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 わたしは時折、夢を見る。

 怪獣が出る夢だ。

 怪獣、とはいっても、太い尻尾や太い腕があって、鋭い牙のある口から火を吐くようなやつじゃない。夢の中に現れるそれは、いつも真っ黒なシルエットで形は持たず、わたしの目の前にただ佇んでいる。その怪獣は何をするでもない。ただ、わたしの目の前に立って、無言を貫くだけだ。

 でも、わたしがこの怪獣を恐れているのは、その目だ。

 目だけは真っ黒なシルエットの中でもぎらぎらと光り、こちらを見据えているのが分かる。ひどく血走っていて、こちらへの害意を隠さない。

 だからわたしはいつも、夢の中で怪獣に謝ってしまう。

 ごめんなさい。わたしが悪いの。

 なんでわたしが悪いのかなんて分からない。でも、そう言わないと、怪獣の腕が伸びてきてこちらの首を絞め上げてきそうで怖かった。怖いから謝る。ただそれだけのことだ。そのときのわたしは猫を恐れる雀だ。

 その怪獣の目が、最後まで頭の奥に残る。

 血走った、ナイフみたいに鋭い目が。


 寝不足のわたしは、あくびを一つしながら頭を掻いた。

「あれ、おかしいなあ」

 わたしはその日お出かけ前で、お気に入りのイヤリングだかネックレスだかを探しているところだった。ああ、いつも『外したときにしっかり整理しておけばよかった』って後悔するんだよなあ、やだなあこのガサツな性格。と心の中でため息をついて、リビングの箪笥を引っ掻き回していた。

 でも、こんな時に限って見つからない。

「あのねえ、いつも言ってるでしょう。こんなところにネックレスをぽいぽい置くから駄目なのよ」

 非難がましい声にわたしは唇を延ばした。

「はいはい分かってる。耳たこ!」

「耳たこならいい加減に直しなさい」

 そうやって顔をしかめているのは母さんだ。土曜日だというのにいつも着ている細身のパンツスーツを小奇麗に穿いている。しかも、メイクもばっちりだ。

「あれ、もしかして、今日も仕事?」

「うん、そうよ」母さんは頷いた。「クライアントから急な見積もりが入って」

 大学生のわたしにとって、クライアントだの見積もりだのといったものが、たまの土曜休みを削る価値のあるものなのかはよくわからない。

「母さん、もう行くから。夕飯までには帰る。あんたは」

「え、わたし? ああ、夕飯は外で食べてくる」

「あっそう、分かった。あんたの分の夕飯は用意しないわよ」

 ハンドバックの蔓を取って、母さんは玄関の方へ行ってしまった。それから少しして、立てつけの悪い鉄製のドアがバタンと鳴った。すると、なんとなくうるさかった部屋の中が、急に萎れてしまったような気さえした。

 母さんはこの家のルール、王様だ。

 父さんはいない。わたしが物心つくかつかないかの頃に別れちゃったのよ、とは母さんの弁だ。母さんは「あんたの父さんはなんだかいい加減な人でね。それが原因でいろいろあって別れなくちゃならなかったの」と言っていたけれど、そんな片手落ちの審判じゃあ実際のところは分からない。それに、母さんは父さんのことなんてほとんど喋ってくれない。

 父さんのいない我が家では、母さんが王様だ。もっとも、わたしと母さんしかいない中では、どうしたってそんな力関係になるのは仕方がないことかもしれない。

 母さんがいなくなった家は、ひどくひっそりとする。黙っていても、母さんはそこにいるだけでも音を放っている。まるで王様みたいに。そんな気がする。

 あ。

 わたしは手が止まっていたのに気づいて、ネックレスをまた探すべく箪笥を引いた。

 ん?

 手を付けた箪笥を見やるや、わたしは首をかしげた。

 母さんは綺麗好きだ。テーブルの上はいつもつやつやにしてあって、テレビとか照明のリモコンの位置がずれているだけで一気に不機嫌になる人だ。だから、母さんのテリトリーであるリビングにあるものはすべて綺麗だ。仮に、十数年開いていないような箪笥の中であっても、だ。

 でも、その箪笥の中身は、いつもの母さんらしからぬものだった。

 手紙や写真、何に使っていたのかわからないような手帳類がぎゅうぎゅう詰めにしてあった。それどころか、ポケットティッシュとか小銭とか、はたまた電池みたいなものが乱雑に収まっている。どう見ても、母さんの手が入っている様子はない。

 思えばこの箪笥、わたしが物心ついたころからあるんだよね、と心の中で呟きながら、その中身を見ていると、わたしはある興味に駆られた。

 もしかして、これ……随分前のものが収まってる。ってことは、父さんの写真とかあるかもしれない。

 わたしにとって父さんは、母さんからの決して多くはない情報でつぎはぎになった存在だ。それでも全体像を描き出すことが出来なくて、仕方なく世間の言う「父親」というイメージを無理矢理にくっつけて体裁を整えている。だからこそ、父さんという存在の実際の姿を知りたい、そんな気持ちはある。

 はたして、わたしの想像は半分当たった。この箪笥の棚は随分古いものが入っていたようだった。手帳は母さんの古い日記らしい。わたしの子育てに悩む日々が母さんの癖字で書かれていた。でも、もう半分は外れた。わたしが知りたかったものはまったく見当たらない。

 ないのか。

 ため息をついて手帳を閉じた。すると、手帳のページから何か紙切れのようなものが零れた。

 それは写真だった。

 拾い上げてその写真に視線を落とす。

 その写真には、三人の姿が収まっていた。柿の木の枝ぶりとか後ろに写っている縁側の様子から見ると、きっと家の庭で撮られたものだ。

 縁側に座り微笑む母さん。その母さんに抱かれて眠る赤子はきっとわたしだろう。セピア色に変色しつつある写真はひどく幸せそうな母子を映し出していた。

 と――。

 わたしは母さんとわたしの横にいる、一人の人物から目を離せずにいた。

 母さんの横、縁側に、一人の男の子が座っていた。年の頃は三歳くらいだろうか。青いトレーナーにジーパン姿の男の子は、いかにもヤンチャそうに縁側に座りながら両足を投げ出してカメラに向かってピースをしている。いや、男の子であるという確証はない。ただ、青いトレーナーという姿が男の子を連想しただけだ。

 誰だ、これ。

 わたしは首をかしげた。

 家の近くにこんな男の子、いただろうか。古い記憶の棚を引き出してみる。でも、どんなに奥を引っ掻き回してみても、その奥にこの男の子に関する記憶は残っていなかった。

 でも、気になる。

 そうして、もう一度男の子の顔を見た、その瞬間だった。

 わたしの肩に、冷たいものが走った。

 思わず、写真を取り落してしまった。

 なんだろう、この感覚は。

 冷たい風が走ったわけでもない。体の芯から冷えたような、そんな感覚だった。

 夢の中に出てくるあの怪獣を怖がるときに感じる冷たさと全く同じ。

 でも、なんで……?

 一人立ち尽くしていると、時計のアラームが鳴った。

 その音がわたしを一気に現実へと引き戻した。このアラームは電車の発車時刻が迫っていることを教えるものだ。

 ああもういいやネックレスは!

 手帳に取り落とした写真を挟んで元の箪笥の中に納めて、わたしはハンドバックだけ取って玄関へと向かった。


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