【閑話】 肉体管理報告 ~筋肉・混乱・入浴による社会秩序回復法~
――あの夜、いったい何が起きたのか、正直いまだによく分かってない。
眠っていたはずなんだ。
鉱山宿舎の、湿っぽい寝床で。
鉄臭い空気と他人のいびきに囲まれた、あの最悪の環境で。
――ドンッ。
突然、後頭部に衝撃。
「なっ……!」と思った瞬間、視界がぐらりと揺れた。
痛みはなかった。ただ、体の奥がふっと軽くなって、息をするのもどうでもよくなった。
そして――紅い瞳が見えた。
目の前に立っていたのは、夜の闇みたいに白い肌をした女。
髪が金色に光って、瞳が血のように赤い。
その瞳に吸い込まれた瞬間、世界がゆっくりと遠ざかっていった。
(あ……これ、死ぬやつか?)
そんな間抜けな感想を最後に、俺の意識はすとんと落ちた。
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目を覚ました時、俺は知らない場所にいた。
地面が白い。
壁も天井も白い。
けど、暗くはない。空気の中に光が混ざってるような、不思議な空間だった。
そして、目の前には――“あの紅い瞳”。
「おはよう、囚人トーマス。」
声をかけてきたのは、黒いマントを羽織った男。
その隣に、紅い瞳の女が控えている。
何が何だか分からなかった。
ただ、体が動かない。喉が乾いているのに、言葉が出てこない。
恐怖とか驚きとか、そういう感情すらどこかへ行ってしまっていた。
(あれ……なんで、怖くないんだ?)
「安心しろ、何も取らない。ただ……少し“整える”だけだ。」
その男――マスターと呼ばれているらしい――の言葉で、俺の“再教育”が始まった。
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最初は“風呂”だった。
室内なのに湯気が立ってる。
サウナ、水風呂、温泉。見たこともない設備。
「入れ」と言われ、訳も分からず服を脱いで湯に浸かった。
……もう、最初の一分で死ぬかと思った。
熱すぎて、息ができない。
けど不思議と、時間が経つにつれて、
体の奥の“淀み”みたいなものが流れ出ていく感覚があった。
汗が止まらず、頭が空っぽになる。
気づけば、何も考えたくなくなっていた。
サウナの次は水風呂。
それもまた地獄だった。
けど、出た瞬間――信じられないほど、体が軽い。
風呂も気持ち良い
体をこすると汚れが湯の上に浮いてくる
風呂って湯汚しちゃ駄目じゃなかったっけ?
「次、髪だ」
風呂から出るとそう言われた
若返ったジャックさん前は皺だらけの爺さんだったのに、
今は三十代ぐらいの精悍な顔。
その手にはバリカン。
「では、失礼します」
ジョリ……ジョリジョリ……。
音を聞いてるうちに、だんだん笑えてきた。
「俺、なんで坊主になってんだろ」って。
けど、悪い気はしなかった。
むしろ、なんかスッキリした。
鏡を見ると、別人みたいな顔になっていた。
自分でも分かる。――“生気”が戻ってた。
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食事も衝撃だった。
見たこともない料理が、次々に現れる。
“生成料理”ってやつらしい。
ハンバーガー、ピザ、ビール。夢みたいなメニュー。
最初は疑ってた。
毒でも入ってるんじゃないかと。
けど、一口食った瞬間、全部どうでもよくなった。
肉が柔らかい。パンが甘い。エールが冷たい。
その瞬間だけは、囚人とか支配とか、忘れた。
気づけば腹いっぱい食って、眠った。
“熟睡の催眠”ってやつもあったらしいけど、
もうどうでもいい。あんな寝心地、人生で初めてだった。
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あれから一か月。
俺は今、“採取班”のリーダーを任されている。
蝿さんズと蜘蛛さんズが森を探り、
ウルフさんズが仕留め、俺たちが回収して運ぶ。
完全な分業制だ。
……すげぇよな。
かつては剣を振ってモンスターを狩ってた俺が、
今じゃダンジョンの“狩猟指揮官”みたいなことやってるんだ。
囚人からの出世ってやつかもしれねぇな。
エリザベートさんは、相変わらず“理解不能”って言ってる。
でも、それを口にする時の声が、前より少し柔らかい気がする。
マスターも、“支配”って言葉を使うくせに、
なぜか“生かす”方向ばかり考えてる。
最初は怖かった。
けど今は――ちょっと違う。
風呂に入って、飯を食って、仲間と笑って、寝る。
それだけで、前よりずっと“人間らしい”。
たまに、夜中に思う。
あの時、後頭部を叩かれたのは、もしかしたら“救い”だったのかもしれない。
……いや、今でも頭はちょっと痛い気がするけどな。
それでも、悪くない。
このダンジョンで働くのは、地獄でも天国でもない。
ただの“生きる場所”だ。
今日も森でオークを倒し、帰り道で仲間と笑う。
そんな日々が続くなら――
俺はそれでいい。
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「なぁ、エリザベートさん。」
「何ですか、トーマス。」
「マスターって、何考えてるんすかね?」
紅い瞳が、少しだけ細められた。
「……理解不能です。」
その答えを聞いて、なぜかホッとした。
――ああ、今日も世界は正常だ。
読んでくださってありがとうございます。
トーマス視点の今回の閑話、いかがだったでしょうか。
恐怖と混乱から始まって、気づけば“健康的な囚人生活”。
支配されているのに、なぜか満たされている――
そんな彼らの姿こそ、マスターのダンジョンの“日常”です。
誰かの命令で動いていても、
そこに笑いや食事や睡眠があるなら、
それはもう「生きている」と呼んでいいのかもしれません。
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読んでくれる一人ひとりが、このダンジョンの“魔素”です。




