婚約破棄した幼馴染が夜会で突然、大声で絶叫しながらドン引きするくらい泣き喚き始めた。
ハリエットと出会ったのは、サイアムが五歳の頃だった。
「はじめまして。ハリエット・リロ・フォン・リッドルフォーでございましゅ」
二つ年下で、くるくると巻かれた桃色の髪をもつ少女は、少し人見知りで。ご両親の後ろに隠れながら、顔だけ出してこちらを伺う姿や、辿々しい礼と挨拶が可愛らしかったことを覚えている。
挨拶の最後に噛んでしまい、顔を真っ赤にして母親の後ろに逃げた時、この子は自分が守ってあげようと、自然とそう思った。
「サイアムさま、こんにちは!」
「こんにちは、ハリエット。今日は庭園の花が見ごろだから、外でお茶ができるように用意したんだ。庭園を散歩してから、ゆっくりしよう。新しいお茶も手に入ってね。ハリエットが好きな味だと思う」
「ほんとうですか?きょうはおてんきがいいから、わたし、おさんぽがしたかったの!」
「君はお転婆だからね。きっとそうだろうと思ってたよ」
頻繁に家に来るようになったハリエットは、サイアムによく懐いた。遊びに来たらずっと後ろをついてくる。
サイアムもそれが可愛くて、嬉しくて。たくさん構っては、ハリエットが喜ぶことは何かと、いつもあれこれ考えていた。
二人の婚約が結ばれたのは、サイアムが十歳、ハリエットが八歳の頃だった。
その頃には、最初から相性が良ければ婚約させるつもりで引き合わせ、一緒に過ごさせていたのだと分かっていた。二人ともお互いのことが大好きだったので、全く問題はなかった。
ここグランテニア帝国には、爵位制度といった身分制度はない。国の頂点たる皇帝が唯一の頂点であり、絶対だった。
ただし、その皇帝を支える、建国時からの名家が十ある。建国当時、皇帝に剣を捧げた逸話を由来とし、十剣家と呼ばれるそれらの家は、権力や財力が抜きん出ており、実質的に他国でいうところの貴族である。
そしてハリエットのリッドルフォー家と、サイアムのシュトラルオール家は、どちらも十剣家である。
十剣家同士で婚姻を結ぶことはそう多くないのだが、この頃リッドルフォーは帝城内の政争で負けて失脚し、また領地でも悪天候や災害に見舞われ、没落寸前だった。
それを助ける為に婚約が結ばれ、リッドルフォーはシュトラルオールの援助を受けて立ち直った。
二人は成長しても頻繁に会い、多くの時間を共に過ごした。会えない時も手紙を送り合い、他愛無い日常を伝えあった。
ハリエットが十二歳になった誕生日には、サイアムの瞳の色の宝石がついた首飾りを送った。十二歳には少し大人びていて、でも大人になったら付けられないような程度のものだったが、ハリエットはとてもとても喜んでくれた。
その日、庭園で侍女や侍従に隠れて、初めての口付けをした。
サイアムにとって、ハリエットは出会った時からずっと、一番大切な女の子で、守るべきひとだった。
そんな二人の関係に暗雲が立ち込めたのは、ハリエットが十五歳になり、帝国学園に入学してからだ。
近年、全帝国民の教養を高める目的で、帝国では各地に学園、学校が創られている。
まだまだ貧民層の子は通えないことも多いが、富裕層でない一般的な帝国民の子どもでも、大半は通えるようになってきたところだ。
特に帝都にある学園は、十剣家の子女達や、それこそ皇子や皇女も通う、最高峰の学園である。
サイアムが第三学年に上がる頃は、第二学年に第三皇子が通っていたこともあり、歳が近くなるよう生まれた十剣家の子も数人いた。
十剣家の子女は常に注目の的だ。皇女を除けば、姫という呼称を許されるのも十剣家の娘だけ。
しかも、十剣家には美男美女が多いものだが、その中でもハリエットは際立っていた。
入学した際には、リッドルフォーの姫君は帝国でも類を見ない美少女だと、大きな話題になった。
とは言っても、十剣家の姫とどうにかなろうと思う者など普通の家の生まれにはいないし、同じ十剣家の子息でも、既に婚約者のいる令嬢には礼節を持って接するものだ。
学年が離れていても、心配することなどないはずだった。
しかし、ハリエットに一目惚れした者がいた。第三皇子その人だ。
皇帝は絶対権力者とはいえ、現皇帝は政治的に重要なこと以外で権力を振り翳すような方ではなかった。皇太子でもない第三皇子がいくら横恋慕したところで、十剣家同士の婚約をどうにかすることなどできるはずがない。しかも第三皇子には婚約者がいるのだ。
それなのに、第三皇子は熱烈にハリエットを口説いた。
やがて頻繁に二人で過ごしているところが目撃されるようになり、その噂はサイアムにも届いていた。
「おい、今日も噂の二人は一緒に昼食を摂っていたらしいぞ。放っておいていいのか?」
級友のセルグァンに言われ、サイアムは返答に困った。皇族に対して、こんなところで不敬な発言をするべきではない。誰が聞いているか分からないのだから。
「二人きりというわけではないだろう。第三皇子殿下は紳士だ。何も心配などしていないさ」
口ではこう言ったが、実際には二人きりで過ごしていたという噂も何度か聞いている。第三皇子は皇族の中では甘やかされて育っており、我儘でもある。ハリエットが嫌な思いをしていないか、それが心配ではあった。
皇族に口を出せない自分が悔しい。
(あんな傲慢で自分勝手なやつに付き纏われてしまっているのに、何もしてあげられないなんて)
せめて愚痴でも聞いてあげたいのに、ここしばらくは定期的に会っていたお茶会などの予定もなくなっている。
(ああ、心配だ)
サイアムはハリエットの気持ちを疑ってはいなかった。あくまで皇族相手だから断りにくいだけで、サイアムへの気持ちがなくなるようなことはあるまい。次に会った時にはたくさん愚痴を聞いてあげよう。そんな風に考えていた。
やっと会えた日に、ハリエットから婚約の解消を告げられるまでは。
「婚約を解消したいのです」
ハリエットは、サイアムの目を真っ直ぐに見つめて言った。入学前にはまだ儚げで、気の弱いところがあったのに、今日は背筋をぴんと伸ばし、凛とした立ち姿だ。
自信と誇りに満ちたその姿に、自分が守ってあげなきゃと思った、かつての可愛らしい女の子はもういないと知った。
「……理由を聞いても?」
「噂はご存知でしょう?」
「第三皇子殿下とのことかい?聞いてるけど、あんなのは単なる噂だろう。君は……」
「噂ではないのです。ガルハイド殿下からは真剣な愛をいただいております」
「いや、それはそうだろうと思っていたけど。だけど、君は……」
「わたくしも、ガルハイド殿下をお慕いしております」
ハリエットは目を逸らさない。
「解消と言いましたが、わたくし有責の婚約破棄で構いませんわ」
「……リッドルフォーにそんな余裕はまだないと思うけど。それも第三皇子殿下が?」
「ええ。既に両親と皇帝陛下の話し合いも済んでおります。後はシュトラルオールの皆様にご了承いただくのみです」
「……了承しないと言ったら?」
「……こちらから一方的に破棄いたします。了承していただければ、その分慰謝料は増額させていただきますわ」
もう全て、話は終わっているようだ。
「ハリエット、君はそれでいいのかい?その選択の先に、幸せな未来が君にある?」
「ええ。そう確信しておりますわ。了承していただけないと、わたくしとても悲しいですわ」
そうして、二人の婚約は破棄された。
ハリエットは、最後までサイアムから目を逸らさなかった。
第三王子の婚約が解消されたという噂を聞くのは、そのすぐ後のことだった。
「だから俺は忠告したんだ。ちゃんと気持ちを引き留めておかないから、捨てられたんじゃないのか」
今日もセルグァンは返答に困ることを言ってくる。彼はいい奴なのだが、少々気遣いに欠けるところがある。
「別に捨てられたわけではないよ」
「負け惜しみにしか聞こえないぜ。…というかきみ、あんまり悲しそうじゃないね。彼女のこと、好きじゃなかったのかい?」
「え?好きだよ?でも別に独占したいわけじゃない。あの子が自分で決めたなら反対しないし、あの子が幸せならそれでいい」
「達観してるな。理解できん」
ハリエットがちゃんと幸せになれるかどうか、それが重要だ。どの道、サイアムには第三皇子と渡り合えるような権力がない。
それからというもの、学園内では完全に認知され、ハリエットは将来の皇子妃として見られるようになった。入学前の、サイアムが好きだった、守ってあげたくなるような女の子はもういない。
そこにいるのは気高く、咲き誇る美少女だった。学園の女性達の中でも最大派閥を率いる女帝だ。
サイアムの元には、ハリエットが高飛車になったとか、冷たくなったとか、悪い噂が時々聞こえた。別に聞きたくもないし、なぜ元婚約者にそれを言うのか、理解し難かったが。
別に言われなくても学園で見掛けることはあるし、既に参加している社交界でも顔を合わせることはあるのだから、わざわざサイアムに噂を届ける必要などないというのに。
社交界でも既に第三王子の婚約者候補として知られ始めていた。サイアムと婚約していたことを知る者は少ないが、そういった人々は眉を顰めて二人を見た。同情的な目や慰めの言葉をかけられることもあったが、サイアムは特に気にしていなかった。
たまたま近くを通りがかったときなどは、第三王子はにやにやと勝ち誇った笑みを浮かべてくる。ハリエットは、サイアムがそれまで見たこともなかったような冷たい顔で、一瞥もしない。
リッドルフォーの財力の問題もあり、普段は質素に暮らしていたハリエット。今では第三皇子からの贈り物で着飾られ、夜会でも一際輝かんばかりに美しい。
それも無理からぬことだった。サイアムがシュトラルオールの馴染みの店で揃えた衣装や装飾品も、皇族の贈り物には敵わない。
「あなたは、それでよろしいの?」
かけられた声に振り向けば、そこには第三皇子の元婚約者がいた。グランテニア家の姫、ミルトレイリアだ。
金色の髪と碧い目の十剣家の中でも屈指の権勢を誇る、名門の姫。現在若年の女性皇族はいない。未婚の女性の中では最も高貴な姫だろう。
ともすれば冷たいとも言われる、厳格で気高い彼女は、常のことであるが冷ややかな目つきで、サイアムを見ている。なんとなく、怒られているような気持ちになった。
「大事なのは、彼女がどうしたいか。それと、彼女が幸せかどうかだから。私がいいかどうかなど、些細なこと」
「あなたたち二人の間には、確かな愛があると思っていたのだけれどね」
「君の方には、そんなものはなさそうだったね」
「ええ、そうね。大きな声では言えないけれど、わたくしにとってはありがたかったわ」
「おめでとうと言っておくよ」
「ありがとう。なんなら、あなたとわたくしで婚約する?」
一昔前なら醜聞になり、ミルトレイリアの未来は厳しいものになっただろうが、最近では男側の不義理なら問題にもなりにくい。グランテニアの姫君ともなれば、新たな婚約もよりどりみどりだろう。
「光栄な申し出だけど、もうしばらくはこのままでいたいんだ」
「そう言うと思ったわ。後で気が変わっても、その頃にはきっと、もう遅いからね」
「そうだろうね。君なら次は誠実な男と縁を結べるさ」
そうして日々が過ぎていった頃、不可解な出来事が起こり始めた。
シュトラルオールが出資していた事業や商会で度々問題が起こり、損害が出始めたのだ。
現当主である父は卓越した経営手腕と投資の感覚を持っている。普段は堅実で手堅いはずなのに、いくつもの不幸が重なり、ここしばらくは失敗ばかりだ。
父は難しい顔をして考え込むことが多くなり、家の中がなんとなく暗くなった。ただでさえ、ハリエットの笑い声が聞こえなくなって久しいというのに。
そして、遂にはいくつかの事業が頓挫し、借金までするようになったと聞いた頃、それが第三皇子の圧力によるものだったと知った。
「どうして私に話してくださらなかったのです」
「話してどうにかなることではないからな。ハリエットさんとの婚約を解消した自分のせいだと、気にするかもしれんと思ってな」
「あなたのせいではないのよ。皇帝陛下にも苦情を申し立てているわ」
「ではなぜ改善されないのです」
「第三皇子殿下もあれでなかなか狡猾でな。陛下もご自身の子らには甘いところもあって、なかなかな」
「陛下が道を違えるならば、それを正すのも臣下の役目では」
「それは道理だ。だが、そう単純な話でもない。十剣家同士が政治闘争に明け暮れているからな。我が家の力を削ぎたい勢力もあるのだ」
「そんな……。ではこのまま没落を待つのですか」
「なに、我が家が潰れては陛下も他家も困る。そこまではいかんさ」
「あなたは何も気にせず、新しい婚約者を探しなさい」
「お前が継ぐ頃には、綺麗な状態にしておくさ」
父には宥められ、母には諭されたが、サイアムは忸怩たる思いで日々を過ごした。
確かに、シュトラルオールはそれほと華美に飾る家ではない。華やかなグランテニアなどに比べれば質素な生活をしていたし、贅沢を少し控えるのは苦ではない。
しかし、流石に恋人を奪われ、家にまで圧力を掛けてきた第三皇子への怒りは抑えられない。
ある日、サイアムは第三皇子の前へ立った。隣にハリエットがいるが、今は関係ない。
「殿下、あなたは我が帝国で最も高貴な身分にある方。下々の者への責任を忘れなされるな」
第三皇子は、それはそれは怒り狂った。
「き、きさま。不敬であるぞ。即刻その首叩っ斬ってくれる!」
「殿下にはそんな権利はございません。皇帝陛下の領分を侵すおつもりか」
まだまだ騒いでいたが、従者達が必死で止めて、どこかへ引き摺っていった。
ハリエットは久々に感情を見せ、咎めるような目でサイアムを睨みつけた。
「……君は幸せかい?」
正直に言って、第三皇子と結婚する先の未来が、ハリエットの幸せとは思えない。
ハリエットは何も言わず、第三皇子を追いかけて行った。
家に帰って父に報告したら、苦笑いしていた。正直めちゃくちゃ怒られると思っていたので、少し意外だった。母は優しく抱きしめてくれた。
それからまた何日かがたち、皇帝が主催する夜会が開かれた。
サイアムは家族で参加した。皇帝に挨拶してさぁこれから皇太子の元へ、という時。
第三皇子がわざわざハリエットを連れてやってきた。
本来はこちらから挨拶に向かうものであり、友好を示すのであれば栄誉なことだが、今日は間違いなくそういう目的ではない。となると夜会の作法としては非常に良くない振る舞いであり、恐らく後で教育係に小言を言われるだろう。それなのにやらかしてしまうのが、この第三皇子なのだ。
「やぁ、シュトラルオール卿」
「これは第三皇子殿下。先日は息子が失礼をいたしました。どうか寛大な御心でご容赦くださいませ」
「ふん、次はないぞ。愚かな息子はきちんと躾けておけ」
父と母はそれには答えず、ただ黙って礼をした。
第三皇子はもう一度ふん、と鼻息を荒くして踵を返した。
ハリエットはサイアムの両親に向かって深く頭を下げた。そういえば、婚約を解消して以来、初めて顔を合わせたのかもしれない。
ふと、ハリエットの後ろからミルトレイリアが歩いてくるのが見えた。グランテニア卿はいない。一人で参加するわけはないから、わざわざ挨拶に来てくれたのだろうか。
ミルトレイリアはハリエットを一瞥するも、素通りしてサイアムたちに声を掛けた。
「ご機嫌よう、シュトラルオールの皆さま」
「お久しぶりですね、ミルトレイリアさん。とってもお綺麗になって」
「ありがとうございます。夫人のような淑女を目指して頑張っておりますわ」
「おお、それは光栄だね。我が妻は帝国でも一際輝く女性だから」
「閣下もお若い頃、たくさんの女性に秋波を送られたと聞き及んでおりますわ。……ところで」
ミルトレイリアは、まだ去っていなかったハリエットをチラリと見た。
「サイアム様の婚約者、まだお決まりになっていないのなら、わたくしのことを候補に入れていただけませんこと?」
ハリエットがミルトレイリアを見た。何か、目の奥にめらめらと燃えるものが見えた気がした。
「あら、ハリエット様。どうしましたの?婚約を解消して、いまや映えある次期皇子妃となったあなたには関係ないのでは?」
「……そうですね。では、失礼いたします」
そこへ第三皇子がまたやってきた。いつのまにかついてきていなかったハリエットを探してきたのだろう。
その時、ミルトレイリアはよく通る声で言った。
「ああ、ハリエット様。その首飾り、次期皇子妃の身には相応しいと言えませんわよ」
サイアムはその時やっと気付いた。それは十二歳の誕生日にサイアムが贈った、あの首飾りだった。全身を第三皇子の色に染められつつ、それだけはサイアムの色だった。
「む、なんだその安物は。私の婚約者として相応しいものを贈ったであろう」
第三皇子は首飾りに手を伸ばした。首飾りを外そうというのだろうか。しかし、正面から手を伸ばしている。まさか引きちぎるつもりか。
次の瞬間、ハリエットは突然叫んだ。
「いやああああああ!!!!!」
突然の絶叫に、会場内は騒然となる。サイアムも両親も呆然としていた。ミルトレイリアだけは、冷めた目でそれを見ていた。
「これだけは!これだけはお許しを!」
ハリエットの目からは大粒の涙が溢れ出した。サイアムは、こんな時でもただ、その涙を美しいと思って眺めていた。
「これだけは取り上げないで!」
「お願いします!お願いします!貴方を愛しますから!ちゃんと愛しますから!」
不穏な絶叫に、ますます会場内の騒めきは大きくなる。第三皇子は顔を真っ青にして止めようとした。
「お、おい。何を。やめろ。やめるんだ!」
ハリエットはそれを無視した。泣き叫びながら第三皇子に縋り付く。
「シュトラルオールにも何もしないでください!」
「わたくしの一生を貴方に捧げますので!どうか!」
「これ以上ひどいことしないで!」
「わたくしはどうなってもいいのです!」
「許してください。貴方を愛しますから!」
もはや会場中の注目を集め、第三皇子はおろおろしている。嘘だ、とか私は何も、とかなんとかぶつぶつ言っているが、シュトラルオールが最近急激に財政を悪化させていることは、社交界では知られているし、第三皇子の関与があるらしいことも耳ざとい者は気付いている。
皇族の悪口になるので表立っては誰も言わないが、ただ疑惑が確証に変わっただけである。
即ち、第三皇子は皇族の権力を使いハリエットを無理矢理おのれのものとし、さらにはその元婚約者の家にまで圧力を掛けていることが。
結局、皇帝陛下がやってきて場を収め、リッドルフォーの夫妻がハリエットを連れて帰り、その場は終わった。
しかし、第三皇子の評判は地に落ちただろう。リッドルフォーやシュトラルオールは被害者として見られるだろうが、ハリエットは婚約を解消されるとみて間違いない。
帰り際、ミルトレイリアはいつもの三倍冷たい目で言った。
「いい加減、素直になりなさい。見てていらいらするのよね。男でしょ」
そして、何事かを耳打ちして去って行った。
夜会から二日。ハリエットは朝早く、自宅の前に立っていた。慣れ親しんだ我が家を、心に刻み込むように見上げる。
第三皇子の横暴が暴かれ、流石に皇帝陛下も庇いきれないと判断したらしい。リッドルフォーにお咎めはなかった。ここで罰すれば、皇族への不信が見過ごせないものになってしまう。
ハリエットはほんの少し大げさに言ったが、実際に要求されていたので、どれも嘘ではない。
第三皇子は幽閉か、どこか遠くの国に婿に出されるか。分からないが、恐らくもう、あまりいい将来の選択肢はない。
だが、醜聞に塗れたハリエットも、もう社交界に居場所はない。家に迷惑も掛けたくないし、ほとぼりが冷めてから、第三皇子にまた絡まれても困る。
ハリエットは修道院へ行くつもりだった。自分の手持ちの宝飾品を持ち込んで、なるべく戒律の緩いところで、慎ましく穏やかに生きていく。
両親には何も言っていない。ハリエットを愛してくれている両親にもし話したら、絶対に許してもらえないから。
このまま家にいれば、なんだかんだ十剣家の姫である自分は結婚にも困らないだろう。十剣家の中では質素な暮らしとはいえ、最近は財政も持ち直したし、何不自由ない暮らしを保証されているだろう。
けれど、それでも。
ハリエットはもう社交界にいたくなかった。
だって、サイアムに婚約者ができてしまう。ミルトレイリアならきっとお似合いだろう。サイアムが幸せになってくれるならそれでいいけれど、絶対に見たくはなかった。
サイアムが自分以外の誰かと結婚する姿も、誰かとの間に子供をもうけて笑い合ってる姿も、絶対に見たくはなかった。
「……さようなら。サイアム様」
ハリエットがまず向かったのは、グランテニア邸だった。
なにしろハリエットは深窓の姫君である。どうやって修道院に行けばいいのかも分からないし、換金の仕方も分からない。
「だからって、何でもわたくしに頼らない!」
「だって、サイアム様には頼れないから」
「頼ればいいのよ。だいたい、何で自分を犠牲にするのよ」
「だって、そうしないと迷惑掛けちゃうし」
「掛ければいいのよ。少しは苦労させなさい」
「だって……」
「だってだってうるさい!」
この頃学園で見せていた女帝の姿はそこにはなく、昔のままの、少し年齢より幼い少女の姿があった。
ミルトレイリアも、学園で見せる冷淡な顔ではなく、年相応に表情を豊かに変えている。
口うるさくしつつも、ミルトレイリアはグランテニアの魔道車で修道院まで送る手配と、宝飾品を換金する手配を済ませてくれた。
「明日の午後に商会が来るから、移動は明後日ね」
「うん。ありがとう、ミィ」
「それがあの阿呆へくれてやる期限でもあるわ」
「え?」
「なんでもないわ。今日は一緒に寝ましょうね」
しかし、その日の昼過ぎにはグランテニアに来客があった。
「姫様、シュトラルオールのご子息がお見えでございますが、いかが致しましょう」
「サイアム様が!?」
「あら、早かったわね」
「!?ミィ、わたしを売ったの!?」
「人聞きの悪い。わたくしは何も言ってないわ。あなたの逃亡計画については」
「じゃあ何を!?」
「いいから、話してきなさい」
「……だめ。決心が揺らいじゃう」
「……いい?ハッティ」
ミルトレイリアはハリエットの両肩を掴み、真っ直ぐに見つめて言った。
「今話さないときっと後悔するわ。最後にちゃんとお別れをしないと」
ミルトレイリアの目には、真摯なひたむきさがあった。この親友は、本当にハリエットを思って言ってくれている。
それで、ハリエットは結局、サイアムと会うことにした。
「こうして二人で話すのは、随分と久しぶりだね。婚約解消を提案された、あの日以来かな?」
グランテニア邸の外庭で、向かい合って座って開口一番、サイアムはそう言った。
「……そうだね」
「……別に、シュトラルオールが本気を出せば、第三皇子の横暴なんて突っぱねられたのに」
「でも、おじさまやおばさまにも、サイアム様にも、ご迷惑をかけたわ」
「……最初は本当に地位とかお金に目が眩んだのか、それともああいう俺様系のクズが好きなのか、悩んだよ」
「……どれもぜんぜん興味ない」
「そうだよね。すぐに分かった。だから、ハリエットに何か目的があるのか、それかリッドルフォーが何か弱みを握られてるんじゃないかと思ってたよ」
「え?どうして?」
「君が大人しくあいつの言うことを聞いていたからさ。何かあるなら下手に潰すわけにいかないと思って、父も様子見してくれていたみたいだ」
「……おじさまが」
「本当は、圧力掛けてきた瞬間に叩き潰せたらしいよ、あんなやつ」
皇族とはいえ、出来の悪い第三皇子くらい、どうとでも料理できるよ。と父は笑っていた。
「そうだったの……」
「一言相談してくれたら、私から父に話したのに。……いや、私が頼らないからだな。実際、家に迷惑が掛かっても何もできず、君がやつに奪われても何もできなかった。私はまだまだ子供なんだって、実感したよ」
「……わたしも、一人で抱え込んでしまって。そうだね、子供だったんだ、わたし」
「まぁ、まだまだこれからってことさ。さぁ、家に帰ろう」
「……ううん、それはだめ」
「どうして?」
「だってわたし、もう社交界に居場所ないよ。皇族にも目を付けられちゃったし、家にもシュトラルオールのご夫妻にも迷惑掛けちゃった」
「誰も気にしないよ」
「もう婚約も解消しちゃったし」
「また結び直せばいいさ」
「サイアム様には、ミルトレイリアの方が似合ってるし」
「やめてくれ。彼女のような女傑は私の手に負えない。というか、仲良かったんだね、ふたり。知らなかったよ」
「ガルハイド殿下に言い寄られ始めてから、色々相談してるうちに」
「ミィとハッティ、ね」
「ミィは本当にすてき。なんでもできるし、気高くて。だからサイアム様のこともきっと、幸せにしてくれる」
「とても素敵な女性だと思うよ。けど、私に必要なのは君なんだ」
ハリエットの顔が淡く色づき、赤く染まる。
「色々言われるよ?」
「どうでもいいさ。君が嫌なら、夜会なんて出なくていいし」
「サイアム様はわたしに甘い」
サイアムはふっと笑った。
「ああ、私は君にとても甘いし、そして君に弱いんだ」
そしてもう一度、手を差し出す。
「さぁ、帰ろう?」
「……うん」
騒がしい二人は、収まるべきところに収まった。
皇帝にはグランテニアからも意見を具申する予定だ。あのクソ皇子が、二度と自分たちの目に入らないように。
仲良く手を繋ぎ、魔道車に乗り込み去っていく二人を手を振って見送り、ミルトレイリアは切なげに微笑んだ。
(ふん、これでいいのよ。全く、わたくしよりハッティを選ぶなんて、見る目のない男。……そりゃー素直でいい子だけど)
先ほどのハリエットの、完全に気を許し、全てを委ね切った安らかな顔。
それを見つめる、サイアムの熱い眼差し。
(……仕方がないわ。わたくし、ハッティのことも大好きだもの)
いつからだっただろうか、あんな風に愛されたらどんなに素敵か夢想するようになったのは。
きっとサイアムは、今回ハリエットの決断を尊重したことを後悔し、今後はあらゆるものから愛するひとを守る為に戦うだろう。
(入り込む隙もない。全く、争う気にもならないわ)
ミルトレイリアは淡い初恋に蓋をして、身を翻した。
これから、帝国随一の高貴な姫の争奪戦が始まるだろう。グランテニアの為、帝国の為、皇帝の為、ミルトレイリアは完璧な紳士を伴侶にしなければならない。
家に帰ったハリエットは、両親に泣かれ弟に泣かれ侍女に泣かれ、とにかく怒られまくった。
シュトラルオールから婚約の打診が来たのは、その翌日のことだった。
サイアムは花束を手に自らやってきて、ハリエットの前に跪いた。
「忘れないでほしい。私は君の幸せを願っている。そして気付いたんだ。その幸せは私とともにあってほしいと。もう二度と離してはあげられない。私と生涯を誓い合ってくれますか?」
もちろん、ハリエットの返事は決まっていた。




