東京の片隅で A DAY IN A GIRL’S LIFE
手渡された二千枚のチラシはかなり重く、わたしは少しふらつきながらそれを自転車の二台に据えつけられた箱に収めた。そして包装紙を破り、中で五百枚ずつ縛ってまとめているビニール紐のひとつを切った。
「説明会で言ったとおり、一時間ごとに定時連絡を入れるように」
責任者の声を背に、箱の蓋を閉め、自転車を押す。スタンドが上がり、両腕に頑丈な自転車とチラシの重みを感じる。これはなかなか骨が折れるかもしれない、と思いながらサドルに乗り、こぎ始めた。足にぐっと力を入れないとペダルが動かない。わたしは少し前のめりになる。はじめて見る街の景色がゆっくりと流れていく。時刻は朝九時一〇分を少し回ったところ。
大学一年の春休みを帰省せずに東京で過ごすことに決めたのは、もう子供じゃないんだから休みのたびに実家に帰るのは格好悪いよな、という学科の男の子の一声がきっかけだった。上京して二か月と経たないゴールデン・ウィークに帰省し、夏休みに帰省し、年末年始にも帰省していたのが急に恥ずかしく思えてきて、わたしは三月いっぱいの休みを東京の下宿で満喫することにした。
もともと東京住まいの友達や、動機は知らないがわたしと同じく地元に帰らなかった子たちと適当に買い物をしたり、映画を見に行ったり長電話したりしたが、程なくすることがなくなってしまった。六畳一間の下宿で、一日中ネットサーフィンしたり、本を読んだり、眠くなったらごろごろしたりして過ごすのは、はじめのうちは贅沢な暮らしをしているみたいで少し楽しかったけれど、それって単なる学生ニートじゃない? と友人の一人に指摘されるとたちまち居心地が悪くなった。いい若者がひねもす部屋で無為に過ごすなんて、たしかにろくでもない。
そこでアルバイトをすることにした。長い休みなんだから連日働いてまとまったお金を手にしよう。特に使う当てもないのだけれど、一年間仕送りに頼ってぜんぜん自分で稼いでいなかったので、そろそろ自立へ向けての第一歩をしるすべきなのではないかと思ったのだ。そうしてインターネットで求人サイトを見てみたけれど、あまり機転の回るほうではなく、人にものを教えるのには到底向いていなくて、我慢強くもなく、面倒くさがりで、たぶんそんなにかわいくもないわたしには、コールセンタースタッフも塾の講師も、ファーストフードの店員も軽作業もフロアレディもできそうにない。それで応募したのが、引越しのチラシを一日中配るという到底女性向きではない仕事だった。説明会の会場は、年齢も体格もさまざまだったけれどやっぱり男ばかりで、ショートカットだけれど一六〇センチもないわたしはひどく浮いて見えたことだろうし、実際始終落ち着かなかった。それでも、説明のあと順番に呼ばれて、履歴書をはさんで面接担当者と少し話したあと、一五日から十日間連続で働くことになった。高校時代運動部に入っていて体力に自信があったわけでもなく、全うできるか不安だったけれど、まあなんとかなる、と思いながら説明会場を後にした。これをやりとげれば、何とはなしに胸を張って二年生になれるような、そんな気がしていた。
やることは簡単で、担当街区の一丁目一番地からしらみつぶしに回り、集合住宅を見つけたら自転車を止める。そして郵便受けにチラシを投函していく。ただし雑に投げ込むのではなく、軽く半分に折って少し外に出るように。担当者があとからチェックして回るのだ。
アルバイト初日は大田区だった。東京に来て一年経つが、世田谷区の家の周りと大学の周り、それに渋谷と新宿と池袋以外はほとんど知らない。高校時代は東京の地図を広げ、よく想像したものだ。この何区何町何丁目何番地にはどんな人たちが住んでいて、どんな生活を送っているんだろう、と。
その無数にあった想像上の東京の街のひとつを、今わたしは自転車で走っている。
九階建てのマンションがあった。少し離れた電柱脇に自転車を止め、チラシを五〇枚ほど抱えて玄関に向かう。管理人室をそっとうかがってみたけれど誰もいない。管理人がいたときは一声かけることになっているのだ。チラシ配りには押しなべて邪険な対応をするものと聞いていたので、少し安心してチラシを郵便受けに入れる。安藤、横谷、富士、渡辺、畑中……と表札を確認しながら。すっと自動ドアが開いて、三十代くらいのスーツ姿の女性が出てきた。私のことを横目で見ながら早足で道に出ていく。今の人がもし夫と共働きの安藤さんだったら、と思った。わたしは東京の片隅の、ほとんど誰でもないような人間だけど、こうしてあなたの家に引越しのチラシを入れました。
九階建てでは五〇枚で足りるはずもなく、途中で自転車に戻ってチラシを追加し、すべて投函し終えたころには一〇分近く経っていた。遅いなあ、と自転車に乗りながら思った。昔から、ぼんやりして動作が遅いほうで、それをネタにからかわれたりした。中学ではちょっといやなあだ名をつけられそうになったこともある。そのときに怒ってくれた女の子とはそれから三年間友達だった。別々の高校に進学したあともメールのやり取りは続いたが、去年彼女が地元の銀行に就職してからは途絶えがちだ。今どうしているんだろう。実家を出て一人暮らしをしているらしいけれど、そこはどんな家? こんな立派なマンションだったりはしないか、さすがに。
ふと気がつくと目の前に電柱があった。あわててハンドルを切り、すれすれで避けたが、後ろに積んだチラシの重みでバランスを崩し、見事に転倒してしまった。左肘と左膝をしたたかに打って、涙が出そうになる。しっかりしろ、と自分に言い聞かせながら立ち上がり、箱の蓋が開いてチラシが散乱していないのを確認してから自転車を起こす。成人式を迎えたんだから、もう子供みたいに泣いたりはしないんだ。しちゃだめだ。
ひとつの番地をぐるりと回り、集合住宅を見つけては自転車を止め、少し行ってはまた止め、スタート地点に戻ると次の番地へ移動、というのを繰り返していると、見た目以上の距離を移動することになる。最初の定時連絡を入れた段階で距離計は五キロを超えていた。
「少ないね。もうちょっとペース上げて」
電話の声に萎縮する。アルバイトをするということは、こういう口調でものを言われもするんだろうとわかってはいたつもりだったけれど、実際に言われると少し怖い。元来わたしは気弱な性格で、中学のころ、先生に注意されると三回に一回は泣いてしまい、かえって困らせていた。高二のころにようやく抑えきれるようになったけれど、根本的なところでの自信のなさ、弱さみたいなものは今でも引きずっている気がする。こんなことでへこんじゃいけない、わたしは大人になるんだ。電話を切り、自転車にまたがった。
午前中だけでひとつ半の丁目を回った。まだ担当区域の四分の一にも達していない。チラシはやっと最初の五百枚の束が終わり、三〇枚ほど配ったところ。大通りに出てそば屋へ入り、わかめそばを食べる。上京したら東京っぽいことをしよう、と受験勉強の合間にぼんやり考えていたが、その中のひとつがそばを食べることだった。東京人はそばが好きって、それ田舎者にも程があるよ、と学科の自宅生の男の子に笑われてちょっとむっとしたけれど、これにはこだわっている。財政的な事情もあり、大学の食堂では三日に一度はそばを食べる。週に一度は近所のそば屋で食事する。意地を張ってうどんを食べないのが子供じみているよ、とその男の子は言った。不味いそばより美味いうどんのほうがいいじゃん。いいでしょ、わたしはうどんは飽きるほど食べたから、とそのときは反論した。でも、このわかめそばはちょっと味が濃すぎる気がする。やっぱりわたしの口には西の薄味のほうが合っているのかもしれない。予備校の帰り、時々立ち寄って夕食をとったうどん屋を思い出す。女子高生同士でうどん屋なんてちょっとアレだよね、と言った友達の笑顔。低く雲の垂れ込めた空とマフラーの暖かさ。受かったー! というメール。ずっと友達だから、と抱き合って泣いた卒業式。そういう何もかもからずいぶん遠くに来てしまった気がして、涙腺が緩みかけた。わたしは今、東京の片隅で、うどんじゃなくてそばを食べている。あなたは今でもうどんが好き?
昼下がりから、学校帰りの子供たちをよく見かけるようになった。ああ、まだ小中高は三学期なんだ。追いかけっこしながら走る小学生。一人転んだ。わたしはちょっと自転車を止めて見守る。男の子は口を真一文字に引き締め、何とか立ち上がった。膝がすりむけて血がにじんでいるけれど、そんなのどうってことないと言いたげにゆっくり歩き出す。大丈夫か? どうもねえよ。そんなことを言い合いながらまた走っていった。偉いぞ、よく泣かなかったね。わたしは彼に心の中で呼びかける。お姉ちゃんはさっきなんでもないことで泣きそうだったよ。それから一心不乱に本を読みながら歩いている眼鏡でお下げの女子中学生。すれ違いざま本に目を走らせると、手書きのTシャツが印刷されていた。見覚えがある。村上春樹の『風の歌を聴け』だ。わたしが村上春樹を手に取ったのもちょうどこの子くらいのころだ。『ノルウェイの森』をとりあえず買ってみたらやたら性描写が目につき、それも、主人公が女性の手で射精するというなんとも言えないものが多くて、わたしはとても悪いことをしているような後ろめたさを感じながら二日がかりで読んだ。それから本棚の一番奥にしまって、時々読み返しては、やっぱりどうしても慣れなかった。中学の卒業式、男の子に告白されたとき、なぜかそれらのシーンが頭をよぎって、思わず逃げ出してしまったっけ。そんなことを思い出しているところへ今度は、手をつないで帰る高校生のカップル。女の子の方が男の子より幾分背が高い。女の子が何か文句を言っていて、男の子がばつの悪そうな顔をしていて、それでも握った手は離さない。まさか男の子が女の子に手伝ってもらって射精したりなんかしていないだろうか、とうっかり考えてしまい、頬が熱くなる。今自分たちを自転車で追い抜いていったアルバイト中の女子大生がこんな変態じみた妄想をしていたなんて彼らが知ったらどんな顔をされるだろう。ああ、落ち着け、落ち着け、わたしの思考。そんなことばかりぼんやり考えているから、ほら、また車にぶつかりそうになる。
かなり寂れたアパートから出てくる夫婦と小さな子供を見た。あまりいい暮らしはしていなさそうな身なりで、まだ若い父親も母親もどこか疲れた雰囲気で、子供ひとりが今にも走り出したくてたまらないという顔をしている。夫と目が合った。なんとなく会釈して、彼らが敷地から出て行くのを見届けてから、玄関脇の郵便受けにそっとチラシを入れた。彼らもいつかは、こんなアパートを出てもっと立派なマンションに引っ越したいだろう。もっと郊外に一軒家だって買いたいかもしれない。でも今はまだ、無理そうだ。心配しなくてもあんたひとりの下宿代くらい出せるわよ、と言った母の顔を思い出す。父は小学生のときにどこかへ行ってしまって、母はいくつかの会社に勤めながら家計を支えてきた。兄弟はいなかったけれど暮らし向きがいいはずもなくて、だからうどんは飽きるほど食べた。それでも、中学に上がると携帯を持たせて費用も払ってくれたし、がんばれば東京の大学へ行ける頭持ってるんだからそうするべきだ、と言ってくれた。私大も受けさせてくれた。そして結局私大にしか受からなかったけれど、母は親類縁者に頭を下げて入学金その他諸々を捻出してくれた。そんな苦労をかけさせているのに、わたしはすねをかじり放題で、上京して一年も経ってはじめてアルバイトをしている体たらく。もう親の世話にはならないとひとりで学費と部屋代を稼ぎ出している子だっているのに、まったく、何がもう子供じゃない、だ。成人式を迎えたらその日から大人になるとでも思っていたんだろうか。どこまで、甘ったれた、わたし。
最後の定時連絡を入れたころにはもうかなり日が傾いていた。なんとか一二〇〇枚近くは配ることができた。あとはぎりぎりまで粘って、一〇分前になったら集合地点へ戻る。わたしはドアを開けて中に入っていくタイプのアパートの前に立った。薄暗くなってきた中でこんなところに入るのは、正直怖い。それでも、この中に入らないと何かを乗り越えられないような気がして、わたしは足を踏み出す。ドアを開ける。中は静まり返っている。しばらくとどまって、意を決して廊下を進む。人が住んでいる気配のない部屋が大半だけれど、だからといって通り過ぎるのはもしかしたら住んでいるかもしれない人に対して失礼な気がして、そろそろとチラシをドアの郵便受けに差し入れていく。一階が終わって、二階へ。三つ目のドアの前に立ったところで中から若い男性がぬっと出てきて、わたしは悲鳴を上げて飛びずさった。何? あ、あ、あの、ひ、引越しのチラシ配っていて、その。大丈夫? は、はい、大丈夫です、あの、すみません、失礼します。頭を下げ、そこから先の部屋を飛ばしたまま、小走りにアパートを出た。自転車をこぎながら、わけもわからず悔し涙がこみ上げそうになり、歯を食いしばって眉間に力を入れる。結局何かを乗り越えられなかった気がした。集合地点へ引き返す一〇分前まではまだ一五分ほどあったけれど、もうそれ以上配る気にはなれず、わたしは適当に自転車を走らせた。さっきの男性の顔を思い出す。ぼさぼさの頭で朴訥そうな雰囲気が、高校のころちょっと好きだった男の子に似ていた。内気なわたしは何も言い出せず、友達にすら気づかれないまま、彼が他の女の子と一緒に帰るのを図書室の窓から見たときに初恋は終わった。ああ、こんなものか、わたしにはお似合いだ、と変にふてくされたことで追いやった涙が、今、目の裏あたりを漂っている。
「一二〇一枚ね。もう少し頑張ってほしかったけど、まあ初日で女の子だし、上出来かな」
午後六時過ぎ、集合地点で担当者に言われ、わたしはありがとうございますと頭を下げ、明日の集合場所を言い渡されて解散してから駅へ歩いた。下町ながら、駅前はにぎわっていた。わたしが高校時代夢想していた、東京のどこかの街の誰かの生活が数え切れないほど目の前にある。だけどそれは決して手が届かない。誰でもないようなわたしはひとりで、彼らの中にある。
駅前にたい焼き屋があった。母娘連れが並んで買っていた。高校生くらいの娘が満面に笑みを浮かべて、美味しいと母親に言う。穏やかな笑みをたたえて娘を見る母親。ほらあんこが口の横についてるよ。あんたも来月から大学生なんだから、そんな子供みたいな喜び方しないの。だって美味しいんだもん。はいはいじゃあもう一個。わたしは逃げるようにその場を離れた。
電車が動き出し、街の灯りが流れていく。ああ、だめだ。涙があふれた。わたしは右腕で目元を覆い、ドアにもたれて天井を仰いだ。わたしは、大人になりきれない、まだ誰でもないわたしは、今日一日東京の片隅で働きました。だけど、弱くて泣き虫な子供のままです。ねえ、わたしはここにいるから。誰か、大丈夫だと言ってください。甘ったれでしょうがないけど、わたし明日からも頑張るから、だから、胸を張って歩いてもいいんだよって言ってください。ここにいてもいいんだよって、言ってください。
意図的に改行を減らしてみましたが、どうでしょうか?