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第四話 誰が一番「重い」のか

「はぁ、はぁ……っ、くそ、離せ! あっちに行けぇぇッ!」


勇者グレンは、地面に頬を押し付けたまま、半狂乱で叫んでいた。

ダンジョンの冷たい岩肌が、今は熱を持った鉄板のように感じる。

全身から噴き出す脂汗と、噛みつかれた傷口から流れる血が混ざり合い、泥と埃にまみれて異臭を放っていた。


「キチチッ!」

「ギギギッ!」


赤い甲殻を持つ蟻、ソルジャー・アントの群れは、執拗に彼らを嬲り続けている。

幸いなことに、このSランク装備の「防御力」だけは健在だった。

グレンの鎧も、エリスの法衣も、素材自体は最高級品だ。下級モンスターの顎では、完全に食い破るまでには時間がかかる。

だが、それは逆に言えば、真綿で首を絞められるような地獄が長く続くことを意味していた。


「いやぁぁっ! 入ってこないで! 服の中に入ってこないでぇぇッ!」


聖女エリスの悲鳴が洞窟に響く。

八〇キログラムの法衣に押し潰され、亀のように手足をバタつかせている彼女のスカートの裾から、数匹の蟻が侵入しようとしていた。

普段なら気高く聖魔法を操る彼女も、今はただの怯える少女に過ぎない。

魔法を唱えようにも、肺が圧迫されて呼吸が続かず、詠唱が途中で途切れてしまうのだ。


「うぅぅ……誰か……誰か助けて……」


涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼女は虚空に救いを求める。

だが、その救い手となるはずの仲間たちもまた、同様に無様な姿を晒していた。


「解析……解析完了……エラー……原因不明……」


魔導士ヴァルガスは、すでに正気を失いかけていた。

左手首を自身の一二〇キロの杖に粉砕され、その激痛に耐えながら、右手だけで空中にウィンドウを展開し続けている。

しかし、何度調べても結果は同じだ。

『異常なし』。

ステータス異常も、呪いも、デバフも検出されない。

ただ物理的に「装備が重い」という事実だけが、冷酷な数値として表示されている。


「あり得ない……こんな質量の杖を、私が今まで片手で振っていたなど……計算が合わない……物理法則の崩壊だ……」


ブツブツと譫言うわごとのように呟くヴァルガス。

彼らのプライドは、すでにズタズタに引き裂かれていた。

Sランクパーティー『光の剣』。王都で最も期待され、次期勇者筆頭と謳われた彼らが、ダンジョンの浅層で、たかが蟻ごときに敗北しようとしている。

それも、戦って負けるのではない。

自らの装備の重さに潰され、指一本動かせずに喰われるという、冒険者史上類を見ない間抜けな死に方で。


「アルトぉぉぉ……ッ! てめぇ、どこに行きやがった……!」


グレンは血走った目で暗闇を睨みつけた。

憎い。

自分たちをこんな目に遭わせた元荷物持ちが、憎くてたまらない。

彼はまだ信じていた。これはアルトが去り際にかけた呪いだと。

そうでなければ説明がつかない。自分が、選ばれし勇者であるこの俺が、自分の剣さえ持ち上げられないなんてことがあってたまるか。


「戻ってきやがれ……! 戻ってきて、この呪いを解きやがれッ! そうしたら許してやる! また荷物持ちとして置いてやってもいい!」


恐怖と激痛で思考回路がバグっているのか、グレンは支離滅裂な条件を叫んだ。

自分が圧倒的弱者であるという現状を認識できず、まだ自分が「許す側」にいると思い込んでいるのだ。


その時だった。


ヒュオォォォォォォ……。


ダンジョンの奥底から、奇妙な風切り音が聞こえてきた。

それは地下から吹き上げる上昇気流のような、あるいは何かが高速で接近してくるような音。


「……なんだ?」


グレンが首だけを動かして、通路の奥を見ようとした瞬間。

暗闇の向こうから、青白い光が急速に近づいてきた。


光は一つではない。二つ。

そして、その二つの光の後ろに、何かとてつもなく巨大な「影」が追従している。


「キチッ?」


蟻たちも異変に気づいたのか、動きを止めて触角を揺らす。

次の瞬間。


ドォォォォォォォンッ!!


凄まじい衝撃波と共に、何かがグレンたちの目の前に「着地」した。

着地といっても、地面が揺れたわけではない。

空気が爆ぜたのだ。

重力波による強烈なプレッシャーが周囲に拡散し、群がっていた蟻たちが木の葉のように吹き飛ばされる。


「ギャッ!?」

「ギギギィッ!」


壁に叩きつけられ、ひっくり返る蟻たち。

突然の暴力的な突風に、グレンは目を細め、土埃が晴れるのを待った。

そして、その光景を目にした時、彼は呼吸を忘れた。


「――よう。随分と楽しそうに這いつくばってるじゃないか」


そこに立っていたのは、アルトだった。

だが、それはグレンが知っている、背中を丸めて重い荷物を背負っていたアルトではない。

地面から数センチ浮遊し、全身から青白い魔力のオーラを立ち昇らせ、冷ややかな瞳でこちらを見下ろす「強者」としてのアルトだった。


そして、彼の隣には、この世のものとは思えない美女が控えている。

銀色の髪、黄金の瞳、そして額から伸びる二本の角。

彼女もまた浮遊しており、その背中には高貴な覇気が漂っている。


だが、何よりもグレンの度肝を抜いたのは、アルトの背後に浮かんでいる「物体」だった。


「な……なんだ、あれは……?」


それは、剣だった。

漆黒の刀身に、禍々しいルーン文字が刻まれた、全長五メートルを超える超巨大な大剣。

グレンが持つ聖剣『グラン・レオハート』が、まるで子供のおもちゃに見えるほどの威容。

そんな山のような鉄塊が、アルトの背後に、まるで衛星のようにフワフワと浮いているのだ。


「あ、アルト……? お前、なのか……?」


エリスが掠れた声で呟く。

彼女の瞳に映るのは、かつての「便利な雑用係」ではない。

理解不能な力を纏った、恐怖の対象だった。


アルトはゆっくりと高度を下げ、グレンの顔の高さまで降りてくる。

その表情には、怒りも憎しみもない。

ただ、道端の石ころを見るような、無関心な冷たさだけがあった。


「楽しそうって言ったけど、訂正するよ。随分と無様だな、勇者様御一行は」

「て、てめぇ……!」


グレンは屈辱に顔を歪めた。

見下ろされている。

あの万年荷物持ちに、完全に見下ろされている。


「よくも戻ってきやがったな! おい! さっさとこのふざけた魔法を解け! 俺たちの装備に何をした!」

「何もしてないよ」


アルトは淡々と答えた。


「ただ、僕が今までかけていた魔法を『止めた』だけだ。君たちが言ったんだろう? 僕の魔法なんて必要ない、自分たちのステータスで持てるって」

「嘘をつくなッ! こんな重いわけがねぇだろ! 俺はSランクだぞ!? 筋力だってカンスト近いんだぞ!?」


グレンは喚き散らす。

だが、アルトはため息をついて首を振った。


「その聖剣、素材は星屑鋼だろ? 密度計算したことあるか? 体積から考えても五〇〇キロはある。いくらSランクでも、片手で木の枝みたいに振れるわけがない。君が今までそれを振れてたのは、僕が重さを百分の一以下にしてたからだ」

「は……?」


グレンの思考が停止する。

百分の一。

つまり、五キログラム。

俺が今まで「俺の剣技すげぇ」と悦に入っていたのは、たかだか五キロの鉄の棒を振り回していただけだったのか?


「エリスの法衣も、ヴァルガスの杖も同じだ。全部、僕が裏で支えてた。君たちの『強さ』の半分以上は、僕の『重力支配』のおかげだったんだよ」


アルトの言葉は、鋭利な刃となって彼らのプライドを切り裂いた。

彼らが誇っていた才能も、努力も、実績も。

その全てが、アルトという「土台」の上に乗っていただけの砂上の楼閣だったという事実。


「そ、そんな……嘘よ……。じゃあ、私は……私はただの……」


エリスが絶望の表情で崩れ落ちる(元から倒れているが、さらに精神的に)。

ヴァルガスは「あ、あ、あ……」と壊れたラジオのように呻いている。


「ふざけんな……ふざけんなァッ!!」


グレンだけは、まだ認めなかった。

認めてしまえば、勇者としての自分が死んでしまうからだ。


「俺は勇者だ! 選ばれた男だ! お前なんかに助けられてたなんて、そんなわけがねぇ! これは呪いだ! お前の陰湿な嫌がらせだ!」


グレンは涎を垂らしながら、殺意を込めてアルトを睨みつける。


「殺してやる……! この呪いが解けたら、真っ先にお前を殺してやるぞ、アルトォォッ!」


その言葉が響いた瞬間。

ピクリ、とアルトの隣にいた銀髪の美女が反応した。


「……身の程知らずな下等生物め」


美女――ステラが、スッと手を挙げた。

それだけで、周囲の空気が凍りつくような殺気が膨れ上がる。


「我がマスターを愚弄するか。その薄汚い口、二度と開けぬようにしてやろう」


ステラの手の動きに合わせて、背後に浮いていた巨大な『星砕きの大剣』が動き出した。

五メートルの鉄塊が、音もなくグレンの頭上へと移動する。


「ひっ……!?」


グレンの顔が引きつる。

直感で理解した。あれは、落ちてきたら死ぬ。

Sランクの鎧だろうが、肉体強化魔法だろうが関係ない。

物理的な質量差がありすぎる。潰れる。トマトのように。


「消えろ、虫ケラ」


ステラが指を振り下ろそうとした、その時。


「待て、ステラ」


アルトが静かに声をかけた。

ステラの指がピタリと止まる。


「ま、マスター? なぜ止めますか? このような不敬な輩、生かしておく価値など……」

「死ぬのは簡単すぎる」


アルトは冷徹な瞳で、足元のグレンたちを見据えた。


「それに、ここで殺したら、彼らの言う通り『僕が殺した』ことになってしまう。彼らは自滅したんだ。自分たちの重さに耐えきれずにね」


アルトはグレンの目の前に降り立ち、屈み込んだ。

そして、彼の手から離れ、地面に突き刺さっている聖剣の柄を、人差し指一本で軽く弾いた。

キィィン……と澄んだ音が響く。


「なぁ、グレン。君は言ったよな。『荷物持ちは馬車以下だ』って」


アルトの顔が近づく。

かつて見下していたはずの幼馴染の顔が、今は逆光を受けて悪魔のように見えた。


「今の君はどうだ? 自分の剣も持てない。自分の足で歩けない。馬車どころか、ただの置物じゃないか」

「ぐ、うぅ……っ」

「助けてほしいか? 軽くしてほしいか?」

「た、助け……」


グレンが縋るように口を開きかけた時。

アルトはニッコリと、しかし氷点下の笑みを浮かべて突き放した。


「嫌だね」


絶望。

明確な拒絶。


「契約は終わったんだ。僕はもう、君たちの荷物持ちじゃない。君たちの重荷を背負う義理は、これっぽっちもないんだよ」


アルトは立ち上がった。

そして、ステラに向かって目配せをする。


「行こう、ステラ。こんなところで油を売ってる時間がもったいない」

「……御意。マスターがお望みなら」


ステラは不満げに鼻を鳴らしながらも、素直に『星砕きの大剣』を引き戻した。

グレンたちは、死の恐怖からは解放された。

だが、それ以上の「地獄」が宣告される。


「ああ、そうだ。最後にもう一つだけ、サービスをしておくよ」


アルトは空中に浮き上がりながら、指パッチンをする準備をした。


「君たち、そのままだと蟻に食い殺されちゃうかもしれないだろ? だから、少しだけ環境を変えてあげる」

「え……?」


エリスが期待を込めて顔を上げる。

まさか、結界を張ってくれるのか? やはり彼は優しいアルトのままなのか?


「【重力支配・エリア設定】」


アルトの指が鳴らされた。

パチンッ。


「――対象座標の重力係数を、二倍ダブルに」


ズドォォォォォンッ!!!!!


「ぎゃあああああああああっ!!!!」

「ぐべぇぇぇッ!!」

「い、痛い! 重い! 骨が、骨がぁぁぁッ!」


期待は、最悪の形で裏切られた。

突然、彼らの身体にのしかかっていた重さが倍増したのだ。

五〇〇キロの聖剣は一トンに。

八〇キロの法衣は一六〇キロに。

一二〇キロの杖は二四〇キロに。


地面がさらに深く陥没し、彼らの身体は完全に土に埋まった。

指一本動かせないどころではない。呼吸をするための横隔膜の動きさえも封じられるほどの圧力。


「魔物は重力に敏感だからね。このエリアだけ重力を強くしておけば、蟻たちも寄り付かないだろう。……君たちが、その重さに耐えられればの話だけど」


アルトの冷たい声が、上空から降ってくる。


「感謝してくれよ。安全地帯を作ってあげたんだから」

「あ、あ、が、あ……」


グレンは言葉を発することもできず、ただ涙と涎を垂れ流しながら、遠ざかっていくアルトの背中を見つめることしかできなかった。

圧倒的な敗北。

理不尽なまでの実力差。

そして何より、自分たちが今までどれほど彼に甘え、彼の上に胡座をかいていたのかという事実を、骨が砕ける音と共に骨髄まで刻み込まれる。


「じゃあな、元勇者様。いつかその剣を持ち上げられるくらい強くなったら、また会おう」


捨て台詞を残し、アルトとステラ、そして巨大な黒剣は、空の彼方へと飛び去っていった。

ダンジョンの天井を突き抜けるような勢いで上昇していくその姿は、まるで新しい時代の到来を告げる流星のようだった。


後に残されたのは、自分たちの装備という名の「墓標」に押し潰され、地面と一体化した三つの肉塊だけ。

彼らがそこから這い出せる日が来るのか、それともそのままダンジョンの養分となるのか。

それは、彼らが自身の傲慢という重力に打ち勝てるかどうかにかかっている。


……まあ、恐らく無理だろうが。


俺は地上へ向かう風の中で、初めて心からの解放感を味わっていた。

重荷は消えた。

これからは、俺が俺のために、この力を使っていくのだ。

隣で楽しそうに微笑む「最強の相棒」と共に。

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