第8話 選んだ道
その日、珍しく僕の方から声をかけた。
給湯室で何度かすれ違ったことのある派遣社員の女性が、廊下の隅で立ち尽くしていたからだ。
手には資料の束。会議室のドアを見つめたまま、入ろうとして、やめて、また見つめている。
「どうかしましたか?」
声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。
「あ、いえ……」
「会議ですか?」
「はい。資料だけ届けて欲しいと言われていて…でも、今入っていいのか分からなくて……」
彼女は困ったように笑った。
四十代くらいだろうか。落ち着いた物腰だが、どこか疲れた影がある。
「僕が持っていきましょうか」
「え、いいんですか?」
「よく任されてるので」
皮肉っぽく苦笑いしながら言うと、彼女はそれならと任せてくれた。
資料を受け取り、会議室のドアをノックして開けた。
「失礼します。資料をお持ちしました」
担当者に渡し、すぐに退出する。それだけのことだ。
廊下に戻ると、彼女がまだそこにいた。
「ありがとうございました」
お礼にも力はなく、彼女はまだ腑に落ちないような表情を浮かべていた。
「いえ……よかったら、少し休憩しませんか」
彼女は少し迷ってから、小さく頷いた。
窓際の席に着くと、彼女は自販機で買ったらしい缶コーヒーを両手で包んでいた。
「すみません、見苦しいところを」
「いえ。よくあることですか」
彼女は苦笑した。
「……正直、慣れません。もう一年もここにいるのに」
「一年」
「はい。派遣で来て一年です。仕事は覚えましたし、それなりに回せてるつもりなんですけど……」
彼女は缶コーヒーを見つめた。
「会議には呼ばれない。情報は後から回ってくる。『派遣さん』って呼ばれて、名前で呼ばれることも少なくて。この前なんか、私が作った資料を正社員の方が説明してて、それ自体は別にいいんですけど、誰も私が作ったって知らないんだなって……」
言葉が途切れ、彼女は小さく息を吐いた。
「愚痴ですね、すみません」
「いえ、続けてください」
「……悔しいんです。『どうせ派遣だから』って言われるのが。でも」
彼女は顔を上げた。
「私、正社員にはなれないんです。子どもがまだ小学生で、それに親の介護もあって。フルタイムで残業もあってっていうのは、今は無理で。派遣っていう働き方を、自分で選んだんです」
「自分で選んだ」
「はい。だから文句言う筋合いないのは分かってます。でも、選んだからって、軽く扱われていいわけじゃないって、時々どうしようもなく思ってしまって……」
彼女の声は震えていなかった。
むしろ、何度も飲み込んできた言葉を、ようやく吐き出しているようだった。
僕はしばらく黙っていた。
安易に「分かります」とは言えなかった。彼女の背負っているものを、僕は背負っていないから。
「……僕も、選んだ側なんです」
ゆっくりと口を開いた。
「出世しないって決めて、それでこの窓際に来た。自分で選んだはずなのに、最初の頃は『あいつは終わった』みたいな目で見られるのが辛かった」
彼女が静かにこちらを見た。
「正直、今でも答えは出てないんです。選んだ道が正しかったのか、分からない。ただ……」
僕は窓の外を見た。夕方の光がビルの壁を染めている。
「選んだ道を正解にできるのは、たぶん自分だけなんだと思います。周りが認めてくれなくても、自分が納得できているなら、それでいいんじゃないかって……まぁ、自分に言い聞かせているだけかもしれないですけど」
彼女はしばらく何も言わなかった。
「……結局は自分次第なんですよね」
静かに、彼女は言った。
「正社員の方にそう言ってもらえると、少し楽になります」
「実際、派遣さんたちがいないと困りますよ。仕事が回らない」
「お世辞でも嬉しいです」
「お世辞じゃないですけどね。ただ、社員も派遣さんに責任を負わせるのは申し訳ないって思ってるだけなのかもしれないですし、どうしてもお互い距離を詰められないってことはありますよね」
彼女は「そうですね…」と言いながら、小さく頷いた。
「あの」
「はい」
「お名前、聞いてもいいですか」
彼女は驚いたように目を見開いた。
「……中村です。中村智子」
「中村さん。また愚痴があったら、いつでも来てください」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、少し声を震わせて言った。
「……ここで名前を呼ばれたの、久しぶりです」
「僕は鈴木です。鈴木日向」
「日向さん……温かくて、いい名前ですね」
「よく言われます。名前負けしてますけど」
中村さんは小さく笑い、軽く頭を下げた。
「そんなことないです。私の心は温まりました。ありがとうございました、鈴木日向さん」
その背中は、来たときより少しだけ軽く見えた。
僕は窓の外を見つめていた。
選んだ道を正解にできるのは、自分だけ。
そう言ったものの、僕自身、それができているのかは分からない。
窓際に追いやられて、最初は抗った。でも結局、ここに落ち着いた。それが「正解にした」のか、「諦めた」のか。
答えは、まだ出ていない。
夕陽が沈み、今日もオフィスに夜の気配が忍び寄る。
明日も誰かが、この窓際に来るのだろう。そんな気がしている。
僕はその話を聞く。
自分の答えが出ないままだけど、人の話を聞き続ける。
それが、今の僕にできることだから。




