をかいて座り、手元に開いている小さな冊子を読みながら千秋は前方を走るリルに声を掛ける。森の中という移動にもコツのいる特殊な環境をただ走らせるのも芸が無いと思い、必死になってもらうためにもそこいらにいた猪に似た魔物を利用して、後ろからリルを追いかけさせるというとんでもなく非道なことを行っていた。
さっきからリルは言葉すらままならず、ほとんど全力で長時間駆け続けているために、呼吸すらもとぎれとぎれになっている。後ろから踏み潰されてしまいそうな重圧感の魔物に追いかけられているというだけでなく、その魔物が地面に足を置くたびに振動で足を取られそうになって体勢を崩しているため、体力の消耗は激しく、死への恐怖や命を失いそうな状況への緊張、さらには足場の悪さと常時思考が回らないほどの疲労がさらにリルの体力を奪わせている。
どこからどう見ても千秋のただの虐待のようにしか見えないのだが、生憎と今の千秋に常識を説くような良識人はここにはいなかった。そして、千秋も命がかかっている状況以外での訓練をやらせるほどに、まともでも温くもない。
無論、猪の魔物には十分に移動速度遅延の魔術をかけまくり、視野狭窄を起こさせてリルを追いかける以外の行動ができない様に常時完璧にコントロールしているが、まだ魔術を詳しく千秋から教えてもらっていない段階のリルでは分かるはずもなく、結果、身体が疲労で動かなくなっても、強烈な危機感という名の意思の力で走り続けている。
三十分もかからない死のランニングで、既にリルの足の筋繊維と心肺機能には多大な負荷がかかっていた。
そして、そんな状態の走りはいくらも持たず、遂に木の根に躓いて思いっ切り転んでしまう。
「が……ふ……」
ふうふう、と息をするだけでも重労働といった様子で地面に倒れてしまったリル。指一本動かせないという様子を見て、千秋は一時的に猪に麻痺をかけて動けなくした後に、自然治癒の魔術を丁寧に展開しながらリルの動きについて指摘していく。
「駄目だな。疲れてくるにつれ、段々と動きの精度にムラができてきた。前半の体力のあった辺りはまだ俺の教えたように体重を前方に倒して、自重を利用した移動ができていたが、後半はそんなことも覚えていなかったな。疲れてても、意識しないで走れるくらいに走り方を体に刷り込ませろ」
「……そ……な……と、で……よ……」
「出来ないじゃなくて、やれるように『なれ』 いいか、取り敢えずその朦朧とした意識のままよく聞け」
千秋は四肢を投げ出して倒れ込んでいるリルの傍に近寄り、その足を片手で指圧しながらもう片方の腕で魔術を展開して断裂した筋肉を急速に再生させていく。
指圧する腕に纏っているのは人族の使う「純魔力」では無く、獣人たちの使うような生命力特化の「獣魔力」を流し、生命力という概念の範疇で新陳代謝を活性化させる。
一方で魔術の方は、まるで細かな糸で千切れた筋肉をつないでいくかのようにそれぞれの繊維を引っ付けってしまう。
溜まった筋疲労をマッサージで癒し、急速に魔術で強引に筋繊維を治していくその過程は、無論の事激痛が走るのだが、千秋はそれを麻酔などで癒すことは一切しなかった。そもそも、この程度の痛みに耐えられないようではこの先の訓練にも実戦での負傷にも耐えられない。
ここで弱音を言うようならば訓練の難度も多少変えようかと思うのだが、リルはそういった弱音を一切吐くことが無い。故に、リルがどこまで痛みに屈しないかの意思の固さを見るためにも千秋は手加減なしでリルに訓練を行っている。
「今のお前にさせているのはおっそろしくえぐい基礎の基礎だが、戦いで必要な要素はここに全部の極意が詰まっているといっても過言ってわけじゃない。
お前の才能を測ったわけじゃないが、あの餓鬼ども三人に負けていた時点で少なくとも体術に天賦の才はない。
更に魔力に関しても、殊更に才能があるわけでもなく、かといって才能が極端に無いわけでもない、いわば凡百の域に留まっている。
そして魔術、念術などの術式系統に関してだが、これは適性は存在しても、初めからなんでもできるという才能が通用するレベルの技術じゃあない。あれはそもそも、術式に何度も触れて”意味”を編み上げる経験がない限り、絶対に使いこなせるもんでもない。
つまり総評して、今のお前はただの反骨精神の強い子供ってだけなわけだ」
千秋の説明に、リルは激痛にすら呻き声一つ上げなかったというのに、まるで自分が弱いことが悔しいといわんばかりに低く唸り始めた。
さっきまで疲労で動かなかったはずの指で堅かったはずの地面を少しだけ抉っているところを見るに、精根尽き果てたところから怒りで一気に気力が戻ったらしい。なんとも元気なことである。あまりの精神力に千秋でさえ少々呆れた。
しかし千秋はリルの才能が極めて凡人の域を出ないと告げたが、特段彼は才能というものに価値を見出していない。
実戦を何度も経験すれば、別に才能なんてできることの幅が広がるだけの代物だということは嫌というほど思い知らされるものだ。戦場で十年に一度とか言われていた才能の持ち主が、十人からなる末端兵士の集団にいとも容易く敗北した事実だってそこらへんにはゴロゴロ転がっているし、そもそも命のやり取りの前で才能なんて言葉を気にしているようでは、どんなに高い原石でもあっさりと死ぬ。
それに、魔術があるこの世界では才能を持った絶対的な強者というものも存在していたが、所詮この世界に存在している”モノ”だ。不死者だろうが竜だろうが根底から存在の因子を全て抹消してやれば首を撥ねるだけで死ぬ生き物と何一つ変わることは無い。
つまり才能が高かろうが低かろうが、それだけで相手に勝ち残って生き残れるかというと、それほど甘い話でもないということだ。才能単体で勝てるほどの例外なんてものは魔王とか剣聖とか仙女とか聖女といった周りから隔絶しすぎている能力を持った者達くらいで、そもそも人間の想像しうる範囲内の実力であれば才能のレベル差だけでは勝敗を決定づけるまでには至らない。
「ただ、別にそれが強くなれないと決まったわけじゃない。例えばここに十の力と十の才能、十二の力と十二の才能を持った二人の男がいたとする。で、普通に考えて十の力しか発揮できない奴の方が弱いんだが、やりようによっては十二の奴に圧勝することだってできる」
「どうやって!?」
リルは千秋に対し、強く叫ぶ。それには喉すら枯れかけている状態のリルから発せられたとは思えないほどの気迫と強さが含まれていた。
恐らくは―――と千秋は夢想する。恐らくは、リルは何か自分が力が足りなかったことで、強烈なコンプレックスを抱えている。
それは恐らく千秋とは同種のものでは無く、彼の全く知らない何か危険な記憶のような気がする。リルというある種の同類と見ていた存在が抱える過去に、千秋は強烈に興味を覚えたが――――それを聞くのは今では無い。
今は、リルを強くすることのみを考える場面だ。
「簡単だ。十の力の内、九を能力にぶっこんで、残りの一で戦術練ってから十二の実力を完封して一以下にしちまうような戦術を編み上げればいい」
千秋は内心の葛藤をそうやって処理して、リルの答えを提示する。しかし、まるで夢物語でも語るかのような彼の回答に、リルは渋い顔を見せた。
「そんなんができたら誰だってやってるだろ?」
「それがそう簡単に行くもんじゃねえんだよなあ。お前、後で玉乗りしながらナイフでジャグリングしてみろ。十中八九まともに出来たもんじゃないぞ。俺が言ってるのはそれよりも難しいことだからな」
「曲芸と戦いって関係ないだろ」
「やりゃあわかる」
現に今、千秋はリルへの治癒術式の構築に意識の約九割を割きながら、残った一割で正常な思考と会話を行っているが、もしリルがそれをやろうとすればどちらかがおろそかになること請け合いだ。曲芸と戦い。その両者は全く異なる者でありながら、同時に複数のことを処理しなくてはいけないという点においては特段違いは無い。
要は意識の容量の使い方という事である。三の集中力でできていたことが、一の集中でさらに上手く出来るようになればその分だけ余裕ができて他のことまでできるようになる。千秋の場合は戦いの技術などをほとんど一割以下の集中力で済ませ、それ以外の集中力を能力を上げる術式起動や複数起動、戦術予測を行うことに回している。なおかつ、十割の集中力を回した時とほとんど変化の無いほどに動作の精度を上昇させることが、彼のいう技術の一つである。
「……それにもし才能がある奴が俺と同じように頑張ったら、意味がないんじゃないのか……」
「ぶはっ!」
更に聞こえてきたリルの自信なさげな声を聞いて、千秋はつい堪え切れずに噴き出してしまった。
悪いとは思うのだが、一度ツボに入った笑いはなかなか止まらない。それでもきっちり術式を維持している辺り、千秋の意識の使い方というのがいかに器用かということがうかがい知れるのだが。
「お前……」
「いや、だって、まるでアホなことに悩んでるんだからさ、笑うのも無理ないだろ」
リルから向けられるジト目を一切気にせず、千秋は笑いながらリルの治療を行う。
彼からすればリルの言ったことは馬鹿らしいの一言で済む。誰が今言ったことを本当に誰でもやれると思うのか、という点である。
千秋が言っているのは、仮にその人間の無意識意識の全てをひっくるめた能力の幅を十としたとき、本来は十の内、七か八を使って行う目先の戦闘への集中という作業を、たったの一で行うということである。詳しくはいずれ話すが、そもそもそんなことをたかが才能なんてものだけでできるものでは無い。
こればっかりは才能では無く、本人の強い意思と折れない精神力と死の一歩手前まで言って何度も刷り込むという荒行を行えるくそ度胸、それにそもそもそれをやろうと教えてくれる存在か、自分で思いつく思い付きにも似た幸運が必要なのだ。最早、人間性を捨て去ったまともじゃない修行法であるが故に、誰も進んでやろうなんてするわけがない。精々いたところで、時代に一人か二人くらいである。
それに能力が劣っているからといって、負けると決まったわけでは無い。隔絶していない範囲であれば、ある程度までは技術でもカバーできる範囲はある。
とは言え、今全部教えても理解できる範囲でもないので、にやにやと人の悪い笑みを浮かべてリルを見て置くだけで留める。これも、リルに自分で気づいてほしいという千秋のやさしさだ。決して、教えないことで虐めているわけでは無い。
「おい、教えろよ。その顔は何か知ってるんだろ?」
「いやぁ? どうかな? それよりももう回復しただろ? 次行くぞ」
「へ? おいちょっと」
千秋はそれだけを告げて、麻痺させておいた猪の魔物に飛び乗る。勿論、乗った後に麻痺は解除してだ。
「ほれほれ~。今度は最後まで走り方を統一しろよ?」
「くっ! 覚えてろよ!」
そしてそのまま、リルと千秋は午後一杯を使って体力トレーニングという名の、超肉体改造を行ったのだった。
晩である。
千秋の式神に作らせておいた掘っ立て小屋は日が落ちたことで灯りが点けられ、そもそも昼も夜もないような薄暗い森の中でひときわ異彩を放ちながらぼんやりと光が漏れていた。
しかし、特にそこに安全上の問題は無い。なぜなら、この小屋を認識できない様に妖力と魔力と念力と精霊力を使った四重の高等術式を上手く掛け合わせて結界を張っているからである。ここまですれば、そもそもこの森の主でも認識できるかどうかすら怪しいほどで、ぶつかったことにすら気づかないものが出てきてもおかしくないほどに強固な術式があんであるからだ。
そんな贅沢な結界を張った理由は、千秋が食事を邪魔されたくないからというものである。こればっかりは夜襲に備えるという修業を始めるにしても、まだ譲れなかった。奇襲に備える訓練は、合宿みたいな形でその内やろうと思っている。
無論、今夜襲に備えるといっても、肝心の鍛える側であるリルが、仮に気づいても何の対応もできるほどに実力が育っていないというちゃんとした理由もあるのだが。
ともあれ、
「晩飯はしっかりした物を食ってもらうからな」
「うわぁ……」
そう言って千秋が食卓に並べたのは、大量の肉と野菜の入った料理であった。無論、材料は現地調達。
机の上に並ぶ料理のどれもが栄養豊富な上に、極上の味覚を堪能できるようにと千秋がその英知の全てを結集して作り上げた絶品ぞろいである。
料理の中には、森の中だというのに何故か手に入った陸魚の刺身や草喰蟹の甲羅でつくった鍋という、その毒性故に一般には食べられないとされていたものでも完璧な調理が施されており、小屋の内部には暴力的なまでにお腹を直撃するいい匂いが立ち込めている。
よって、既に千秋の料理によって胃袋を掴まれていたリルも今日一番の歓声上げていた。
「朝と昼は吐かない様にあまり食えなかったからな。夜は残さず食ってもらうぞ。第一にお前細すぎるし、成長の為にももっと太っとけ」
「分かった!!」
本当に今日一番のいい返事を千秋に返し、「いただきます」と言った直後からリルも千秋も猛然とした勢いでがっつき始める。千秋は箸で、リルはまだそこまで器用ではないのでフォークとスプーンで、はふはふと汁物や麺類に焼き肉を口の中に次々と消していく様は異様な迫力が感じられる。
開始十秒で空になる大皿が二枚。師弟ともにとんでもない速さで食事を消していく。給仕代わりに作られた式神はおおわらわで新しい料理を持ってくる。
戦場と化した食卓の上で、リルが少しだけスープを服に零す。それに気づいた千秋は口に何も無くなった瞬間にリルに声を掛けた。
「おい、その服。脱いだら後で洗っとけよ」
そう告げて千秋が今度は手羽先に似た唐揚げに手を出すと、リルは困ったように顔に皺を寄せた。
「むぐむぐ……だけどなあ。俺服って言ったらこれくらいしか持ってないぞ? どうするんだ?」
口の中にあった食べ物を飲み込んでから話し出すリルに、あれ? と千秋は思った。リルに辺りの光景を透かすことのできる眼帯を作ってやり両目の光彩を誤魔化せるようにした後、お金を渡してから洋裁屋に服を見繕ってこさせたことを考えると、その発言はなんかおかしいのではないかと疑問に思ったのだ。
もしかしたら頼んでいなかったか、それとも別の物を買ったのか。一応念の為聞いてみたら、返ってきた答えは彼の想像を超えていた。
「いや、買わせたの何着か確かあっただろ? あれ着ないのか?」
「え、だってあれひらひらしてんじゃん。あんなの着てたら訓練で動けないだろ」
「ん?」
疑問を感じた千秋は、一旦食事を中断してリルに服を持ってくるように告げた。この森に来るまでは彼は荷物を全部鞄の中に適当に突っ込んでいたせいで、衣類などの着替えはよく見ていなかったのだ。
そして、その千秋の言葉を素直に聞いて戻ってきたリルの手にあった服を見て、千秋はきっかり三秒は停止した。
ぎ、ぎ、ぎ、と鈍い動きで首を動かし、リルに向かって声を投げかける。
「……なあ……なんで、女物のワンピースなんだ?」
「お前の言った店に行って、『服を仕立ててほしい』って言ったら店員がこれを持って来た」
「……あれ? お前女だったの?」
「言ってなかったか?」
首を軽く傾げたリルに対し、たらりと額に一筋の汗が流れた千秋。
まさか短髪で、一人称が「俺」で、ここまで勝気なやつが女とは思わず、すっかり騙された気分になる千秋。一応彼も男女の骨格差で性別診断ができるのだが、子供であるということと、栄養失調気味であったことのせいで全然気づかなかった。確かに言われてみると、結構な女顔である。
というか、なんか成長したらそこそこ美人になりそうな感じである。
「……さっぱり気づかなかった」
停止している千秋をほっといて、リルは服をしまった後に食事の席に戻る。
むしゃむしゃと食べ続けるリルの姿を見て、ようやく思考がまともにもどってきた千秋も食事を再開した。
実は後で風呂の使い方を教えるついでにでも一緒に風呂に入ろうと思っていた千秋は、無自覚のままにセクハラをしたことになって、後にエロ師匠とか呼ばれそうになっていたかもしれない事実におぞましい恐怖を感じつつ、先んじてその悲劇を回避できたことに深い安堵を覚えるのだった。
無論、その後は風呂の使い方だけ教えて、リルを一人で風呂に入れるのだった。
千秋君は紳士です。外道ですが、変態ではありません。あと、更新はリアルの忙しさにより今週は不定期化