第10話 社内の情報通
佐藤が来た翌日のことだった。
昼休み、僕が窓際の席でコンビニのおにぎりを食べていると、ヒールの音が近づいてきた。
「あんた、最近有名じゃない」
顔を上げると、安藤つぼみが腕を組んで立っていた。
五十代半ば。入社三十年近いベテランで、社内の生き字引と呼ばれている女性だ。
様々な部署を渡り歩き、人事の裏も経理の闇も、この人が知らないことはないと言われている。
口は悪いが、悪人ではない。ただ、目をつけられると面倒なタイプだ。
手には、ピンク色のうさぎがプリントされたマグカップ。彼女のトレードマークで、このカップで紅茶を飲むのが日課らしい。見た目とのギャップに最初は驚いたが、もう慣れた。
「有名って、何がですか」
「とぼけないでよ。『窓際の相談窓口』」
安藤さんは勝手に向かいの椅子を引いて座った。
うさぎのカップをコトンと机に置き、くつろいだ姿勢になる。
「新人から課長まで来てるんでしょ。藤原くんも来たって聞いたわよ。育休明けで落ち込んでたのに、あんたと話してから元気になったって」
「別に大したことは言ってないですよ」
「そういうとこよ、あんたの面倒なとこ」
安藤さんは紅茶をすすりながら、じろりと僕を見た。
「謙遜してるんじゃなくて、本気でそう思ってるから厄介なのよ」
「……はあ」
「で」
安藤さんは声を落とした。
「昨日、佐藤が来たでしょ」
僕は手を止めた。
「……なんで知ってるんですか」
「私を誰だと思ってんの。この会社で私が知らないことはないわよ」
自信満々に言い切る。反論できないのが悔しい。
「終業後に役員が窓際にわざわざ来るなんて、目立つに決まってるじゃない。何人か見てたわよ」
「……そうですか」
「で、何話したの」
「それは」
「言いたくないならいいわよ。だいたい想像つくし」
安藤さんは紅茶を啜りながら、窓の外を見た。
「あんた、よくあの男の話を聞いたわね。私なら追い返してたわ」
その言葉に、僕は黙った。
「……知ってるんですね」
「当たり前でしょ。私がここに何年いると思ってんの」
安藤さんは淡々と続けた。
「五年前の事件。表向きは担当者の不正ってことになったけど、あれが佐藤の指示だったことくらい、古株はみんな分かってたわよ」
「……」
「でも誰も言わなかった。言えなかった。佐藤はうまく立ち回って、責任を全部あの子に押し付けた。あの子は辞めて、佐藤は役員になった。よくある話よ」
安藤さんの声には、諦めと怒りが混じっていた。
「あんたは確かあの子と同期だったわよね」
「……はい」
「佐藤に詰め寄ったって聞いたわ。本当のことを言えって」
「……よく知ってますね」
「だから言ってるでしょ、私が知らないことはないって」
呆れながら言い切り、安藤さんは僕をじっと見た。
「あんた、あのとき佐藤に干されることになるって分かってたでしょ。それでも引かなかった」
「……引けなかっただけですよ」
「同じことよ」
安藤さんはふっと笑った。
「あんたみたいなの、この会社じゃ珍しいわよ。だからこうして窓際に追いやられてるんだろうけど」
「褒めてます?」
「どうかしらね。社会人としてはダメなんじゃない?ただ、私は嫌いじゃないわ」
安藤さんは立ち上がり、うさぎのカップを持った。
「でも、あんたが佐藤の話を聞いたってことは、少しは驚いたわ。私なら絶対無理。顔も見たくないもの」
「……僕だって、別に許したわけじゃないですよ」
「分かってるわよ。でも、拒絶しなかった。それができるのは、あんたくらいよ」
安藤さんは背を向けた。
「まあ、相談窓口、続けなさいよ。あんたには向いてるわ。私は相談に来ないけど」
「はは。いつでも来てくださいよ。窓際は暇なので」
「だから来ないって言ってるでしょ。まったくあんたわ」
そう言って、安藤さんはうさぎのカップを片手に、ヒールの音を響かせて去っていった。
その背中がどこか楽しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
一人になって、僕はおにぎりの残りを食べた。
古株には古株の視点がある。
僕の知らないところで、誰かが見ていて、誰かが覚えている。
この会社も、案外悪いところばかりじゃないのかもしれない。
窓の外には、昼下がりの光が溢れていた。
午後の仕事が始まる。
また誰かが来るかもしれないし、来ないかもしれない。
どちらでも、僕はここにいる。
窓際に。




