第二話 Sランクの装備、総重量2トン
焚き火の爆ぜる音が、パチパチと静寂なダンジョンの闇に響く。
アルトの背中が暗闇に溶けて見えなくなってから、数分が経過していた。
「あーあ、やっとせいせいしたぜ。あの貧相な背中を見てるだけで、テンション下がってたからな」
勇者グレンは、焚き火のそばにある岩にどっかりと腰を下ろすと、手に持っていた干し肉を乱暴に齧り付いた。
口の端を歪めて嘲笑うその表情には、長年の友を切り捨てた罪悪感など微塵もない。あるのは、厄介払いをしたという爽快感だけだ。
「全くだわ。あいつ、自分が『縁の下の力持ち』だとでも思ってたのかしら? ただ荷物を持ってるだけの案山子が、Sランクパーティーに居座ろうなんて図々しいにも程があるわ」
聖女エリスは、優雅な手つきで紅茶を淹れている。
もちろん、その茶葉も水も、ついさっきまでアルトが背負っていたリュックから取り出したものだ。
彼女が身に纏う純白の法衣は、焚き火の明かりを受けて神々しく輝いている。一見すると薄布のようだが、その実態はドラゴンの牙すら通さない超高密度の積層装甲だ。
「彼がいなくなったことで、予算の再分配を行いましょう。浮いた銀貨五枚分と食費で、来月は私の新しい魔導書が買えそうです」
魔導士ヴァルガスは、分厚い眼鏡の奥で瞳を光らせながら、手元の羊皮紙に素早く計算式を書き込んでいた。
彼らにとってアルトの追放は、パーティーの「最適化」であり、不純物の除去に過ぎなかった。
「さて、と。飯も食ったし、見張りの順番を決めるか。アルトがいない分、俺たちがやらなきゃなんねーのが面倒だが……まあ、馬車を雇うまでの辛抱だ」
グレンが立ち上がろうとした、その時だった。
「……ん?」
違和感は、唐突に訪れた。
グレンは立ち上がろうとして――立ち上がれなかった。
腰が重い。いや、正確には「腰に吊るしているもの」が、異様な磁力で地面に吸い付けられているかのような感覚だ。
「おいおい、なんだよこれ。足が痺れたか?」
グレンは苦笑いを浮かべ、太ももに力を込める。
彼の筋力はSランク。大岩をも砕く剛力を誇る。
だが、腰が浮かない。
まるで、腰ベルトに巨大な鉄の塊が溶接されているかのような……。
ズシリ。
不吉な重みが、下半身を襲った。
それは痺れなどではない。明確な「質量」の暴力だった。
「ぐ、おっ……!?」
グレンの顔色が変わる。
彼は反射的に、腰の聖剣『グラン・レオハート』の柄を掴み、邪魔なそれを引き抜いて軽くしようとした。
いつもなら、指先一つで宙に舞う愛剣だ。
「ふんっ! ……あ? ぬ、ぐぬぬぬっ!?」
抜けない。
鞘から剣身が滑り出る感触がない。
それどころか、剣を掴んだ右腕ごと、地面の方へと引っ張られる。
「な、なんだこれ!? 剣が……岩に引っかかってんのか!?」
グレンが顔を真っ赤にして力んでいると、隣で優雅に紅茶を啜ろうとしていたエリスが、突然「きゃっ!」と短い悲鳴を上げた。
ガシャン!
彼女の手からティーカップが滑り落ち、熱い紅茶が地面にぶちまけられる。
だが、エリスはそれを気にする余裕もなさそうだった。
「な、なによこれ……! 肩が、肩が重い……!」
エリスはその場に崩れ落ちるように膝をついた。
いや、自分の意思で膝をついたのではない。
彼女が纏っている法衣――ミスリル銀糸と聖獣革の多重構造ドレスが、突如として鉛の塊へと変貌し、彼女の華奢な身体を上から押し潰したのだ。
「いき、息が……くるしっ……!」
胸元を締め付けるコルセット代わりの装甲インナーが、万力のように肋骨を圧迫する。
八〇キログラム。
成人男性一人分の体重が、常に肩と全身にのしかかっている状態だ。
魔法使い系のステータスしか持たないエリスにとって、それは拷問器具以外の何物でもなかった。
「敵襲か!? おいヴァルガス! 結界はどうなってる!」
グレンが這いつくばるような姿勢で怒鳴る。
彼はまだ、自分の剣が重くなったという事実を受け入れられていない。何者かが強力な磁力魔法か何かで妨害しているのだと信じていた。
だが、頼みの綱である参謀役のヴァルガスからの返答はなかった。
「ヴァル、ガス……?」
グレンが視線を向ける。
そこには、無様な姿で地面に転がる魔導士の姿があった。
「ぐ、ぎぃぃぃ……っ!! ゆ、指が……指がぁぁっ!!」
ヴァルガスは白目を剥きかけていた。
彼の手には、愛用の杖『賢者の瞳』が握られている。
しかし、その杖の先端――バスケットボール大の巨大な魔石が埋め込まれたヘッド部分が、あろうことかヴァルガスの左手首の上に落下していたのだ。
一二〇キログラムの鉄塊が、細い手首の上に落ちたらどうなるか。
答えは単純にして残酷だ。
「折れてる……! 骨が、砕けて……! ああああああっ!!」
ヴァルガスの絶叫が洞窟に木霊する。
杖を退かそうにも、片手ではビクともしない。
彼は自分の杖に拘束され、地面に縫い付けられた虫のようになっていた。
「な、なんなんだよこれはぁぁっ!!」
グレンは吼えた。
異常事態だ。
何かがおかしい。世界がおかしい。
重力が狂っている。
「くそっ、立て! 立つんだ俺の足! 俺はSランクの勇者だぞ!?」
グレンは全身の血管が切れそうなほど力を込め、無理やり立ち上がろうとする。
ミシッ、ミシシッ。
膝の関節が悲鳴を上げ、ブーツの底が圧力に耐えかねてひしゃげる。
五〇〇キロの剣と、全身を覆う一〇〇キロ超えの鎧。
合計六〇〇キロ近い負荷を背負ったまま、スクワットをするようなものだ。
いくらSランクの身体能力とはいえ、準備運動もなしにいきなりこの負荷は、肉体の限界を超えている。
「ぬ、おおおおぉぉぉっ!!」
気合いと共に、グレンはどうにか膝を伸ばしきった。
立った。
六〇〇キロを支えて、直立した。
さすがは勇者と言うべきか。
だが、そこが限界だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……! ど、どうなってやがる……一歩も、動けねぇ……」
足が前に出ない。
重心を少しでもずらせば、そのままバランスを崩して転倒し、二度と起き上がれなくなるという恐怖が本能に突き刺さる。
汗が滝のように噴き出し、全身の筋肉が痙攣を始める。
「エリス! 回復魔法だ! 俺にストレンクス(筋力強化)をかけろ!」
「む、無理よぉ……! 声が出な……息が……!」
エリスは地面に這いつくばったまま、顔を土で汚していた。
美しい法衣の裾が泥にまみれるが、払うことすらできない。
肺が圧迫され、呪文の詠唱に必要な呼吸が確保できないのだ。
彼女は涙目でグレンを見上げる。
その瞳には、「助けて」という懇願と、「どうしてこんなことに」という混乱が渦巻いている。
「ヴァルガス! お前なら分かるだろ! これは何の魔法だ!?」
「わ、分かりません……! 解析の結果は……正常……! デバフは、一切かかっていない……!」
ヴァルガスは激痛に耐えながら、片手で必死に虚空のウィンドウを操作していた。
その結果が、彼をさらなる絶望へと突き落とす。
「毒でも、麻痺でも、重力魔法による攻撃でもない……! これは、ただ単に……『装備が重い』だけです……!」
「はぁ!? ふざけんな! 今までこんな重かったことねぇだろ!」
「そ、そうなんです! 物理法則がおかしい! なんで急に……!」
その時。
彼らの脳裏に、ある人物の顔がフラッシュバックした。
『装備、軽くしておきましたから』
『維持するの大変なんですよ、これ』
『重力魔法って、燃費悪いんです』
かつて、何度も聞いた言葉。
その度に「恩着せがましい」「嘘をつくな」「俺たちの実力だ」と罵倒し、切り捨ててきた言葉。
「ま、まさか……」
エリスが震える声で呟く。
「アルト……? あいつが、本当に……魔法をかけていたとでも言うの……?」
「馬鹿な!」
グレンが即座に否定する。
否定しなければ、自分たちのプライドが崩壊してしまうからだ。
「あんな無能に、そんな大層な魔法が使えるわけねぇ! もし使えてたとしてもだ! ここまで完璧に、何年も維持できるわけがねぇんだよ! 宮廷魔導士だって無理だぞそんなこと!」
「で、ですが……! 現実に、あいつが出ていった直後にこれですよ!?」
ヴァルガスが脂汗を流しながら叫ぶ。
「あいつが……あいつが何か『呪い』をかけていったに違いない! 去り際に、俺たちの装備を重くする呪いを!」
「呪いだと……!? ふざけやがって! 恩を仇で返しやがったなあの野郎!」
彼らは結論づけた。
これはアルトの支援がなくなったからではない。
アルトが最後に嫌がらせで「重くする魔法」をかけていったのだと。
そう思わなければ、今まで自分たちが彼に支えられていたという事実、そしてそれを無下に捨てたという愚かさを認めることになってしまう。
「呼び戻せ! 今すぐあいつを連れ戻して、解呪させろ!」
「ど、どうやって……! 動けないんですよ!?」
その時。
ズズッ、ズズズッ……。
暗闇の奥から、無数の這いずる音が聞こえてきた。
カサカサカサ。
硬質な足音が、岩肌を叩く不快なリズム。
グレンたちの顔色が、土気色から蒼白へと変わる。
「……おい、嘘だろ」
焚き火の明かりの先に浮かび上がったのは、赤黒い甲殻を持つ巨大な蟻の群れだった。
『ソルジャー・アント』。
体長一メートルほどの、ダンジョンではありふれた下級モンスターだ。
普段の彼らなら、聖剣の一振りで十匹まとめて薙ぎ払える雑魚中の雑魚。
「キチチチッ!」
「ギギッ、ギギッ!」
蟻たちは、動けない獲物を見つけ、興奮したように触角を揺らしている。
その数は二十、いや三十。
「くっ、雑魚が……! 近寄るんじゃねぇ!」
グレンが吠える。
だが、蟻たちはその声に怯むことなく、カサカサと距離を詰めてくる。
普段なら放出されているはずの、勇者の圧倒的な闘気が、今は重さに耐えるだけで精一杯で霧散しているのだ。
魔物にとって、今の彼らはただの「肉の塊」でしかなかった。
「ひっ、こ、来ないで! 私は聖女よ!? Sランクよ!?」
エリスの目の前に、一匹の蟻が迫る。
鋭い大顎が、カチカチと鳴らされる。
エリスは逃げようとするが、八〇キロの法衣がそれを許さない。
まるで亀が甲羅を抑えつけられているかのように、手足をバタつかせることしかできない。
「や、やだ……! 服が、服が重くて動けない……! 誰か助けて! グレン!」
「自分の身くらい自分で守れ! こっちも手一杯なんだよ!」
グレンは脂汗を垂らしながら、右手の聖剣を持ち上げようとした。
しかし、上がらない。
切っ先が地面から数センチ浮くだけで、腕の筋肉が断裂しそうな激痛が走る。
「らぁぁぁっ!」
無理やり横に薙ぎ払おうとするが、遠心力に負けて体勢が崩れる。
ドスッ!
グレンは無様に尻餅をついた。
その衝撃で、六〇〇キロの負荷が腰椎を直撃する。
「ぐあっ……!」
激痛に顔を歪めるグレンの足に、蟻が噛みついた。
「ガッ!?」
Sランクの防具も、噛みつかれれば痛い。ましてや、関節の隙間を狙われればひとたまりもない。
一匹が噛みついたのを合図に、群れが一斉に襲いかかる。
「うわぁぁぁっ! 痛い! 離せ! 離せぇっ!」
「こっちに来るな! 杖が……杖が邪魔で魔法が撃てないっ! うあぁぁっ!」
地獄絵図だった。
Sランクの勇者パーティーが、たかだか下級モンスターの群れに一方的に蹂躙されている。
反撃すらできない。
最強の剣は持ち上がらず、最強の魔法は詠唱できず、最強の防御はただの拘束衣と化していた。
「マジックバッグだ! ポーションを! 攻撃アイテムを出せ!」
ヴァルガスが叫ぶ。
そうだ、アイテムがあれば何とかなるかもしれない。
グレンは這いつくばったまま、腰に下げていたマジックバッグに手を伸ばした。
中には、緊急用の『火炎瓶』や『全回復ポーション』が入っているはずだ。
「くそっ、これさえあれば……!」
グレンはバッグの口を開け、手を突っ込む。
だが。
「……は?」
取り出そうとした手が、止まった。
バッグの中に手を入れた瞬間、ズシリとした重みが手首にかかったのだ。
マジックバッグとは、空間拡張と重量軽減の魔法が付与された鞄である。
しかし、彼らが持っているのは、容量こそ大きいが重量軽減率は低い安物だった。
それを、今まではアルトが魔法で補助して「無重量」にしていたのだ。
アルトがいなくなった今、そのバッグの中身の「総重量」が、ダイレクトにグレンの手にのしかかった。
中には大量の予備装備、食料、水、そして換金用の魔物の素材が詰め込まれている。
その重さ、優に二〇〇キログラム。
「う、ぬおおおっ!?」
バッグを持ち上げようとしたグレンの身体が、さらに地面にめり込む。
取り出そうとした火炎瓶すら、鉛のように重い。
指先が震え、瓶を落としてしまう。
ガシャン。
瓶が割れ、中の液体が漏れ出すが、火種がないため燃え上がらない。ただの無駄遣いだ。
「使えねぇ……! 何もかも使えねぇじゃねぇかッ!!」
グレンは絶望の叫びを上げた。
最強の装備も、便利な道具も、全てが「重力」という枷によってゴミ屑と化していた。
アルトというたった一人の「荷物持ち」がいなくなっただけで、彼らの戦力はマイナスにまで転落したのだ。
「誰か……誰かぁっ!」
「いやぁっ! 服が破れる! 噛まないでぇっ!」
「痛い! 痛い痛い痛い!」
蟻たちの顎が、容赦なく彼らの肉を、プライドを、削り取っていく。
死ぬかもしれない。
こんなダンジョンの浅層付近で、こんな雑魚モンスターに、こんな無様な姿で。
「アルト……! アルトォォォォッ!!」
グレンは地面に顔を擦り付けながら、憎悪と後悔の入り混じった声で、かつての友の名前を叫び続けた。
その声が届くことはない。
彼はもう、ここにはいないのだから。
そして、彼らを嘲笑うかのように、地面に突き刺さった聖剣『グラン・レオハート』が、月明かり(ダンジョンの発光苔)を受けて冷ややかに輝いていた。
持ち主の手を離れ、ただの鉄塊として静座するその姿は、まるで「お前には過ぎた玩具だったのだ」と語りかけているようだった。




