「夏の虫と、自由な研究」
八月後半、夜明け前の空がほんのりと赤く染まり始めていた。
小崎正則はコーヒーを片手にひと息ついていた。あと2時間ほどで夜勤も終了という時間。店内は涼しく静かで、蝉の鳴き声が遠くで聞こえ始めていた。
「もうすぐ夜明けだな……」
そんなとき、ガラガラッと店の自動ドアが開いた。
「おはようございます!」
元気な声とともに、小学校低学年くらいの男の子と、その父親らしき男性が入ってきた。
「すみません、飲み物とお菓子を買わせてもらいます」
男の子は虫取り網を握りしめ、目をきらきらと輝かせて小崎に聞く。
「……あの、カブトムシって、この辺りにいますか?」
小崎は少し驚きながら笑った。
「うん、このあたりは昔から虫が多いよ。クワガタやカブトムシもよく見かけたよ」
「ほんと!?」
男の子が網を振り回してはしゃぐ。
「実は自由研究で虫の標本を作る予定でして……」
父親は少し申し訳なさそうに言った。
「でも、私が虫取りの経験があまりなくて……トンボやバッタでもいいかなと思って」
「いやいや、せっかくなら、クワガタやカブトムシに挑戦してみませんか?」
小崎は裏からメモ帳を取り出し、手早く地図を書き始めた。
「この土手の上、ほらここ。このクヌギの木の根本、穴をほじるとクワガタが出ることが多いんです」
「へぇー!」
「あと、こっちの道沿いにある木……お父さんが思いっきり足で蹴飛ばしてみてください。寝てるクワガタがポトンって落ちてくるかも」
父親が苦笑しながら頷く。
「この木の陰には、カブトムシがついてたこともあるし、運が良ければ“カメノコテントウ”っていう珍しいテントウムシもいるかも」
「カメノコテントウ!?そんなのもいるの!?」
「それから、最後にここ。児童館の裏の電灯の下。虫が夜に集まる場所なんだけど、明け方にその下の土を掘ると……大物がいるかもしれない」
「……うわぁ、楽しみだね!」
小崎の話を聞く間、子どもは興奮して何度もうなずき、父親も感心したように手渡されたメモを見ている。
「ありがとうございます、助かります!」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
元気よく出ていく親子を見送りながら、小崎はコーヒーを飲み干し、店内をゆっくり掃除し始めた。
——そして、1時間と少し後。
再びコンビニのドアが開き、さっきの親子が戻ってきた。
「お兄さんー! 見てください!」
男の子は両手で抱えるように虫かごを差し出した。
中にはクワガタが2匹、カブトムシが3匹。そして、端の方には丸い形のカメノコテントウもいた。
「すごいな……これは見事だ」
「電灯の下の土掘ったら、ミヤマクワガタの大きいやつが出てきたんですよ!」
「パパが指挟まれて、うわーってなってて!」
父親が苦笑しながら、指を見せる。
「でも……子どもが“こんなに元気に生きてる虫を殺すのはかわいそう”って言って……標本にするの、やめたんです」
「うん!」
男の子が頷く。
「虫たちを飼って、土とか木とか入れて、自由研究の作品にするんだ! 写真とか観察日記とかも書く!」
「そっちのほうが、きっといい思い出になると思うよ」
小崎はやさしく微笑んだ。
「……ありがとね、お兄さん」
「こちらこそ、報告してくれてうれしいよ」
親子は笑顔でコンビニをあとにした。
——頑張れ、小崎くん。
君が描いた手書きの地図が、この夏の宝物になったんだ。