後日談 地に堕ちた光、重すぎる代償
静寂が戻ったダンジョンの通路に、湿った呼吸音だけが響いている。
かつてSランクパーティー『光の剣』と呼ばれた三人の男女は、今や地面と一体化する泥人形と化していた。
アルトが去り際に残した【重力支配・エリア設定】の効果は絶大だった。
指定された座標の重力係数は二倍。
それは単に体重が二倍になるだけではない。彼らが身につけている超重量級の装備品の重さが、物理的に倍加するという死の宣告だった。
五〇〇キロの聖剣は一トンに。
八〇キロの法衣は一六〇キロに。
一二〇キロの杖は二四〇キロに。
さらに、彼ら自身の体重と防具の重さも加わる。
勇者グレンの場合、総重量はおよそ一・五トン近い負荷が全身にかかっている計算になる。
小型トラック一台が、常に背中の上に乗っているようなものだ。
「が、はっ……ご、ぼ……っ」
グレンの口から、泡混じりの血が溢れ出す。
うつ伏せに倒れた背中の上には、愛剣『グラン・レオハート』が鎮座している。
かつては栄光の象徴であり、最強の武力の証だったその剣が、今は彼を圧死させる処刑器具となっていた。
肋骨はすでに数本砕けているだろう。
呼吸をするたびに、胸の奥で鋭い痛みが走り、空気が漏れるような音がする。
肺が十分に膨らまないため、脳に酸素が行き渡らず、視界は常に明滅していた。
「あ、アルト……畜生……戻って……こい……」
グレンは譫言のように繰り返す。
意識が混濁する中で、彼の思考はループしていた。
なぜこうなった。俺は勇者だ。選ばれた人間だ。
悪いのは全てあの荷物持ちだ。あいつが魔法をかけたせいで。あいつが呪いをかけたせいで。
あいつが、俺たちを見捨てたせいで。
「い、いやぁ……臭い……気持ち悪い……」
隣で呻いているのは、聖女エリスだ。
彼女の状況は、精神的な意味でさらに悲惨だった。
重力で押し潰され、身動きが取れなくなってから数時間が経過している。
生理現象を止めることはできない。
高貴な聖女として崇められ、常に清潔で良い香りを漂わせていた彼女の下半身は、今や自身の排泄物で汚れていた。
一六〇キロに増大した法衣は、彼女の柔肌に容赦なく食い込んでいる。
ミスリル銀糸の装飾が皮膚を裂き、血が滲む。
美しい顔は泥と涙と鼻水、そして嘔吐物で汚れ、かつての面影など微塵もない。
「こんなの……嘘よ……私は聖女なのよ……? 王都の舞踏会で、王子様と踊るはずだったのよ……?」
エリスは現実逃避を始めていた。
目の前の暗闇ではなく、過去の栄光の幻影を見ている。
キラキラと輝くシャンデリア。称賛の拍手。美味しい料理。そして、その影で荷物を持ち、汗をかいていたアルトの姿。
『エリス、足痛くない? 回復魔法かけようか?』
『うるさいわね、触らないでよ汗臭い』
あの時、彼が向けてくれた気遣い。
それがどれほど貴重で、どれほど自分を支えていたのか。
今、冷たい地面に頬を擦り付けながら、彼女はようやく理解し始めていた。
理解したところで、もう遅いのだが。
「……計算が、合わないんだ……」
魔導士ヴァルガスは、虚ろな目で天井を見つめていた。
彼の手首は、完全に壊死し始めている。
二四〇キロの杖の下敷きになった左手は、もはや感覚がなく、どす黒く変色していた。
激痛のあまり気絶し、また激痛で目を覚ますというサイクルを繰り返しているうちに、彼の精神は崩壊した。
「アルトの……魔力供給量……算出不能……。ユニークスキル……『重力支配』……推定ランク……測定不能……」
彼はブツブツと、意味のない解析結果を口走る。
参謀役として、常に効率と利益を追求してきた彼が出した答え。
「荷物持ちをクビにして馬車にした方が得だ」。
その計算が、人生最大の誤答だった。
馬車一台で浮く金貨数枚のために、彼らは「世界そのもの」を敵に回すような存在を切り捨ててしまったのだ。
無限に近い魔力を持ち、物理法則を書き換えるほどのスキルを持つアルト。
彼をただの荷物持ちとして扱っていた自分たちの、なんと滑稽なことか。
「あは、あはは……。馬車以下は……僕たちだったんだ……。動けない……鉄屑だ……」
ヴァルガスの乾いた笑いが、洞窟の闇に吸い込まれていく。
その時。
通路の向こうから、人の気配が近づいてきた。
カンテラの明かりが揺れている。
「おい、こっちから変な音がしなかったか?」
「悲鳴みたいな声が聞こえたけど……」
冒険者だ。
それも、足音の軽さからして、あまり高ランクではない。
おそらく、このダンジョンの中層付近で活動しているCランク程度のパーティーだろう。
「……! 人だ! 人が来たぞ!」
グレンの目に、微かな理性の光が戻る。
助かるかもしれない。
この重力地獄から、誰かが引き上げてくれるかもしれない。
「おーい! ここだ! Sランク勇者パーティー『光の剣』だ! 助けろ!」
グレンは掠れた声で叫んだ。
喉が張り裂けそうだったが、なりふり構っていられない。
冒険者たちが気づいて駆け寄ってくる。
若い男三人組だ。
「えっ、嘘だろ? あれって……勇者グレン様!?」
「マジかよ! Sランクの『光の剣』がなんでこんな浅いところに!?」
「うわっ、ひでぇ有様だぞ。何があったんだ?」
彼らは驚愕し、そして畏怖の眼差しを向けた。
憧れの勇者が、泥まみれで倒れている姿。
だが、グレンにとってはそんな視線などどうでもよかった。
「いいから助けろ! 早くこの剣を退けろ! 身体が動かねぇんだ!」
「は、はい! すぐに!」
若い戦士風の男が、慌ててグレンの背中に乗っている聖剣に手を伸ばした。
憧れの聖剣『グラン・レオハート』。
伝説の武器に触れられるとあって、男の顔には少し緊張の色が見える。
「失礼します!」
男が剣の柄を掴み、力を込めた。
「ふんっ! ……あれ?」
剣は、ビクともしなかった。
一ミリたりとも動かない。
「ど、どうした? 早くしろ!」
「い、いや、重いっす! なんだこれ、岩に引っかかってるのか? 全然動かねぇ!」
男は顔を真っ赤にして、両手で引っ張る。
だが、一トンの鉄塊だ。
Cランク冒険者の筋力で動かせるはずがない。
「おい、手伝え! 重すぎる!」
「マジかよ。せーのっ!」
仲間二人も加わり、三人掛かりで剣を持ち上げようとする。
しかし、結果は同じだった。
彼らの足が地面にめり込むだけで、剣はグレンの背中に張り付いたまま離れない。
「ぐ、ああぁぁっ! 揺らすな! 背中が、背骨が折れるッ!」
グレンが激痛に悲鳴を上げる。
素人が無理に動かそうとしたせいで、剣の重心がずれ、さらに強く背中を圧迫したのだ。
「む、無理です勇者様! これ、どうなってんですか!? 山みたいに重いですよ!?」
「くそっ、お前ら使えねぇな! じゃあ俺を引っ張り出せ! 剣の下から俺を引き抜け!」
グレンの指示で、冒険者たちはグレンの手を掴んで引っ張ろうとした。
だが、その瞬間。
「うわっ!?」
「な、なんだここ!? 身体が重いぞ!?」
アルトの展開した【重力二倍エリア】の効果範囲内に踏み込んだ冒険者たちが、よろめいた。
彼らの装備は革の鎧程度の軽いものだったが、それでも急激な重力変化に平衡感覚を失い、膝をつく。
「や、やべぇ! ここ、何かのトラップだ!」
「重力魔法の罠か!? おい、逃げろ! 俺たちまで潰されるぞ!」
Cランクの彼らにとって、未知のトラップは死に直結する。
本能的な恐怖が、勇者への憧れを上回った。
「ま、待て! 逃げるな! 俺を置いていくなァッ!」
グレンが叫ぶ。
しかし、冒険者たちは這々の体でエリア外へと退避してしまった。
「す、すみません勇者様! 俺たちじゃ無理です!」
「ギルドに! ギルドに応援を頼んできますから!」
「そ、そうです! 俺たちじゃ対処できません!」
彼らは言い訳を口にしながら、脱兎のごとく走り去ってしまった。
遠ざかる足音。
揺れるカンテラの光が、暗闇の向こうへと消えていく。
「あ……あぁ……」
再び訪れた静寂は、以前よりも重く、冷たかった。
希望が見えた直後の絶望は、人の心を完全にへし折るのに十分すぎる威力を持っていた。
「なんでだよ……なんで誰も助けてくれないんだよ……」
グレンは涙を流した。
泥と血にまみれた顔で、子供のように泣きじゃくった。
「俺は勇者だぞ……? 世界を救うはずの男だぞ……? なんでこんなところで、自分の剣に潰されて死ななきゃいけないんだ……」
自分の剣。
最強の剣。
それを誇っていた日々が、遠い過去のように思える。
「……捨てるしかない」
不意に、ヴァルガスが呟いた。
彼はまだ正気を保っていたのか、それとも極限状態での啓示を得たのか。
「え……?」
「装備を……捨てるんだ……。この重りを……手放せば……這い出せるかもしれない……」
ヴァルガスの言う通りだった。
グレンの背中に乗っている聖剣。
エリスが着ている法衣。
ヴァルガスが握っている杖。
そして、彼らが身につけている鎧や装飾品。
それら全てをパージ(破棄)し、裸になれば、アルトの重力魔法の影響下であっても、這ってエリア外へ脱出することは可能かもしれない。
「装備を……捨てる……?」
グレンは呆然と呟いた。
この聖剣『グラン・レオハート』を?
王家から賜った、勇者の証を?
これがあるから、俺はSランクなのだ。これがあるから、俺は誰よりも強いのだ。
これを捨てたら、俺は何になる?
ただの、筋力が少し高いだけの男だ。
「で、できない……! そんなことできるか!」
「死ぬ気か!? このままじゃ本当に死ぬぞ!」
「嫌だ! これは俺の剣だ! 俺の力だ!」
グレンは拒絶した。
命よりもプライドが重かった。
彼にとって、「無能な元勇者」として生き恥を晒すことは、死ぬことよりも恐ろしいことだったのかもしれない。
「エリス! 君なら脱げるだろう! その服を脱げ!」
「い、嫌よ! こんなところで裸になれって言うの!? 私は聖女よ!?」
エリスもまた、拒絶した。
彼女のプライドもまた、命と同じくらい重かった。
汚物にまみれた姿をこれ以上晒すこと、そして「高価な装備」を失うことへの執着が、合理的な判断を邪魔していた。
「……馬鹿どもが」
ヴァルガスは吐き捨てるように言った。
彼自身は、すでに杖を手放したくても手放せない状態だった。
左手が杖の下敷きになっており、物理的に切断しない限り脱出は不可能なのだ。
彼は懐から短剣を取り出し、震える右手で握りしめた。
「ぼ、僕は……生きるぞ……。Sランクじゃなくなっても……生きてやる……」
彼は自分の左腕に、短剣の刃を当てた。
骨を砕き、肉を断つ覚悟。
勇気ある決断と言うべきか、狂気の沙汰と言うべきか。
「ぎぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!!!」
ヴァルガスの絶叫が響き渡る。
グレンとエリスは、そのおぞましい音と光景に、恐怖で目を逸らした。
結局、彼らを救うためにギルドの救助隊が到着したのは、それからさらに半日後のことだった。
到着した救助隊が見たのは、地獄絵図だった。
一人は自ら腕を切り落とし、失血性ショックで意識不明の重体となっている男。
一人は汚物にまみれ、精神が崩壊して幼児退行し、「お洋服脱げないの」と泣き叫ぶ女。
そして一人は、聖剣の下敷きになったまま、うわ言のように「アルト……ごめん……」と謝り続けている男。
救助隊には、高ランクの魔導士も同行していた。
彼らが空間魔法と重力魔法を駆使して、ようやく彼らの装備を引き剥がすことに成功した。
だが、それは「救出」とは呼べなかったかもしれない。
聖剣『グラン・レオハート』が取り除かれたグレンの背中は、複雑骨折で変形していた。
脊髄に深刻な損傷を負っており、治癒魔法でも完全な回復は難しいと診断された。
彼は二度と剣を握ることはおろか、自分の足で歩くことさえできないだろう。
聖女エリスは、重度の圧挫症候群により、両足と内臓に壊死が見られた。
一命は取り留めたものの、美しい容姿は見る影もなく衰え、精神的なショックから言葉を失ってしまった。
魔導士ヴァルガスは、左腕を失っただけでなく、魔力回路が暴走して焼き切れていた。
極限状態でのストレスと、自身の魔力に対する過負荷が原因だろう。
彼はもう、初級魔法の一つさえ唱えることはできない。
Sランクパーティー『光の剣』は、この日をもって事実上の解散――いや、消滅となった。
数週間後。
王都の路地裏にある、薄暗い酒場。
車椅子に乗った男が一人、安酒をあおっていた。
かつて黄金の髪をなびかせていた勇者グレンだ。今は髪も髭も伸び放題で、目には生気がない。
酒場の客たちが、噂話をしているのが聞こえてくる。
「おい、聞いたか? 新しい英雄の話」
「ああ、『重力王』アルトのことだろ? すげぇよな、あの人」
「なんでも、深層の『奈落』から竜の姫君を連れて帰ってきたとか」
「指先一つでドラゴンをぺちゃんこにしたらしいぜ」
「かっこいいよなぁ。俺もあんな風になりたいぜ」
客たちの目は輝いている。
かつて、グレンに向けられていたのと同じ、憧れの眼差し。
それが今は、かつて自分が唾を吐きかけた男に向けられている。
グレンは震える手でグラスを握りしめた。
握力が弱く、グラスがカタカタと音を立てる。
「……俺は……俺だって……」
呟きは、誰にも届かない。
酒場の隅にある古ぼけたラジオのような魔道具から、吟遊詩人の歌声が流れてくる。
それは、新しい英雄アルトの冒険譚を謳う歌だった。
『重き荷物を背負いし者は、やがて空へと舞い上がる――』
『軽き魂を持つ者は、地へと堕ちて泥を舐める――』
グレンはグラスを投げつけようとしたが、力が足りずに手元から滑り落ちた。
ガシャン、と床で砕け散るガラス片。
それはまるで、彼の人生そのもののようだった。
店員が睨みつけてくる。
「おい、割った分は払ってもらうぞ。金はあるんだろうな?」
グレンは懐を探った。
そこには、かつてアルトに投げつけたのと同じ、銀貨が数枚入っているだけだった。
これが全財産だ。
治療費と違約金、そして装備の回収費用で、Sランクで稼いだ莫大な富はすべて消え失せていた。
「……払うよ。払えばいいんだろ」
グレンは震える手で銀貨を差し出した。
かつて「馬車以下」と嘲笑った男に投げつけた小銭が、今の彼の命綱だった。
彼は車椅子の車輪を回し、店を出ようとする。
その背中は小さく、丸まっていた。
もう二度と、誰の装備も、誰の期待も、そして自分自身の誇りさえも、背負うことのできない背中。
外に出ると、空は突き抜けるような青空だった。
遥か上空を、白い鳥が飛んでいく。
重力に縛られず、自由に空を舞うその姿を見上げながら、元勇者は音もなく涙を流した。
地面に落ちた自分の影だけが、やけに重く、濃く、彼を縛り付けているように見えた。




