第11話 精算
安藤さんが去った後も、僕はしばらく窓の外を見ていた。
「真面目な子だったわよね。不器用で、要領悪くて、でも誠実だった」
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
原田。
五年前に会社を去った、同期の名前だ。
あの事件の後、何度か連絡を取ろうとした。でも、そのたびに指が止まった。
俺が連絡して、何になる。
俺のせいで、あいつはもっと傷つくかもしれない。
会社のことなんて、思い出したくもないだろう。
そう思って、結局何もできなかった。
その日の夜、僕は家に帰ってからスマホを開いた。
LINEの画面をスクロールする。
原田とのトーク履歴は、五年前で止まっていた。
『お疲れ。今日の飲み、ありがとな』
それが最後のメッセージだった。
あの事件が起きる、一週間前。
僕は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
何を送ればいい。
五年も経って、今さら何を言えばいい。
でも、このままじゃいけない気がした。
安藤さんの言葉が、佐藤の老いた背中が、僕の中で何かを動かしていた。
結局、短く打った。
『最近どう?』
送信ボタンを押す。
既読はつかない。当たり前だ。もう夜も遅い。
スマホを置いて、シャワーを浴びた。
戻ってきても、まだ既読はついていなかった。
その夜は、なかなか眠れなかった。
翌朝、目が覚めてすぐにスマホを確認した。
返信があった。
『久しぶり。元気だよ。お前は?』
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
『元気。今度飲まないか』
『いいな。来週どう?』
あっさりとした返事だった。
拍子抜けするほどに。
でも、それが原田らしいと思った。
一週間後、僕は駅前の居酒屋にいた。
約束の時間より少し早く着いて、カウンター席で待っていると、入口のドアが開いた。
「よう」
原田だった。
五年ぶりの顔は、少し日焼けしていた。
髪は短くなり、体つきも前より逞しくなっている。
スーツ姿しか知らなかったから、カジュアルな服装が新鮮だった。
「久しぶり」
「ああ。久しぶり」
原田は隣に座り、メニューも見ずに生ビールを頼んだ。
僕も同じものを頼む。
「鈴木は変わってないな。いや、前よりもトゲが抜けた感じもするな」
「そっちは…やけに日焼けしてるな…」
「まぁ、毎日農作業してるからな」
原田は笑った。
「実家に戻ったんだ。ちょうど親父が腰を痛めてさ、手伝ってるうちにそのままね」
「農家か…前の原田からは想像できないな」
「うちは元々農家だぞ。うちのブロッコリーは美味いんだぞ。うちのブロッコリーは茎が柔らかくて美味いんだ。今度送ってやるよ」
自慢げに言う原田の顔は、昔より穏やかだった。
ビールが来て、軽く乾杯する。
最初の一口は、五年分の沈黙を埋めるように、ゆっくりと喉を通った。
「……今、幸せか?」
気がつくと、そう聞いていた。
原田は少し考えてから、頷いた。
「まあ、悪くないよ。最初はきつかったけどな。それこそ腰は痛くなるし、朝は通勤よりも早い」
「それは大変だ」
「でも、土をいじってると余計なこと考えなくて済む。朝日と一緒に活動始めて、日が暮れたら酒を飲んでさっさと寝る。単純だけど、俺には合ってた」
原田はビールを飲み、少し間を置いてから続けた。
「……あの時は、自分のことで精一杯だった」
空気が変わった。
「お前が庇ってくれたこと、後から聞いた。アイツに詰め寄ったって」
「……」
「お礼も言えなかった。ごめんな」
「謝ることじゃないだろ」
「いや、ずっと引っかかってたんだ」
原田はグラスを見つめた。
「俺のせいで、お前は窓際に追いやられた。そう聞いた。だから、お前にも恨まれてると思ってた」
「そんなわけないだろ」
「分かってる。分かってるけど、怖かったんだ。お前に連絡して、『お前のせいだ』って言われるのが」
原田は苦笑した。
「だから、連絡が来た時、正直びっくりした。でも、嬉しかった」
「……」
「今日、こうして会えて、やっと精算できた気がする」
原田の目は、まっすぐだった。
五年前、会社を追われた時の、あの曇った目ではなかった。
「……俺も」
僕は自分のグラスを見つめた。
「俺も、ずっと引っかかってたんだ。何もできなかったって。お前を守れなかったって」
「何言ってんだよ。お前は十分やってくれただろ」
「でも、結局お前は辞めた。佐藤は役員になった。何も変わらなかった」
「変わったよ」
原田は言った。
「俺の中では、変わった。お前が声を上げてくれたこと、忘れてない。あれがなかったら、俺は自分が全部悪いと思い込んだまま終わってた」
「……」
「だから、ありがとう。五年越しだけど」
原田はビールを掲げた。
僕も、グラスを持ち上げた。
軽くぶつける。
その音が、五年間の沈黙を終わらせた気がした。
その後は、昔みたいにくだらない話をした。
会社の噂話、原田の農業の苦労、僕の窓際生活。
笑って、飲んで、気がつけば原田の終電の時間が近づいていた。
「そろそろ出ないと」
「ああ。まだ話したりないけど…それはまた今度な」
店を出ると、夜風が涼しかった。
「また連絡するわ。ブロッコリー送るから、住所教えろよ」
「分かった。楽しみにしてる」
原田は手を振って、反対方向へ歩いていった。
その背中を見送りながら、僕は思った。
完全に元通りになったわけじゃない。
五年という時間は、簡単には埋まらない。
でも、前に進める気がした。
ずっと引っかかっていた棘が、少しだけ抜けた気がした。
帰り道、夜空を見上げた。
星は見えなかったけれど、空気は澄んでいた。
明日も僕は、窓際にいる。
でも、今日よりは少しだけ、軽い気持ちで座れる気がした。




