第6話 帰ってきた場所
午後の日差しが傾き始めたころ、フロアの空気がざわついた。
育児休暇を取っていた男性社員が、今日から復帰したのだ。
彼の名前は藤原。僕より三つ下で、かつては営業成績でトップを争っていた。
半年前、第一子の誕生を機に育休を取ると聞いたときは、正直驚いた。この会社で男性が育休を取るのは、彼が初めてだったから。
復帰初日の彼は、どこかぎこちなかった。
席に戻っても誰かと話すでもなく、パソコンの画面をじっと見つめている。昼休みも一人で弁当を食べ、午後になってもその様子は変わらなかった。
夕方、気がつくと彼が僕の机の横に立っていた。
「……先輩、少しいいすか」
「ああ、どうぞ」
藤原は椅子を引いて座ったが、すぐには話し出さなかった。
手元のペットボトルのラベルを剥がしながら、視線を落としている。
「……戻ってきたら、なんか居場所がなくて」
ようやく出た言葉は、小さくかすれていた。
「半年って、思ったより長かったみたいで。プロジェクトも進んでるし、後輩は俺がいなくても回してるし。なんていうか……俺、いなくてもよかったんだなって」
僕は黙って聞いていた。
「育休取るとき、正直カッコつけてたんです。『これからの時代は男も育児だ』とか言って。でも復帰したら、俺のことなんて誰も頼ってこないし、それどころか、腫れ物に触るみたいな空気で……」
彼は自嘲気味に笑った。
「育休取ったこと自体は後悔してないんです。子どもは可愛いですし、そのまま仕事してたら、妻の苦労も理解せず、育児に興味を持たない仕事人間になってたかもしれない。でも、まさか、こんなにも置いて行かれるとは思ってなかった…」
ペットボトルのラベルが、細く裂けて机に落ちた。
「……俺も昔、似たようなことがあったよ」
気がつくと、僕は口を開いていた。
「似たようなこと?」
「ああ。俺も藤原くらいの頃は、それなりに数字を追いかけてた。同期と競って、上を目指して。でもある時期、少し休まなきゃいけないことがあってな」
藤原が顔を上げた。
「戻ってきたら、俺の席には別の奴が座ってた。比喩じゃなく、本当に。プロジェクトも引き継がれてて、俺がいた痕跡なんかどこにもなかった」
「……それで、どうしたんすか」
僕は窓の外を見た。夕陽がビルの隙間から差し込んでいる。
「しばらくは抗ったよ。取り戻そうとした。でも、どこかで気づいたんだ。元の場所に戻ることにこだわってる限り、ずっと苦しいままだって」
藤原は黙っている。
「藤原の居場所がなくなったわけじゃない。ただ、前と同じ場所じゃなくなっただけだ。それは喪失じゃなくて、変化だと思う」
「変化……」
「残された人たちは、藤原の埋め合わせをしないといけなかった。必死にね。だから、むしろ喜ばしいことなんだ。藤原がいない分、残された人たちは成長した。半年も休んで、まだ藤原が抜けた部分が空いたままだったら、この会社は終わりだよ」
「まぁ…そうすね…」
「それに半年間、藤原は子どもと向き合ってたんだろ。その経験は、会社の数字には残らないけど、藤原の中には確実に残ってる。それを活かせる場所は、きっとある。今後、育休を取ろうとしてる人の参考になる。ここで、藤原がくじけたら、もう育休を取る男性社員はいなくなる」
藤原はしばらく考え込んでいた。
やがて、小さく息を吐いた。
「そうですね…俺が抜けて何もできなくなってることを望んでたわけじゃないのに、なんかマイナスに考えすぎてしまってました。俺、自分でまた1から居場所を作りますわ」
「先輩、なんでそんなアツい心があるのに、降りたんすか…」
「降りたっていうか、追いやられたんだけどな」
僕が苦笑すると、藤原も少しだけ笑った。
「でも先輩、今の場所を気に入ってるでしょ?」
「……まあ、悪くはないかな」
藤原は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。俺やってやりますわ!!」
「ああ。また今度、子どもの話も聞かせてくれ」
彼は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうにうなずいた。
「いいんすか。写真めちゃくちゃあるんすけど」
「いいよ。窓際は暇だからな」
藤原が席に戻っていくのを見送りながら、僕は自分の言葉を反芻していた。
元の場所に戻ることにこだわってる限り、ずっと苦しいままだ。
あの頃の自分に言い聞かせるように、そんな言葉が出た。
傷が癒えたわけじゃない。ただ、瘡蓋ができて、触らなければ痛まなくなっただけだ。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈んでいく。
明日も誰かが、この窓際にやって来るのだろう。
そして僕は、また話を聞く。
それが今の、僕の居場所だから。




