第12話 守りすぎた結果
原田と飲んだ翌週のことだった。
昼休みが終わり、僕が窓際の席でコーヒーを飲んでいると、見慣れない人影が近づいてきた。
人事部の進藤課長だった。
四十五歳、人事一筋のベテラン。採用から労務管理まで、この会社の人事に関わることは大抵この人を通る。
穏やかな物腰だが、どこか疲れた雰囲気を常に纏っている。人事という仕事の宿命かもしれない。
そして、五年前、僕の異動を間近で見ていた人でもある。
「鈴木くん、少しいいかな」
「ええ、どうぞ」
進藤課長は周囲を見回してから、向かいの椅子に腰を下ろした。
手には何も持っていない。差し入れなしで来る相談者は珍しい。
「最近、君の評判をよく聞くよ」
「評判、ですか」
「ああ。『窓際の相談窓口』だっけ。社員の間で話題になってるよ」
進藤課長は苦笑した。
「新人から課長クラス…いや、役員までもが君のところに来てるらしいじゃないか」
「大袈裟ですよ。ただ話を聞いてるだけです」
「それができる人間が少ないから、話題になるんだろうねぇ」
進藤課長は少し間を置いてから、声を落とした。
「……あの時のこと、ずっと気になっていたんだ」
僕は黙って聞いていた。
「五年前、君がこの席に異動になった時、僕は何もできなかった。上からの圧があって、君が佐藤役員に楯突いたことで『扱いを考えろ』と言われていたのは知ってた。でも、僕は板挟みで、結局黙って見ているしかなかった」
「……まぁ、それは仕方なかったと思いますよ」
「そうか」
進藤課長は小さく息を吐いた。
「何もしなかったことを、謝って済む話じゃないのは分かってる。でも、ずっと後ろめたかったんだ。君みたいな人材が、こんな場所に押し込められるのを、止められなくて」
「進藤さんのせいじゃないですよ。あの状況で逆らえる人なんていなかった」
「……そう言ってもらえると、少しは楽になるよ」
進藤課長は窓の外を見た。
「でも、最近君が活躍してるって聞いて、正直ほっとしたんだ。この場所が、君にとって悪い場所じゃなかったんだなって」
「活躍っていうほどのことじゃないですけどね」
「謙遜するなよ。みんな君を頼りにしてる」
進藤課長は少し笑った。
「このまま相談窓口のチーム、立ち上げたらどうだ?君がリーダーで」
「いやいや、僕はこのままで十分ですよ」
「冗談だよ。半分は」
半分は本気なのか。僕は曖昧に笑って流した。
進藤課長はしばらく黙っていたが、やがて少し声を落とした。
「……実は僕も、ちょっと悩みがあってね」
「悩み、ですか」
「ああ。人事部として、この数年でハラスメント対策をかなり強化したんだ。研修も増やしたし、相談窓口も整備した。通報があれば厳正に対処する体制も作った」
「最近、そういう研修増えましたよね」
「おかげでハラスメントの件数は減った。それ自体はいいことなんだ。でも……」
進藤課長は眉間に皺を寄せた。
「最近、各部署からクレームが来るようになった。『若手が全然育たない』『ハラスメントを盾にされたらなんもできない』『どう指導すればいいか分からない』って」
「……なるほど」
「現場の管理職は萎縮してる。ちょっと強く言えばパワハラ、飲みに誘えばアルハラ。だから当たり障りのないことしか言えなくなった。結果、誰も若手を注意できなくなった」
進藤課長は頭を掻いた。
「守りすぎた結果、育たなくなった。これじゃ本末転倒だよ」
僕は少し考えてから、口を開いた。
「……難しいですね。ハラスメントを減らすのは正しいことだし、でも指導ができないと人は育たない」
「そうなんだよ。バランスの問題だって分かってるんだ。でも、そのバランスがどこにあるのか、正直僕にも分からない」
「僕にも分からないですね、正直」
「だろうな。分かってたら、とっくに解決してる」
進藤課長は苦笑した。
「でも、君のような立場の人の話だと、皆話を聞いてくれるんだよな」
「それは…僕自身が評価とかの外にいる人だからじゃないですか?」
「それもあるだろうけど、君の人柄がそうしてるんだと思うよ」
「でも、窓際ですが…」
「あはは。それは本当に申し訳ないよ」
進藤課長は苦笑いが本当によく似合う。
「まぁ、でも、実際こうやって話を聞いてもらうだけで、少し整理できた気がするよ」
「お役に立てたなら良かったです」
進藤課長は立ち上がった。
「どうしたもんかねー。やっぱり相談窓口、正式に開設するかー」
「いや、だから僕は……」
「冗談だよ。三割は」
七割は本気なのか。さっきりも本気になってるじゃないか。そんな冗談(?)を言いながら、進藤課長は手を振り去っていった。
一人になって、僕はコーヒーを啜った。
守りすぎた結果、育たなくなった。
進藤課長の言葉が、頭の中で繰り返された。
ハラスメントは悪だ。それは間違いない。
でも、指導することと傷つけることは違う。注意することと追い詰めることは違う。
その境界線が曖昧になった結果、誰も何も言えなくなった。
正解は分からない。
たぶん、現代の社会人は皆悩まされていると思う。
時代が変わるたびに、正解も変わっていく。
僕にできるのは、話を聞くことだけだ。
答えを出すことじゃなく、一緒に考えること。
窓の外には、午後の光が静かに差し込んでいた。
相談窓口のチーム、か。
冗談だと思いたいけど、進藤課長の目はかなり本気だった気がする。
まあ、その時はその時だ。
今はただ、ここにいる。
窓際に。




