結
家に帰った頃には、もう十二時を回っていた。
二階に昇って、母さんの部屋を覗く。六畳間の端っこに置かれたベッドの上で、母さんはすうすうと寝息を立てていた。
母さんの所在を確認したわたしは足音を立てずにリビングに降りた。
そして、わたしは数日前に開いた箪笥を開いた。あの、いろんなものが乱暴に詰め込まれていたところだ。音もなく、棚ごとすべて取り出した。そして、中に入っているものをすべて改めた。
出てきてしまった。
母子手帳。わたしのものとは違う、母子手帳。わたしと同じ苗字の男の子の名前が書かれていた。誕生日欄を見ると、わたしより二歳ほど年上らしい。
さらにその箪笥の奥からは、へその緒が見つかった。わたしのへその緒の下に隠されるようにして収まっていたその外箱には、やっぱり今見つけた母子手帳とまったく同じ男の子の名前があった。
そう。今日、わたしは俊雄の記憶回復セラピーによって、あることを『思い出した』。
わたしには、兄がいた。
そして――。
にわかには信じられる話じゃなかった。『思い出した』ものが真実なのかは分からない。だからこそ、調べてみたかった。
わたしはダイニングへ移動した。シンクの前の床には収納庫がある。
その収納庫の扉を開いた。収納庫には古い醤油や使っていない糠床が置かれていて、空気もじめじめとして淀んでいた。荷物たちを拾い上げて、記憶を頼りに収納庫の底蓋を取り上げた。すると、床下が露わになった。
まさか、あるはずがない。
祈るような気持ちで、懐中電灯を灯して床下を覗き込んだ。
と――。
懐中電灯の明かりが、床下に寝転ぶそれの姿を捉えた。
○
それはきっと、真夜中のことだ。ちらちらと電燈が揺らめくたび、わたしたちの世界も揺らいだ。でも、こんな世界なんてなくなっちゃえばいいんだ、と子供ながらにわたしは祈っていた。
怪獣は、男の子の首を絞めていた。
「なんであんたはわたしの言うことを聞いてくれないの? どうしていい子に出来ないのよ」
小さな男の子は、怪獣の細い腕にきりきりと締め上げられていた。最初はじたばたと抵抗していたのだけれど、やがて抵抗の力が小さくなっていた。でも、怪獣はそれに気づく様子はなかった。
「なんでわたしだけ割を食ってるの? わたしが何をしたっていうの? わたしだって頑張ってるわよ。なんで誰もわたしを助けてくれないの? なんで、なんで、答えなさいよ」
怪獣は力いっぱいに男の子の首を絞めた。
すると、男の子のわずかに震えていた手も、ぴたりとその動きを止めた。
それでも怪獣はずっと男の子の首を絞め続けた。
怪獣が、男の子が動かなくなったことに気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。
男の子は既に息をしてなかった。土気色に変色した顔。ズボンは漏らした尿で汚れていた。さっきまで一人の人間として動いていたものがただの肉の塊になってしまったという事実に、わたしも、そして怪獣も慄いているようだった。
わたしの視線に気づいたのだろう、怪獣はわたしに向いた。あの、冷たくて鋭い目をして。
「約束できる? これはわたしとあなたの、秘密」
もし守れなかったら。そう怪獣は続けた。
「ねえ、あなたは許してくれるわよね」
怪獣の表情があまりに怖かった。だから、わたしは頷くしかなかった。
そうして怪獣は、シンクの下にある収納庫を開いて、ぐったりとしてもう人間としての体をなしていない男の子を、床下へと投げ込んだ。
○
床下には何かが転がっていた。いくら目を凝らしてもそれが何なのか、わたしにはわからない。もしかしたら、野菜を買ってきたものをほったらかしにして腐らせてしまった残骸かもしれないし、床下に紛れ込んできた猫の死骸かもしれない。はたまた、なんていうことない、取るに足らない土の盛り上がりなのかもしれない。いずれにしても、見るこちらに一種の気持ち悪さを強いるものであるのは確かなようだった。
と――。
「何をしてるの」
冷たい声がわたしの背中にかかった。
床下から顔を上げると、そこにはパジャマ姿の母さんが立っていた。
「何してるの、って聞いてるの。こんな真夜中にリビングもあんなに散らかして」
その瞬間、怖気が走った。
母さんの目が、血走った、ナイフみたいに鋭い目をしていたからだ。
そう、それは、あの怪獣の目と同じだった。
あぁぁぁあああぁあああ。
わたしは声にならない声を上げた。もう何が何だかわからなかった。でも、あの目が怖い。あのじめじめとした床下になんか入りたくない。死にたくない。
それよりも何よりも、あの目から逃れたかった。
次の瞬間、わたしは無我夢中でシンクのドアを開いて包丁を取り出した。
「え、ちょ、どうしたの」
怪獣の制止も聞かずに、わたしは包丁を抱えて飛び出した。
そして。
わたしは、怪獣の腹に、包丁を突き刺した。
あの怪獣の目がわたしの脳裏に走る。何かに追い立てられるようにして、わたしは怪獣に馬乗りになって何度も刺した。そうして、怪獣は動かなくなった。
血だまりがいつしか、怪獣の周りに出来ていた。
右手には、血に汚れた包丁。手もべっとりと血で汚れている。
すべてが夢だったらよかった。
でも、血の匂いとべっとりと手にくっつく血の感触が、これが現実なんだと告げてくる。
わたしは、母さんを床下に落とした。
と――。
ピンポーン。
こんな時間に来客?
わたしはいぶかしく思いながらも、玄関のドアを開けた。
と、そこには、のんきな顔をした俊雄が立っていた。
どうしたの、と聞くと、俊雄はわたしの右手の辺りを一瞥してから、
「いや、心配になっちゃったから来てみたんだ」
そう言って、にっこりと笑った。やっぱり、俊雄の笑顔は素敵だった。
今作の狙い:藪の中方式




