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窓際社員の憂鬱  作者: 空腹原夢路


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第9話 届かない言葉

最近、妙な噂を耳にするようになった。


「窓際の相談窓口」


誰が言い始めたのかは分からない。ただ、廊下ですれ違う社員が僕を見る目が、少し変わった気がする。

好奇の目もあれば、どこか親しみを込めたような目もある。

「今度行きますね」と事務の女性に声もかけられたりする。

僕は苦笑するしかなかった。相談窓口なんて大層なものじゃない。

ただ、暇潰しに話を聞いているだけだ。


その日、終業のチャイムが鳴り、オフィスから人が減り始めた頃。

僕は窓際の席で、いつものように残務を片付けていた。

残務と言っても社内アンケートの集計で、誰にでもできるような雑務だ。

窓際にはこういった仕事しか舞い込んでこない。


と、心の中で、軽く愚痴を言いながら、集計を進めていると、不意に、空気が変わった。


顔を上げると、佐藤昇がそこに立っていた。


佐藤昇はうちの会社の役員で、五十代後半。

この会社の上層部に君臨する男。

そして――僕を窓際に追いやった張本人だ。


「……久しぶりだな」


低い声だった。

五年前と変わらない。いや、少しだけ疲れが滲んでいるようにも見える。


「お久しぶりです」


僕は立ち上がろうとしたが、佐藤は片手で制した。


「いい。座っていろ」


そう言って、彼は無造作に近くの椅子を引き、僕の向かいに腰を下ろした。

周囲に人はほとんどいない。残っている社員も、役員の姿を見て足早に帰り支度を始めている。


沈黙が二人の間に広がった。


佐藤は窓の外を見ていた。夕陽が沈みかけ、オフィスはオレンジ色に染まっている。


「……噂を聞いた」


佐藤が口を開いた。


「窓際の相談窓口、だったか」


「大袈裟な噂ですよ。ほら、僕そんなに忙しくないから、その合間にただ話を聞いているだけです」


「忙しくない…そうか」とやや苦虫を嚙むような表情を浮かべる。


また沈黙。


佐藤は何かを言いあぐねているようだった。この男がこんな顔をするのを、僕は初めて見た。

いや、五年前にも一度だけ見たことがある。あのとき、僕が真実を問い詰めたとき。


「……最近、分からなくなった」


佐藤がぽつりと言った。


「何がですか」


「部下との付き合い方だ」


僕は黙って聞いていた。


「昔は簡単だった。困ったことがあれば、飲みに誘えばよかった。酒の席で本音を聞いて、こっちも本音を言って。それで大抵のことは解決した」


佐藤は苦い顔をした。


「今はそれがハラスメントだと言われる。飲み会を断る若手、育休を取る男、自分で考えない若者……。時代が変わって、会社も変わった。だが、俺だけは変われてない」


「……」


「部下が何を考えているのか分からん。話しかけても壁がある。俺のやり方が古いのは分かっている。だが、新しいやり方が分からんのだ」


その言葉に、僕は何も返せなかった。

いや、返す気になれなかった。


胸の奥で、古い記憶が蘇る。


五年前。

同期の顔。青ざめた表情。

「俺のせいじゃない。部長の指示だったんだ」

震える声でそう言った彼を、誰も信じなかった。


不祥事の責任をすべて背負わされ、彼は会社を去った。

そして、当時の部長だった佐藤は、不祥事の問題を解決したとして評価され、役員への階段を駆け上がった。


僕は佐藤に詰め寄った。

「本当のことを教えてください。あれは彼だけの責任じゃなかったはずだ」


佐藤は冷たく笑った。

「失敗した奴が悪い。それだけだ」


あのとき、僕の中で何かが切れた。


そんな佐藤は、同期の穴を埋めるために、僕を自分の陣営に引き入れようとした。

僕には多少の実績があったし、周囲からの信頼もあった。

だが、僕は断った。

あの男の下で働くことはできない。同期を見捨てたあの男の下では。


結果、僕は「出世を望まない人間」として窓際に追いやられた。


「……鈴木」


佐藤の声で、我に返った。


「お前、俺を恨んでいるか」


直球の問いだった。

僕は佐藤の目を見た。

そこには、傲慢さと、わずかな揺らぎがあった。


「……恨んでいないと言えば、嘘になります」


正直に答えた。


佐藤は目を伏せた。


「そうか」


「でも」


僕は窓の外を見た。


「恨んでいるからといって、話を聞かないわけじゃありません」


佐藤が顔を上げた。


「それが僕のやり方なので」


沈黙が流れた。


佐藤は何か言いかけたように見えた。

謝罪だったのか、言い訳だったのか、それとも別の何かだったのか。

分からない。彼は結局、何も言わなかった。


やがて、佐藤は立ち上がった。


「……邪魔したな」


それだけ言って、佐藤は背を向けた。


「佐藤役員」


僕は呼び止めた。

佐藤が振り返る。


「部下の話と話をしたいなら、まず聞くだけでいいと思います。答えを出そうとしなくていい。解決しようとしなくていい。ただ、聞く。それだけで、伝わることもあります」


佐藤はしばらく僕を見つめていた。

それから、小さく頷いた。


「……覚えておく」


その背中が遠ざかっていく。

大きく見えた背中が、少しだけ小さく見えた。


一人になったオフィスで、僕は窓の外を見つめていた。


許したわけじゃない。

あの同期のことを、僕は忘れていない。

佐藤がしたことを、なかったことにはできない。


でも。


佐藤もまた、孤独だった。

時代に取り残され、部下との距離に戸惑い、誰にも弱みを見せられない。

追いやった相手に話を聞いてもらうしかないほどに。


それを哀れだと思う自分がいる。

それでも許せないと思う自分もいる。


答えは出ない。

たぶん、ずっと出ない。


窓の外は、すっかり夜になっていた。

街の灯りが、ぽつぽつと瞬いている。


明日も僕は、この窓際にいる。

話を聞く。

許せない人の話でも、聞く。


それが正しいのかは分からない。

ただ、それが今の僕にできることだから。

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