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第三話 落ちる勇者、舞い上がる荷物持ち

元仲間たちの絶叫と、蟻たちの咀嚼音が遠ざかっていく。

背後の暗闇に置き去りにしてきた「Sランクパーティー」の成れの果てに対し、俺は一度たりとも振り返らなかった。


「……静かだ」


俺の口から、自然とそんな言葉が漏れた。

ダンジョンの深層付近だというのに、周囲の空気は張り詰めながらも、どこか清廉に感じられる。

今まで俺の鼓膜を常に震わせていたのは、彼らの罵声であり、自慢話であり、無理難題を押し付ける命令だった。

「おいアルト、水」「遅いぞ無能」「邪魔だ退け」。

そんなノイズが消え去った世界は、驚くほど澄んでいた。


俺は歩きながら、自分の身体の状態を確認する。


「……魔力が、溢れてくる」


血管の中を巡る魔力マナの奔流に、俺は身震いした。

これまでは、蛇口を全開にして水を垂れ流し続けているような状態だった。

グレンの五〇〇キロの聖剣、エリスの八〇キロの法衣、ヴァルガスの一二〇キロの杖。

それら全ての重力を、二十四時間三百六十五日、寝ている間さえも無意識下でキャンセルし続けてきたのだ。

俺の魔力生成器官は、その過酷な消費に追いつくために、常に限界稼働を強いられていた。


それが今、全ての負荷から解放された。

堰き止められていたダムが決壊したように、膨大な魔力が身体中を駆け巡っている。

指先が熱い。視界が青白く発光して見えるほどに、魔力が満ちている。


「これなら……いけるか」


俺は試してみたくなった。

今まで「燃費が悪いから戦闘には使うな」と禁じられていた、俺のスキルの本来の使い方を。


目の前の通路を、巨大な影が塞いだ。

『アダマン・タートル』。

全身がアダマンタイトの甲羅で覆われた、防御力特化の深層モンスターだ。

その重量は推定十トン。並大抵の攻撃では傷一つつけられない、動く要塞。


「グオォォォッ!」


亀の怪物が、俺を見つけて突進してくる。

地響きを立てて迫る十トンの質量。

以前の俺なら、慌てて逃げ出し、グレンたちに助けを求めていただろう。

だが、今は違う。


俺は逃げない。

右手を、無造作にかざすだけだ。


「――【重力支配グラビティ・ルーラー反転リバース】」


カチリ、と世界の設定を書き換える音が頭の中で響く。

その瞬間。


「グ、オ……?」


突進してきていたアダマン・タートルの巨体が、ふわりと浮き上がった。

十トンの質量が、風船のように天井へと吸い込まれていく。

手足をバタつかせて混乱する怪物。

俺はそのまま、右手を勢いよく振り下ろす。


「落ちろ」


指定座標の重力を、通常の百倍に設定。


ズドンッッ!!!!


轟音なんて生易しいものじゃない。

空気が破裂し、空間が悲鳴を上げた。

天井から床へと叩きつけられた亀の怪物は、自慢のアダマンタイトの甲羅ごと、クシャクシャに押し潰されていた。

まるで、アルミ缶をプレス機にかけたかのように。

厚さ一メートルはあったはずの巨体が、わずか数センチの鉄板と化して地面にめり込んでいる。


「……すげぇ」


俺は自分の手を見つめた。

これが、俺の力なのか。

Sランクの勇者が聖剣で何度も斬りつけてようやく倒していた相手を、指先一つで、一秒で。


「ははっ……なんだよ、これ」


乾いた笑いが込み上げてくる。

俺は無能なんかじゃなかった。

足手まといでも、馬車以下でもなかった。

ただ、俺というエンジンの出力を、彼らという「重り」を運ぶためだけに使わされていただけだったのだ。


「もっとだ。もっと深くへ行ける」


俺は地面を蹴った。

いや、蹴る必要すらない。

自分自身の重力を「マイナス」に設定する。

身体がふわりと浮き上がる。

さらに、背後の空間の重力を操作し、反発力を生み出して推進力に変える。


ヒュンッ!


風になった。

俺はダンジョンの通路を、地面に足を着けることなく滑空していた。

複雑な地形も、崩落した瓦礫も関係ない。

空中を自在に舞い、迫りくる魔物は重力波で弾き飛ばし、あるいは押し潰して進む。


その爽快感たるや。

今まで泥沼の中を鉛の靴で歩かされていたのが、突然翼が生えて大空へ飛び立ったような感覚だ。

俺は初めて、ダンジョンを「楽しい」と感じていた。


そうして、どれくらい潜っただろうか。

俺は、地図にも載っていない未踏破領域――深層のさらに奥、「奈落」と呼ばれるエリアに到達していた。


そこは、異様な空間だった。

壁も床も、黒曜石のように滑らかで冷たい岩盤で構成されている。

生物の気配がない。

ただ、空間全体に、肌にまとわりつくような濃密な「圧」が満ちていた。

重力ではない。もっと禍々しく、古びた呪いのようなプレッシャー。


「……誰か、いるのか?」


広大なドーム状の空間の中心。

そこに、祭壇のような場所があった。

俺は空中を歩いて近づいていく。


そして、息を呑んだ。


「……きれいだ」


そこにいたのは、一人の少女だった。

年齢は俺と同じくらいか、少し下だろうか。

月光を織り込んだような長い銀髪が、黒い岩肌に広がっている。

透き通るような白い肌は、病的なまでに蒼白だ。

そして何より目を引くのは、その頭部から伸びる二本の真紅の角と、腰から伸びるしなやかな尾。

竜人族ドラゴニュート

それも、ただの竜人ではない。全身から立ち上る品格と覇気は、彼女が王族か、それに類する高貴な血筋であることを物語っていた。


だが、その美しい少女は、残酷な状態で固定されていた。


「っ……なんだ、あれは」


彼女の胸の真ん中に、一本の剣が突き立っていた。

いや、突き刺さっているのではない。

彼女の身体の上に、剣が「置かれて」いるのだ。


それは、剣と呼ぶにはあまりにも巨大すぎた。

全長五メートル。

刃の厚みだけで俺の胴体ほどもある。

黒い金属で鋳造されたその大剣は、表面に無数の鎖が巻き付き、禍々しいルーン文字が脈動している。


少女は仰向けに倒れ、その巨大な剣の下敷きになっていた。

剣の切っ先は彼女の胸には触れず、わずか数ミリのところで止まっているが、その「重圧」だけで彼女を地面に縫い付けているようだった。

彼女の周囲の地面は、剣の重さでクレーター状に陥没し、ひび割れている。


俺が近づくと、少女がうっすらと瞼を開けた。

黄金色の瞳。

そこには、無限の時間を孤独に耐えてきた者特有の、諦観と絶望の色があった。


「……ニン、ゲン……?」


鈴を転がすような、しかし掠れた声。


「来るな……立ち去れ……」

「君は……」

「ここは……『竜殺し』の封印地……。この剣の重力圏に入れば……貴様など……一瞬で肉塊になるぞ……」


彼女は警告してくれているのか。

自分の身が動けない状態でありながら、見ず知らずの俺を気遣うその高潔さに、俺は胸を打たれた。


「大丈夫だ。重力なら、俺の専門分野だからな」


俺は警告を無視して、クレーターの縁に足を降ろした。

その瞬間。

ズシリ、と肩に重みがかかる。

空間そのものが歪むほどの超重力。

なるほど、この剣自体が強力な重力発生装置になっているらしい。

普通の人間なら、この結界に入っただけで圧死していただろう。


だが。

(……グレンの装備を三年間支えていた俺に比べれば、これくらい)


俺にとっては、そよ風のようなものだった。

俺は無意識に展開していた【重力軽減】の出力を、ほんの少し上げる。

それだけで、肩の重みは霧散した。


俺は少女のそばに膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。


「苦しそうだね。……これを退ければいいのかな?」

「な……何を言って……。それは……神代の英雄が……我が一族を封じるために残した……『星砕きの大剣スター・ブレイカー』……」


少女は苦しげに息を吐きながら、信じられないものを見る目で俺を見つめる。


「その重量は……山一つに匹敵する……。概念的な『重さ』そのものだ……。人の身で……動かせるものでは……」

「山一つか。それは重いな」


俺は笑った。

物理的な重量じゃない。概念としての重さ。

「絶対に動かない」「絶対に持ち上がらない」という呪いが込められた質量兵器。

確かに、筋力(STR)だけの勇者グレンでは、逆立ちしても持ち上がらないだろう。


だが、あいにくと俺は「荷物持ち」だ。

重いものを軽くして運ぶことに関しては、世界中の誰よりも場数を踏んでいる。


「少し、じっとしててくれ」


俺は立ち上がり、黒い大剣の柄に手を伸ばした。

触れた瞬間、ビリビリとした拒絶の波動が伝わってくる。

『我は不動』『我は絶対』という意志が、俺の脳内に直接語りかけてくるようだ。


(うるさいな。客の前だぞ、少しは軽くしろよ)


俺は魔力を注ぎ込む。

小手先の軽減魔法じゃない。

俺が持てる最大の出力、俺のユニークスキル【重力支配】の真髄を叩き込む。


「【重力支配・概念消失ゼロ・グラビティ】」


俺が命じたのは「軽減」ではない。「消失」だ。

この剣が持っている「重い」という概念そのものを、俺の支配下において「無」へと書き換える。


バチバチバチッ!!


大剣の周囲で黒い火花が散った。

呪いが抵抗する。山のような重さが、俺の腕にかかる。

だが、俺はニヤリと笑った。


(これだよ。この手応えだ)


グレンたちの装備を軽くしていた時の、あの泥臭い作業とは違う。

神代の呪いと、俺の魔法の真っ向勝負。

俺の魔力が、呪いの重力を侵食し、塗り替え、支配していく快感。


「……せぇ、のっ!」


俺は手首を軽く返した。


ズゴゴゴゴゴ……!


地響きと共に、山をも砕くはずの大剣が、ふわりと宙に浮いた。

まるで、発泡スチロールで作られた演劇の小道具のように。

俺はそのまま人差し指一本で剣のつばを支え、クルクルと回してみせた。


「うん、バランスは悪くない。ちょっとデザインがゴテゴテしてるけど、ペーパーナイフくらいにはなりそうだ」

「――――は?」


少女の口がぽかんと開いた。

黄金の瞳が極限まで見開かれ、時が止まったかのように硬直している。

数百年、あるいは数千年もの間、彼女を一族ごと封印し続けてきた絶対的な絶望が、今、目の前の人間の男の指先でオモチャのように回されているのだ。


「あ、ありえな……い……。貴様……何者だ……? 神か……?」

「いや、ただの荷物持ちだよ。ついさっき、クビになったばかりのね」


俺は剣を回転させながら、彼女に手を差し伸べた。


「立てるか?」


少女は震える手で、俺の手を掴んだ。

俺が引き上げると、彼女の身体は驚くほど軽かった。

長年の封印で衰弱しているのもあるだろうが、それ以上に、彼女自身も重力から解き放たれた浮遊感を感じているようだった。


彼女は立ち上がると、自分の身体を確かめるように手足を動かし、それから信じられないという表情で俺を見上げた。


「……消えた。身体を蝕んでいた重圧が……呪いが……」

「ついでに君にかかっていた重力も調整しておいた。リハビリが終わるまでは、少し軽くしておいた方が動きやすいだろ?」

「……」


少女は無言で俺を見つめ続ける。

やがて、彼女はその場に膝をつき、深く頭を垂れた。

それは、敗北者のポーズではない。

最上級の敬意と、忠誠を示す臣下の礼だった。


「我が名はステラ。竜人族ドラグニルの末裔にして、かつてこの地を統べていた『空の女王』……」


ステラは顔を上げ、濡れた瞳で俺を真っ直ぐに見据えた。


「我が絶対の呪縛を解き放ち、神の剣すらも指先一つで操る御方よ。貴方様こそ、真の『重力の王』に相応しい」

「い、いや、王様になるつもりはないんだけど……」

「いいえ、貴方様は王です。少なくとも、私にとっては」


ステラは立ち上がり、俺の隣に並んだ。

その表情には、先ほどまでの弱々しさは微塵もない。

王族としての誇り高さと、そして何より、俺という存在に対する熱っぽい崇拝の念が宿っていた。


「私の命、そして私の力。すべてを貴方様に捧げます。どうか、このステラを貴方様の『荷物持ち』として……いえ、剣としてお使いください」

「荷物持ちは俺の役目だったんだけどな……。まあいいか、よろしく、ステラ」


俺たちは握手を交わした。

その手は小さくて冷たかったが、握り返す力は強かった。


「さて、と。これからどうする? 俺は地上に戻るつもりだけど」

「御意のままに、我がマスター。……ですが、その前に一つだけ、お願いがございます」


ステラは妖艶な笑みを浮かべ、俺が浮かせていた『星砕きの大剣』を見上げた。

そして、地上の方角――つまり、俺たちが来た道をちらりと見た。


「地上へ戻る道すがら、掃除をなさいませんか? 貴方様を不当に扱った愚か者どもが、まだ入口付近で這いつくばっているのでしょう?」

「……まあ、そうだな」

「この剣の切れ味、試してみたいのです。もちろん、殺しはしませんが……少々、しつけが必要かと」


ステラの瞳の奥に、嗜虐的な光が宿っている。

彼女もまた、理不尽な重さに封じ込められていた者だ。

「重さを知らぬ者」に対する怒りは、俺と共鳴するものがあるのかもしれない。


「殺しはしない、か。……そうだな。彼らには、自分の足で立つことの難しさを、もう少し学んでもらう必要があるかもしれない」


俺は指先で回していた巨大な剣を、空中でピタリと止めた。


「行こうか、ステラ。地上へ」

「はい、マスター。……ああ、身体が軽い。今の私なら、空の果てまでもお供できますわ」


俺は自身の身体と、ステラの身体、そして巨大な『星砕きの大剣』に【重力軽減・飛行】を付与した。

二人の影が、そして巨大な剣の影が、ダンジョンの深淵から地上へ向かって、流星のように昇っていく。


その先で待つ元仲間たちが、どんな顔をして俺たちを迎えるのか。

想像するだけで、俺の口元は自然と歪んでしまった。

それはきっと、かつて彼らが俺に向けていたような、残酷で、冷ややかな笑みだったに違いない。

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