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人斬り無迅シリーズ

人斬り無迅と悪霊の影

作者: 田中一義

 世の中というのは、とても見通しの立てられるものではない。

 万が一にも有り得ないものの例えに天地がひっくり返っても、という文句があることをリオ少年は何となく知っている。天地がひっくり返るとはどういうことかという疑問がないわけではないが、それはともかくとして。少年は、万が一ならばそんなこともあるのではなかろうかと今ならば考えられる。

 何たって、世の中に幽霊がいたのだ。呪われた刀があり、そこに悪霊が取り憑いていた。

 かと思えば妖刀から大きな大きな鬼のような甲冑姿の化け物が出てきたこともあった。

 さらには折れず、曲がらず、鈍らずという嘘みたいな刀が、激闘のせいで取り憑いていた悪霊もろとも折れ砕けてしまった。

 ついでにその死闘のせいで右腕切断という憂き目に遭ったはずなのに、それが生えてしまうということまで経験してしまった。


 世の中というのは、とても見通しの立てられるものではない。


 ▽


「お師様っ、どれほど探したと……! こんなところでのうのうと!」

「そら、見つけられん方が悪いだけだろうて。わしゃ、こんなとこにおったっちゅうにのう」

「何を仰りますか、聞けばリオ殿に意味深な上にどういうことか、意味も分からぬ話をしたそうですね! ついでに拙者へ顔を見せれば良いだけというのに、どうしてそうされなかったのです!」

「知らんわい」

「ご存じないはずがないでしょうに!」

 小川の上へ架けられていたささやかな橋の上で釣り糸を垂らす老人の姿が見えたと思ったら、緋天が血相を変えて駆け寄るなり唾を飛ばす勢いで捲し立てる。

 そこへようやくリオは追いついた。

 背中には拾い物の太刀を背負っていて、それが重いし歩く度に足へ当たって地味な痛みもあった。そのせいでずっと緋天に遅れて歩いてきた。

「おお、久しいのう、坊主」

「お師様、先ほどご存じないと仰られたばかりではありませんか!」

「忘れたわい」

「痴呆ですか、痴呆が進みましたか!」

「バカもん、弟子の分際で師に対して痴呆などとどういう了見だ!」

「失礼いたしました、お師様」

「切り替えすごい……」

 息巻いていたのが叱られてすぐ、頭を垂れる変わり身の早さにリオは目を大きくする。

 普段から緋天がこぼす師・蒼莱への愚痴を聞いてきただけに、こうもすぐ態度を変えるのは軽い驚きである。

「さて……それで? 危うい小僧っ子を友達にしてどういうつもりだ?」

「僕のこと……?」

「リオ殿に拙者の刀を壊されてしまいましたが、持ち合わせがないということですので別のことで穴埋めを、と。彼も承知くださいました」

「ほーん……ま、いいか」

「して、どちらへ参られます?」

「ぼちぼち、一度、帰ろうかと思うてのう」

「では宍浦(ししうら)へ? ここからですと……十矢(とおや)へ寄りませぬか、お師様? 拙者も刀を新調したいですし、リオ殿もずっと刀を打ち直したいと」

「十矢か……。うむ、良かろう」

「では十矢を経由し、宍浦へ参りましょう。リオ殿、十矢というのは天子様の治むる地上にて一番の鋼の産地でして、刀匠も多くいらっしゃる地なのです」

「へえ……」

「さらに十矢湾という豊かな海を擁し、海運も盛んでして、各地から物が集まるのです。豊かな良い町ですよ。きっとリオ殿の刀を蘇らせることもできるでしょう」

「へえ……ご飯はおいしい?」

「んむ、十矢の海は滋養が豊富でのう。山もそう遠くないでな。山海の幸をいくらでも食べられるのだ。特に貝はうまいのう」

「……貝、苦手……」

「好き嫌いをするとは情けない。リオ殿、背が伸びませんよ」

「緋天は好き嫌いしてる?」

「いいえ、何でも食べます」

「背、変わらないから説得力がないよ」

「……背の伸びは、それぞれ、異なるものですから……」

「何を言い負かされとるんだ、くだらん。ほれ、片付けをせい。行くぞ」

「はい、お師様っ!」

 竿をその場で置いて蒼莱が立ち上がると、緋天がせかせかと片付けをする。釣果なしの釣りの片付けはすぐ終わり、緋天が蒼莱を追いかけて小走りになったのでリオもそれについていった。

 貝が名物というのはいただけないが、豊かな良いところらしいというのはリオには嬉しい話だった。

 そして刀も直せるかも知れないという。

 前にいきなり説教めいた話をされ、そのまま勝手に去った蒼莱には一抹の不安もあったがリオは十矢を楽しみに歩いた。


 ▽


 豊かな海の幸。

 鋼を採れる山もあり、そこでは山の幸もまた採れる。

 穏やかな湾内の海は眺めるだけで心を洗われるような風光明媚な光景でもある。

 きらきらと海面は陽光を反射しながら揺らぎ動いている。

 そんな心洗われる自然に溢れる豊かな海に面した街こそが十矢という。


「さて、馴染みの宿にでも厄介となるか。緋天、覚えておるな」

「はい、お師様。松華屋でしたね。では先に走ってお伝えして参りますので、お師様はごゆるりとリオ殿とお越しください」

「うむ、それでいい」

「ではしばし失礼いたします」

 街中へ入るなり、緋天は使い走りに出てしまい、リオは蒼莱と2人にされた。

 場所の分かっている蒼莱はペースを変えずに歩き続け、リオはその横へついて何となく気まずい思いをしながらついていく。

「む……?」

「……ど、どうかしたんですか?」

 不意に足を止めた蒼莱にリオも止まると、老人の視線の先には団子屋。

 おもむろに蒼莱が団子屋の軒下へ出されていた縁台へ腰掛けると、狭い団子屋の中からまだ若そうな女が出てくる。

「いらっしゃいませ」

「団子をくれんかの。おい、お前は何本だ」

「えっ……じゃ、じゃあ、2本」

「うむ、団子4本だ」

「はい、ありがとうございます。お茶もお持ちしますね」

「……年頃は19か、20か。奥にいる親父の一人娘、母親の姿が見えんから父子でこの団子屋をやっておるのかのう」

「……お師様って、ほんとに女の人が好きなんですね……」

「んむ。緋天めはまぁーだ女子(おなご)の何たるかも分からん尻の青い小僧そのものだが……お主はどうかのう?」

 蒼莱の匂わせ方はリオに分かりやすく伝わった。曰く、緋天はガキンチョだから女の良さが分からないのだ、という主張であると。これに同調すれば蒼莱と一緒になって緋天は子どもだよね、と一段上へ立てるような優越感を得られるかも知れない。が、同調するということは女好きを公言するのと同義のようなもので、思春期真っ盛りのリオは何だか恥ずかしくて同調しづらくてたまらない。

「……はあ、やーれやれ、これだから小僧っ子は」

「あう……」

「お待ちどうさまです。お団子とお茶、どうぞ」

「うむ」

「あ、ありがとうございます……」

 先ほどの団子屋の娘が2人の座る縁台へ団子を乗せた皿と湯呑みを置く。

「旅歩きをしておってのう。前に十矢を歩いた頃はここへ団子屋などなかったと思うが新しいのかの?」

「ええ、去年にこちらへ店を出させて頂きまして。それまでは外れの方で屋台でやっていたんです」

「ほう、それはそれは。しかし……うむ、この味ならばそれも納得だのう。ところでお嬢さんや、名前は何と?」

「さとと申します」

「おさとちゃんか。うむ、良い名だのう。奥におるのはお父ちゃんかの?」

「はい。昔は母と団子を売っていたんですがわたしが小さい時、病で……。それきりずっと父と2人なんです。だからわたしも小さい頃からお団子をこうして売っていたんですよ」

「それはそれは孝行娘を持ってお父ちゃんもお幸せなことだのう。しばらく十矢へ逗留するつもりでの。また来るとしよう」

「まあ、ありがとうございます。よろしければお名前を」

「名乗るほどのものではないが……たまに全先生などと呼ぶ者もおるのう」

「まあ、ではとても偉い方なのでは?」

「それほどでもないわい」

「もしかして、じゃあこちらの子は全先生の教え子さんですか?」

「えっ?」

「うむ、まあそんなもんだのう。まぁーったく、困ったもんだわい。団子が食いたいなどと駄々をこねよってからに。仕方なしに立ち寄ったのだがまだまだ子どもで手がかかってのう、やれやれ……」

「ええ……?」

「ふふ、全先生、とってもおやさしいのですね」

「まあのう、はっはっは」

「……ご馳走さまでした」

 完璧にダシにされたと知って無言で団子を食べていたリオは串を皿に置いてお茶をすすった。

 そうしてしばらく蒼莱はさととお喋りを楽しみ、残っていた団子2本もリオを欲しがりさんに仕立てて食べさせ、話の種にする。そうしてたっぷり時間を潰していたら緋天がやって来てようやく団子屋を離れることになった。


「まったく、お師様の女好きときたら……。間もなくいらっしゃると女将に伝えたのにさっぱり来ないもので探しに行けばあれです。宿へ来れば来るで今度は中居に鼻の下を伸ばして。困ったものですよ、本当に。リオ殿もそう思われませんか?」

「一緒にいると緋天がいつも大変なんだろうなって思える……」

「そうでしょうとも」

 夜も更けてきた頃、ようやく緋天は蒼莱の世話から解放をされていた。

 そこで宿の風呂へリオを誘って、旅の垢を落として入浴をしている。5、6人は一度に入れそうな広めの浴槽のため2人で入浴していても広々としている。

「そういえば……何か、団子屋の人に、全先生とか名乗ってたけど」

「お師様のいくつかあるお名前の1つですね。蒼莱と名乗ってしまうと八天将と知られ、無用な気遣いをさせかねないというご配慮なのですが、裏を返せばそういう風聞を八天将という名につかせないためのせこい手段とも言えます」

「それにしたって、先生って……」

「お師様は好色痴呆ジジイにしか見えませんが、あれでも八天将ですので先生という尊称もかえって謙遜をしているようなものなのです。八天将の蒼莱様といえば史上最年少で任ぜられ、いまだに現役という記録の上での偉業の他、数多くの妖魔退治の逸話、法術の心得もあり、神器についても精通しておられるのです。さらには宍浦という都に屋敷を持たれていますが、八天将となられる前はただの僻地でしかなかったのですが地上でも有数の土地にしてしまわれました。若い頃より武勇に誉高く、また(まつりごと)にさえ慧眼(けいがん)を発揮される。人をだまくらかす古狸そのもののような御仁なのです」

「……そんなに、すごいの? 武勇? あのおじいちゃんが……?」

「ええ、今はもうすぐに拙者を使いますが、拙者に剣術をご指南下さったのもお師様なのです。なかなかそのような機会はないのでしょうが、その気になられれば大抵の脅威など吹いて飛ばすかのように払い除けられることでしょう」

「まったくそうは見えない……」

「仰る通り。困った御方なのです……」

 深々と緋天がため息を漏らし、リオは蒼莱がバッタバッタと人を切り倒していく様子を想像してみた。しかしどうしたって現実的には思えず、深々と首を傾げていってしまった。


 風呂を上がってリオは宿の部屋に戻った。

 蒼莱の一人部屋と、リオと緋天の相部屋で都合2部屋を取っている。蒼莱は酒と食事を嗜んで、風呂で緋天に背を洗わせて入浴を済ませるとすぐに床へついてしまっている。それでも緋天は風呂上がりに蒼莱の部屋へ行って、御用聞きをする。蒼莱へのリスペクトがあるのかないのか、リオは何となく分からなくなっている。が、きっと、尊敬の念とともに日頃の態度への不満が緋天の中で不思議と同居できているのであろうという結論に至りかけていた。

「師匠と弟子、かあ……」

 緋天が隣室で蒼莱と何か短く言葉を交わしているらしいという声を聞きつつ、リオはひとりごちる。

『今から俺を師匠と呼べ。それがてめえの変わる第一歩だ』

 いつか悪霊・無迅に言われたことを思い出し、リオは小さく薄く、苦笑する。

 無茶苦茶のすぎる悪霊で、結局いなくなってしまってからその存在の大きさに改めて気づかされてしまった。一度も師匠だなんて呼ぶことはなかったが、いつしか無迅の剣が体に染みついたかのように身についてしまっていた。

 ちゃんと師匠だと認めるのだとしたら、この短期間で随分と本当に自分は変わってしまった。その手腕は――あるいはすごい師匠だったのかも知れないと思えた。


 ▽


 宗吉といえば十矢でその名を知らぬ刀鍛治の名工である。無論、地上で随一の刀鍛治を始めとした鍛治の街として知られる地にてその名声なのだから、宗吉という名はこの日の本で最高の鍛冶屋として名高いこととなる。

「蒼莱殿のお弟子……緋天と言いましたかな。あなたの刀を打ち直すのは問題なかろう。だが……この砕けた刀を直せというのは無茶極まる」

「えっ」

 緋天とともに宗吉の工房を訪ねたリオは澄水(ちょうすい)の残骸を見せて打ち直してほしいとお願いをしたところ、そんなことを言われてしまう。

「そもそも刀は鋼を叩いて鍛えるもんだ。これをどろどろに溶かすまでは良い、それを叩けっちゅうなら叩けないことはない。が、一度溶かした時点でもうそりゃ質の悪い鋼となる。そんなもんにお前さんは命を預けられるのかい? ただの置き物として刀を打てということなら別の鍛冶屋に頼むことだな」

「……そ、んな」

 ちらりとリオは傍らで同じように話を聞いていた緋天を見る。

 視線を受けて緋天は渋い顔をした。

「宗吉様、どうか、拙者の刀をお願いいたします」

「ちょっと!? 僕の澄水……」

「まあ、リオ殿には蛇の目の衆が持っていた大太刀が今はあるではないですか。何か別の方法でいつかどうにかなるやも知れませぬ」

「ええええ……?」

「あ、宗吉殿、こちらの大太刀、研ぎのみお願いしてもよろしいでしょうか?」

「研ぎなら研ぎ屋へ持っていけ。わしは自分で打った刀しか研ぎもやらんし(こしらえ)も作らん」

「左様ですか。どこか、腕の良い研ぎ師をご紹介いただけないでしょうか?」

「そんなら三つ向こうの通りに、まだ若いが鉄三というのがおる。まだ駆け出しだから安く請け負うが、腕は悪くないが」

「それは有難い。リオ殿、三つ向こうだそうです」

「ええ……?」

 しっかり者に見えて、あの師だからかちゃっかりしたところがちらほら緋天から見て取れる。

 まさにその典型的なちゃっかりを目の当たりにした気がしてリオはまた眉根を寄せてしまった。


 はっきりと打ち直せないと言われてしまい、意気消沈してリオは紹介された鉄三という男のところへは行けなかった。

 緋天との旅の道中でちゃっかり手に入れた大太刀は長いし重いので、腰にはとても佩くことができない。そのため鞘にある紐で斜めがけにして背負うように持ち歩いていた。恐らくこれも神器であろう、ということは分かっているのだがその効力も知らないし、使ったのはただ一度だけでもある。長くて重いお荷物という程度でしかないので、これの研ぎ直しなど緋天に勧められても気乗りがしなかった。

 とぼとぼと十矢の街をリオは肩を落としながら歩く。

 澄水は大切な刀だった。

 厳密にこれが神器というものかさえ疑いを持つほど特別視をしている。

 そも――リオは神器などという不思議道具などはない、科学技術が発達して、幽霊も妖怪もただのフィクションでしかないまともな西暦2000年代の日本に生まれたのだ。それが虐めっ子に命令されて神社に奉納されていた澄水を盗まされることとなり、それをちょっと抜いたら、この物騒でろくに文明も発達していないような日の本にいた。

 洋装は一切なし。

 アスファルトもなし。

 自動車なんて夢のまた夢。

 洋式トイレも、ましてウォシュレットも、有り得ない。

 醤油がなければソースもない、揚げ物なんてなかなかお目にかかれない超高級品。

 電気のでの字さえ見つけられない、リオの知る時代からはずっとかけ離れた文明で、しかも気候やら文化やらに似通ったところはあっても地名はいちいち謎だらけ。まして雲がかかりそうなほど高くて、それでいて都が築かれるほど頂上が平坦でとんでもなく広い台地のような、山のようなところが首都らしいという意味不明さでもある。

 恐らく異世界、異なる日本というのが今リオのいる場所である。

 そうなると澄水は元の世界から持ち込んだものであるため、この異世界にある神器という道具と似た力があっても別のものなのではないかという考えが自然と浮かんでくるのだ。仮に澄水もこの異なる日本の神器というものだったら、どうしてリオが生まれ育った現代日本にあったのかが分からなくなってしまう。

「……ううん」

 丁寧に布で包んで懐へしまっている澄水を着物の上から撫でてリオは小さく唸る。

 直せると思っていたのにあっさり宗吉に拒否されてしまったが、直せるという希望がなかった時から、もしもという希望を持って回収をしていた。だがその希望に肩透かしを食らったようで釈然としない。

『刀なんざァ、折れず、曲がらず、欠けず、鈍らず、それだけでいいんだよ』

 かつて無迅の言っていたことを思い出す。それは間違いなく澄水のことで、刀のことなど何もわかっていなかったリオはもっと派手な力を持つ神器の刀みたいなものの方がいいのではないかとも思っていた。しかし別の刀を何度か使ってみてから、初めて澄水がすごかったのだと分かった。どんな扱いをしても刃毀れどころか、切れ味が落ちるということがなかった。常に美しく、常に切れ味を保っていた。

 しかしそれも砕けてしまい、それとともに無迅が消えた。

 成仏したとはあまりリオには思えていない。ただいなくなったという感覚だった。

 澄水は悪霊と化した無迅が依代にしていた刀で、その刀が砕けてしまったから消えてしまった。

 もし、澄水が元の形に戻ったら、あの悪霊も一緒に復活するのではないかと淡い期待を抱いている。が、たまにやっぱり澄水が戻っても無迅はいないままでもいいのではないかとも思えてくる。何せ、悪霊そのものなのだから。


 取り留めのないことを考えながらリオは宛てもなく十矢の街を歩く。

 と、不意に踏み締められた茶色の地面に落としていた視界にちらりちらりと動くものを見て我に返った。顔を上げるとそこに昨日見た女性がいた。

「あっ……」

「全先生の教え子さんですよね。どうかされたんですか?」

 どうやら声をかけられていたらしいがまったく気がついていなかった。

「え、えっと……」

「さとです。今日は全先生とはご一緒ではないのですか?」

「あ、はい……」

「良かったらお団子どうですか?」

「……持ち合わせが」

「今度また全先生といらっしゃってくだされば大丈夫ですよ。さ、どうぞ」

 呼び込まれるままリオは縁台へ座らされてしまい、すぐに団子と茶が出されてしまう。路銀については困っている様子もないことと、昨日のデレデレした様子からここへまた蒼莱を連れてくるのは難しくないだろうということにして、リオは出された団子を手にする。竹串に小さめの団子が5つ刺されていて、味はほとんどない。食感もぼそぼそしたところが多い。頑張って、かろうじて素朴な甘さがあるのだろうかと味わえる程度で、リオからするとそうおいしくはないというのが正直な感想だった。

「何だか落ち込んだ様子で歩いていたので気になってしまって。どうかしたんですか?」

「え、あ……はい、ちょっと……」

 団子を見つめ、一口も食べずにいたらさとに喋りかけられてリオはそんなにしょげて見えたのだろうかと少し思い直す。

「全先生に叱られてしまったとか……?」

「そういうわけじゃ……。ただ、十矢なら直せるかもって思ってたものが、やっぱり直せないって分かったので、ちょっとがっくり」

「そうですか……。大切なものですか?」

「はい……」

 着物の上からまた澄水の破片を撫でてリオは団子を一口食べる。やっぱりそうおいしいものではない。一玉食べ、お茶で流し込んでリオは肩を落とす。と、その背をさとが軽く叩いた。

「そんなに落ち込んでいたらいけませんよ。大事なものならそれこそ諦めたらいけません」

「おさとさん……。そう、ですよね」

「ええ、だからお団子食べて元気出してください。……ところで、今さらで申し訳ないんですけどあなたのお名前は?」

「あっ……リオです」

「リオさん。……ううん、リオくん。……うーん、リオちゃん……? リオちゃんですね」

「ちゃん、なんですね……」

 年上の女性にはどうしてかそう呼ばれる傾向にあるんだろうかとリオは首を捻りかけた。

 年の割に背も低ければ、体も細く、輪をかけるように童顔でもある。そういうところが理由だろうということにしておく。だから何だということでもあるが男としては、何だか侮られているようであんまり嬉しくはなかった。

 しかし当然ながら、そういう侮辱的な意味合いはなくさとは呼んでくる。そしていつの間にか他愛のないお喋りをしている。

 客が増えてきた頃に邪魔にならないよう帰ろうという頃にはリオはさととの大した意味ないお喋りで気が晴れていた。

「また来てくださいね。全先生もお連れになってください」

「はい……ありがとうございました。また来ます」

 軽く、小さく、手を振って団子屋を後にしてリオは宿へ帰った。

 さとに対して、いい人だというしみじみ感想を抱きながら。


 そして翌日、暇だと蒼莱が緋天に言ったのを聞き、リオは団子屋へ誘ってみた。

「おお、あのおさとちゃんのところか。良い、良い、そういう答えを待っておったというのに、緋天、精進せい」

「左様でございましたか。至らぬ点へのご指摘いただき有り難く存じます。リオ殿、お師様をどうぞよろしくお願いします」

「あ、はい」

「ほれ、ついて参れ、小僧。おさとちゃんが待っとるぞ」

「あ、はい」

「……念のため、リオ殿。もし、面倒になりましたら拙者、宗吉殿のところへいますのでお呼びに来てください」

「そうなったら、そうする……」

 声をかけてみたものの、早速先行きが不安になっているリオである。

 そんな不安を露ほど知らずに蒼莱はうきうきで団子屋へ行き、またリオにせがまれたという名目を聞かれていないのにでっち上げて縁台へ腰掛ける。

「リオちゃんでなくて、わたしなんですよ、全先生」

「んむ? そりゃどういうことかの?」

「昨日、リオちゃんがとぼとぼ歩いてらっしゃって、気になって声をかけたんです。それで持ち合わせがないからと遠慮されたので、今度は全先生と一緒にいらしてくださいとお願いしたんです」

「何と、小僧、抜け駆けしよったか」

「抜け駆け……って言われても」

「こんの、人畜無害という面をしてそれか、よう分かったわい。おさとちゃんや、とりあえず適当に団子をくれるかの」

「はい、ただいま」

 一旦、さとは店内に入っていき、蒼莱はリオを肘で小突く。

「何、何ですか……?」

「抜け駆けしよってからにお主は……」

「本当にさっきおさとさんが言ってた通りで、別に抜け駆けとかじゃないんですけど……」

「ぬわーにがリオちゃんだわい。わしも全ちゃんがいい」

「本人に言ってください……」

「言えるか、バカもん」

 じゃあどうしろと、と答える前にさとが戻ってきて蒼莱が好々爺の顔に戻る。

 改めて緋天はよくこんな老人を表面上だけでも立派に尊敬しているなとリオは思う。

 と、蒼莱がさととの楽しい時間を過ごそうとした矢先にぞろぞろと連れ立った男達が店へやって来た。

「や、おさとちゃん。4人入れるかい?」

「まあ、皆さんお揃いで。どうぞ、中へお入りになってください」

「む……?」

「今日は繁盛してますね……」

「ぬう……おさとちゃんとお喋りできんのでは来た意味がないっちゅうに」

「はっきり言い切れちゃうんですね……」

 そういえば無迅も女好きだったなとリオは思い出し、師匠を名乗る人間というのは総じてそういう側面があるのだろうかと考えかける。

「それで? しょげておったのか?」

「え? あ、はい……」

「緋天に聞いたがお前さんの刀を打ち直すのを断れたとか、そんなところかの?」

「その通りです……」

「ま、そうだろうのう……。宗吉殿は一流の刀鍛治、半端な仕事は何より嫌うもんだわい。そんなに直したければそいつを打った人間のとこへでも行けば良かろうに」

「どこの誰かなんて知らないんで……」

「ほおーん……。それならどこで手に入れた?」

「……刀に宿ってた悪霊の無迅が持ってたので」

「だからその刀との出会いだろう」

「……神社に、納められてました」

「それならそこへ一度行けば良かろう」

「色々あって、二度と行けないんだろうなあ……と」

「ふむ……。事情を詮索するつもりはないが、それなら打ち直しはもう考えられぬだろうのう」

「……じゃあ、ずっと、このまんま……」

「そうは言うとらん」

「えっ?」

 むちゃり、むぐむぐ、と蒼莱は団子を咀嚼し、何も分かってないとばかりに視線をリオから逸らす。どういうことだろうかとリオは首を傾げるが分からないでいると、団子を飲み込んでから蒼莱は串を皿に戻す。

「打ち直しは刀鍛治に拒まれた。ならばそれ以外の方法で直せば良いと言うとるのだ」

「……それ、以外?」

「うむ。神器はそれこそ星の数ほどあるようなものでのう。代々、一族に受け継がれるなどというものもあれば、どこかでいきなり神器となって発見されたやら、人に忘れられたような僻地にひょっこり納められておったなどということもある。ま、それは余談だが……要するに何でもありが神器なのだ」

「何でも、あり……?」

「これまでどのような神器を見てきた?」

「これまで? ……僕の澄水とか、あとは……火を出す剣とか、緋天の持ってる脇差とか、風羽根? それと……どんなものか分からないけど、蛇の目の人が持ってたっぽい大太刀……。他にも天丘で、色んな形の武器に変化する剣とか、夜天の衣、星鏡、雪華の下緒……?」

「後半についてちと言いたいが、まあ、見てきたのなら知っておろう。何でもあり、と」

「確かに……」

 夜闇に紛れて姿を隠匿してしまう夜天の衣や、離れたところを動かずに監視できてしまう星鏡、そして雪や冷気というものを操ることのできる下緒――いずれも蛇の目が蓄えていた神器だが、その効力は確かなものだった。

「わしが持っとるというわけではないが、物を直してしまうという神器も聞いたことはある。要するにそういうもんを探し出せば、元の形へ復元してしまうのは夢物語ではないとわしは言うておるのだ」

「……そんな神器もあるんですか?」

「いつの頃かも分からぬ古い話だがのう。実在するかは知らんが、神器は何でもあり。言うとることは分かるのう?」

「あるかないかは分からないけど……可能性は、ある?」

「うむ」

「でもそんなの――いや、否定できない……」

 自分の右腕をさすってリオは顔を苦み走らせる。

 澄水の砕け散った、無迅と蛇の目の幹部である一颯との激戦はリオの右腕へ壊滅的なダメージをもたらした。そしてその腕は偶然に居合わせた女医によって切断という処置をされてしまい、数ヶ月もの間、リオは片手だけの生活を余儀なくされた。

 しかしあるかどうかも分からないと言われていた神秘の赤花というものから精製された――のであろう、薬によって命を取り止め、そのついでとばかりに腕まで生えてきた。その体験はまだほんの1ヶ月も前くらいである。

 そんな経験上、可能性というものをリオは否定しきれない。

 だがどう手をつければ良いかも分かりはしなかった。

「……だけど、実際、あったとしてもどう探し出せばいいのか……」

「まぁーったく、ほんっとに頭が詰まっとらんのう。何が詰まっとる、その頭には」

「何がって……バカですよ、どうせ……」

「卑屈になって終いか。犬と変わらん」

「犬……」

「神器を持っとるのは誰だ?」

「……も、持ってる人?」

「頭を使って答えんか」

「そんなこと言われても……」

「じゃあお前さんは大事な神器の刀を持っとるが、他にも神器を持たせておるだろう。それはどこでどう手に入れた?」

「他の……? あ、大太刀……。あれは柊尋岳で蛇の目の人がすでに、あそこにいた変なやつにやられてて……それで使えるものないか探した時に目に入って……」

「まどろっこしくてかなわん。答えの半分をもう言うとるだろう」

「……あ、蛇の目! そっか、蛇の目は神器を集めてるから、神器を持ってる」

「うむ。そして八天将もまた衆生(しゅじょう)の民が神器を持っていてもろくなことをせんという理由で積極的ではないが回収はしておる。それこそ放置して蛇の目などに持っていかれてもつまらんからの」

「神器を持っているのは八天将と、蛇の目……」

「ま、八天将のとこへ行ってものを直せる神器があるかと言うのも不躾(ぶしつけ)極まるが、例えば蛇の目から取り上げた神器を近くの八天将へ献上に行き、そこでこれこれこうでと事情を話せば功績も込みで、そういう神器があればちと貸し出す程度は一考することもありそうだのう」

「そっか……。そうしたら蛇の目は神器を失って力が弱まるし、八天将は神器を管理する側だけど自分で集めるのは手間だから誰か持ってきてくれるのは嬉しい……ことになって、そのお礼でって体なら。これなら、何だか見つけられそうな気がする……。お師様、ありがとうございます」

「お主を弟子にした覚えはないがの」

「あっ……だって緋天がそう呼ぶから何だか、呼び方が移っちゃって……。ともかくありがとうございます。蛇の目から神器を回収すればいいだけだったのか――ってそんなの僕できないですけどっ!?」

「団子でも食うて落ち着け」

「むごっ」

 口へ団子を突っ込まれてむせかけてから、リオは串を手にして噛んで飲み込む。それからお茶を流し込み、ふうと一息つく。

「柊尋岳でわしの見とった血気盛んなお主はどこへ行った」

「だって、あれは何か緋天に押しつけられて、やるしかないからしょうがなくて……」

「あんだけバタバタ斬り殺しておいて今さら何を(おく)しとるのか分からんのう」

「……で、でも、あの時はおっかない神器持ってるような人もいなかったし……」

「緋天に聞いたが、蛇の目の衆を取り仕切る三途の使途なる連中とは会うたことがあるのであろう? しかも全員と切り結び、まだ生きとる。そんなもんお主の他におるまいて」

「え……そうなんですか?」

「うむ。ほとんど知られてさえおらんわ。八天将とその側近くらいならば三途の使途と名乗る奴らは知っとるだろうがの。……特に血途の一颯であったか。あれはとんと謎だわい」

「……それは、無迅が倒しちゃったけど、一番、やばかったです……。鬼……じゃない、なまなり……とか言うらしくて、神器っぽいのは使ってなかったけど硬いし、重力みたいの操って他の三途の使途もまとめて地面に押し潰したりしてて」

「なまなりか。で、あれば妖術の類だろうのう。人ではなく、しかし鬼ではなく、どちら側からも半端者であるせいで拒まれる、哀れな存在だ」

「へえ……」

「鬼と人の間に生まれるなどとも言われるが、小さな人の子が妖気にあてられて変性するなどとも言われておるのう。あるいはその反対の場合もあるそうだが……いずれにせよ、容易に同族とは出会えぬのだ。しっかしそんなもんを配下にしとるとは、蛇の目の親玉っちゅうんは何なのかのう」

「……確かに、謎……」

「ま、ともあれ、それがもうおらぬのなら都合も良かろうて。三途の使途で残っとるのは1人だけなのであろう?」

「……言われて、みれば」

「ならば臆することもあるまいて。残った1人とそうそう出会わなければ良いだけなのだ」

「……だけど」

「ならばお主の刀はずっとそのまんまだのう」

「うう……」

「おうい、おさとちゃんや、お茶のおかわりをくれんのかのう?」

「はあーい、今すぐに!」

 うなだれたリオを見向きもせず蒼莱は忙しくするさとを捕まえて茶飲み話に付き合わせ始める。

 蛇の目から神器を奪い取っていくなどリオには現実的なこととは思えなかった。しかし蒼莱に導かれた、澄水を直すための手段としては理屈が通るような気もしている。どうしたものだろうと、再びリオは頭を悩ませることとなってしまった。


 ▽


 初めての人殺しは激烈な自己嫌悪と嘔吐感とにまみれたものだった。

 それは最初に変わったところだっただろう。

 両親に喜ばれながら産まれてきたわけでないことをいつしか悟っていたリオにとって、自分はいるだけで邪魔な存在であるという強烈な自己肯定感の低さを備えていた。それゆえに、波風を立ててはいけない、他人の迷惑になってはいけないとずっと思い込んで、そんな行動に徹するようになっていた。

 それがいきなり人殺しなどすれば取り返しのつかない罪業だと自分を責めて責めて責めて責めて責めて責めて責めて責めて――どうしようもなくなる。

 だが傍らには人斬りに快楽を見出し、それを何よりの娯楽とする悪霊・無迅がいた。無迅の宿る澄水をリオは身につけ、呪われていたも同然であったので、一晩で開き直ってしまった。

 そして二度目の人斬りの最中にリオもまた、悪霊・無迅と同じように人斬りの醍醐味とも言えそうなものを感じ取って、理解をしてしまった。

 激烈な興奮があった。

 その虜となった。


 しかしリオ自身は自分が排泄物を生み出すしか能のない、何の生産性もない、誰に望まれることもない存在であると未だ強く思い込んでいる。

 むしろ人斬りの味を覚えてしまったことを自覚しているので、元々の自分自身よりさらに存在価値などない人間に成り下がっているという自己評価さえあった。卑屈を極めそうな哀れな少年である。

 そんな少年が自分から、いくら悪党とは言え物騒な連中に喧嘩を売るどころか、強盗をしに行こうなどというのはとてもじゃないができそうにはない。

 せめて喧嘩を売られる立場であれば、買うのはやぶさかではない――とは思える程度である。

 だが、そうそう蛇の目と出会ってたまるかという気持ちもあれば、思い起こせば不思議とよく遭遇している気もするとも思える。だったら適当に出歩いていたらいずれそうなるのではないか。

「……でもなあ」

 澄水という刀もなく、人斬り大好きで隙あらば体を乗っ取ってきた悪霊もいない。

 そんな状態で蛇の目と斬り合うというのはリスキーに過ぎると思ってしまうのが小心者の少年である。

 確かに、人斬りは愉しい。

 テレビゲームなんて非にならない、そしてスポーツなんてできない少年には唯一無二の肉体的な快楽を伴ったものだ。そして何故か、息の根を止めたと手応えで感じれば性的快楽にも繋がってしまう。それは自慰など比べ物にならないもので、妄想すれど女を知らないリオには知りうる限りで最大の快感とも言える。

 それを知っているから、絶対に無理と考えるのに悩んでしまう。

 例えば蛇の目のせいで身近な誰かに危害が及ぶのではないか。

 リオ自身、手に負えないとんでもないのが出てきてしまうのではないか。

 裏を返せばそんな懸念がなければ躊躇をすることがないとも言えた。


 ▽


「リオ殿がちゃっかり手に入れた太刀ですが、明日、宗吉殿にご紹介いただいた哲三殿のところへ研ぎに出してもよろしいですか?」

「……どうぞ」

「ここ数日、どこか上の空ですが、どうかなさいました?」

 蒼莱に蛇の目から神器を強奪すればいいと言われてから、4日ほどが経ってしまった。

 ずっとリオは澄水の直し方について他にないかと考えている。それを緋天に言おうかと、ちらと相手の顔を伺う。今日も今日とて、緋天が蒼莱の世話を終えた夜更けの時間である。

「何かお師様に言われたのでしょうが、あんまり鵜呑みにしても無用な気苦労になりかねませんよ」

「……そう、かな。そうかも……」

「拙者で良ければお話を聞く程度はできますが」

「……澄水を直すって話なんだけどさ」

「ええ」

「お師様がね、神器だったら物を直す力があるものもあるんじゃないかって」

「確かに、そういった類の神器も探せばあるやも」

「で……じゃあ、神器を持ってるのは誰だって話になってね」

「ほう」

「蛇の目が集めてるって」

「そう、ですね……?」

 ここで緋天は妙な方向に話が流れていることを悟る。

「蛇の目から奪ったらさ……八天将のところに持っていけば、管理してくれるって、言って」

「それが道理ですが……」

「だったら、蛇の目が物を直す神器を持ってたらそれ使えばいいし……持っていったってことで、もし、八天将の誰かが持ってたら、ワンチャン使わせてくれるんじゃないかって」

「わんちゃん?」

「あっ……えっと、あの、ええと……もしかしたら、万一?」

「ああ、なるほど。どこの地方の言葉です?」

「んー、どこだろう……? とにかく、そう言われて、それしかないのかなあ……って。でもそんなの危ないし……澄水があれば、まあ、って思うけどそれを直すためなら順番が逆っていうか……さ?」

「確かに、何とも言えないですね……。リオ殿はのんびりした牛よりも害のなさそうな御仁に見えて、刀を持てば別人なのであるいはとも思えますが……しかし蛇の目は一筋縄でいくと侮っては危険なところもあるでしょう。それにいくらリオ殿とて、只人が蛇の目などに単身で喧嘩を売るも同然、それはあんまりです。お師様も無茶を仰る……。蛇の目などに関わろうとせずとも、お師様ならば片っ端から八天将のところを回り、刀を直せる神器がないかと問うて回れば済むはずだというのに」

「……あっ、そっか。それダメなの?」

「お師様としてはしないでしょうね……」

「何で?」

「……お師様は八天将という身分をあまり快くは思っていらっしゃらないようなのです。その責務はお師様には枷という気持ちがお強いのでしょう。ですから己が領地を放り出して、ご覧のように諸国漫遊です。お若い頃に、最年少で八天将に任ぜられて今も尚、その重責を背負われているのです。大変な名誉であると同時、それに全てを塗り潰されたとお考えになられても不自然ではありませんが……」

「でもそれとこれとは別な気も……」

「ともかく、己の立場を快く思っていないので、その立場を使いたいとも思わないのでしょう。お師様としたら拙者がもう少し年を重ねてくれたら、全て放り投げて念願の隠居生活というところです。諸国漫遊の旅の目的も、各地を回って拙者の見聞を広めることと、八天将としてのお師様がおらずとも領地を円滑に回すことができるという証明、そして拙者の顔を各地に売り込んでいくことと、一石三鳥を狙ってのことと分かっております」

「そんな狙いがあったの……?」

「はい。虎視眈々と、ずぅーっと、隠居する手立てを求めていらしたのでしょう」

「……でもそれだけ長いこと、緋天以外に後継者が見つからなかったってこと?」

「よく分かりません。しかし今は……拙者のことはともかく、リオ殿です。蛇の目なんかを相手取って神器を奪うなどよいことはないでしょう。別の手を考えるべきでは?」

「うーん……うん……。けど他に何も思いつかないっていう……」

「そうですねえ……。拙者も考えてみます。もし、妙案が浮かばずとも逸らず、お師様のご提案は流してしまいましょう」

「……うん」

「では、そろそろ休みましょう」

 ちゃんと常識と良識を備えた緋天にとっては、蒼莱の提案はやはり頭のおかしいものであるというのが伺えてしまう。

 そうだよねと納得しつつ、だが、きっとすぐに他の手段などというものは出てこないだろうと何となく悟っていることをリオは自覚した。


 そして翌日も暇を持て余し、リオは団子屋に向かう。

 おさとは今日も、笑顔でリオを迎えて団子とお茶を出す。

「ここのところ毎日来てくれるのね。うちのお団子気に入ってくれた?」

「ええと……はい」

 ただただ暇ですることもない、と正直には言えずに曖昧に肯定しておいてリオは今日もあんまり美味しいとは思っていない団子を食べる。

「何だかちょっと天気が良くないですね……。雨降りになってしまうかしら」

「天気……? 確かに何か、薄暗いですね……」

 おさとがリオの隣に立ったまま空を眺め、リオもその空模様を見て同意する。

 どんよりとした鉛色の空は今にも雨を降らしてやるぞと宣言をしているようにも思える。

「雨が降るとお仕事をお休みにする職人さんが多いから、ちょっとお店が賑やかになるの。だからお父さん、今日は多めに団子を作るって」

「へえ……じゃあ混んできたら帰ろうかな……」

「いつもありがとうね、リオちゃん。いつも混みそうな頃に帰っちゃうから悪いなあって思ってるんだけど、いつも助かってるの」

「い、いえそんな別に……」

「全先生とは一緒にいらっしゃらなくなったのね。いつもリオちゃんのつけを忘れない内に払いにきたって仰るの」

「そうですか……」

「でもね、全先生ったらちょっといけない方よね。来るといつもいつも、お喋りしたいって雰囲気で。リオちゃんとお喋りしないんですかって尋ねたら、全先生ったら、リオちゃんは釣れないからお喋り相手にはならないって言うのよ」

「ご迷惑おかけしてます……」

「いいのよ。面白い方よね、全先生って」

「面白いのかなあ……?」

「あらリオちゃん、先生なんだからちゃんと尊敬しないと」

「あ、はい……」

 他愛のないさととのお喋りは暇を持て余しているリオには日に一度の楽しみになっている。

 女好きを隠さない蒼莱のことを強く言えないと自覚がある。さとのような気の良い女性とのお喋りは楽しい。さとの方から話題を振ってくれるし、他の客の相手をしていてもたまにふらっと気にかけてくれるように喋りかけてくれたりもする。本来どうでもいいはずの自分にこうも親切にしてくれるだなんて、と思ってしまう。

「あら……もう雨が降ってきちゃった」

「ですね……」

 そろそろ帰ろうかと残していた団子を手に取ってもちゃもちゃとそれを食べる。

 甘味は足りないし、リオの知る団子よりぼそぼそしていてちょっと粉っぽくも感じてしまう。それでも甘味は貴重なもので、この程度のものでも有り難がって食べるのがこの異なる日の本なのだとリオは知っているつもりだ。

 降り出した雨がまだ弱い内に帰ろうと、あんまり喉越しの良くない団子を食べながらリオが考えていたらさとが予見していた通りに数人の職人風の男達が何組か駆け込むように来店してくる。わいのわいのと仲間と賑やかに喋り倒す職人達の来店で団子屋は一気に賑やかになっていき、店先の縁台にちょこんと座るリオは自分が邪魔物になってきているのをひしひしと感じ始める。

「あの、ご馳走さまでした」

「はーい、いつもありがとうございます」

「払いはいつものように……」

「分かってます。でも雨降ってきちゃったから、全先生に今日じゃなくてもいいですよって伝えてくれる?」

「はい、分かりました……。ありがとうございます。それじゃあ」

「ありがとうね、また来てね」

 小雨が降っている下へリオは早足で歩き出す。

 着替えるのは手間だから宿までさっと帰ってしまおうと、走ろうとした瞬間、踏み締められただけの茶色の地面に思い切りリオは草履を滑らせた。その勢いで思い切り顔から転倒する。

「っ……〜っ……」

 初めに痛みが先行して、それから雨で少しぬかるみ始めているかという微妙な頃合いで思い切りつんのめって転んだことの羞恥心が追いかけてくる。何もないところで転ぶなどリオには年に数度ある恥ずかしいイベントで、慣れてはいても恥ずかしさはいつも抱いてしまう。

 ひとまず起き上がって、今度こそ転ばないようにさっさと行ってしまおうと顔を上げたら、後ろ襟を掴んで持ち上げられかけて今度は後ろへ尻餅をついてしまう。そうしながら後ろを見ると腰に刀を掃いた長髪の若そうな男が立っていた。

「あ、え……あの……?」

「小僧」

「はい……」

「俺に泥をつけたな?」

「えっ?」

 ギョッとしながらリオは改めてその男を見て、確かに彼の袴から顔にまで、普通に歩いていたらつかないような泥がついているのを目に留める。盛大にコケた時に跳ね上げてしまった泥が後ろにいた彼にかかってしまったのだろうとすぐリオは気がついた。元々が色白なのか、頬へついている泥がやたらに目立つ。男は背がひょろりと高く、目つきが鋭い。何となくリオは狐を彷彿とした。可愛い狐ではなく、どこか冷酷そうなイメージの強い狐である。

「あ、ご、ごごごめんなさい……」

「ごめんで済むと、思っているのか?」

「え」

 ごめんで済まされないのでは、どうしろというのか。

 地べたに尻をつけ、雨で濡れて冷たくなっていくのを感じながらリオは男の冷淡な顔を見上げる。

「立て、ここで叩き切る」

「……はっ?」

 血の気が引いてリオは逃げようとしたが、すでに腰が抜けている。立ち上がれないまま尻を引き摺るように男から距離を取る。だが男の腕が伸びてきてリオの胸ぐらを掴んで持ち上げてきた。細腕にしか見えないのに簡単に持ち上げられてしまってリオは眉根を寄せる。そして袖に隠れていた男の白くて細めの腕に――肘の少し上のところに、何か見えた気がして息も飲んだ。円の中に縦長の楕円――それは蛇の目の衆が体のどこかへ彫る印だった。

 持ち上げられて下され、両足が地面へ着くがリオの腰は引けたままだった。

 しかもちらりと見えてしまった蛇の目の紋まで確認をしてしまった。この狐男が蛇の目なら容赦する必要もないが、同時に相手も容赦など知らない男だと言える。丸腰でどうにかできるとも思えない。

 固まったまま静かに思考だけが動き続ける中で、男が腰の刀を抜いた。

「我が名は弧峰、俺に泥をつけたことを悔いて死ね」

「っ――ま、待って」

「命乞いか?」

「こ、これ……僕も、蛇の目だよ」

 懐を弄って小物を入れている小さな巾着からリオは印籠を取り出して見せる。いつか、初めて手にかけた蛇の目からくすねておいて、ずっと何となく持ち歩いていただけのものだった。声をひそめながらそれをこっそり見せると弧峰と名乗った男は眉根を寄せた。

「……本当か、どこかで拾ったのではないか?」

「拾っただけで、蛇の目なんて言葉まで……知らないと、思います……けれど……」

「……それもそうか」

 目を細めながら、しかし疑惑は晴れていないとばかりに弧峰はリオを見定めるように眺める。

 それから刀を収めた。

「同胞ならば、見逃してやる。今夜、十矢の廻船問屋の白鯨堂(はくげいどう)へ来い」

「え……」

「デキのいい言い逃れだったならばどこへでも行って殺す。いいな」

「……は、い」

「ふん」

 つまらなそうに鼻を鳴らして弧峰はリオへぶつかるようにして歩いていく。ぶつかられてまたリオは尻餅をついて派手に倒れ、往来の人々が道を開けていく弧峰の背を眺めた。

「はくげーどー……って、どこ……? 今夜って、何時……?」

 雨がいつの間にか強くなっていた。ずぶ濡れになって、ついでに二度も転んで泥まみれで、リオは途方に暮れた。

 咄嗟に嘘をついて仲間だと偽ってしまったが、行かなかったら本当に追いかけてくるんじゃないかと思う。そしてもし、リオが自分だけ姿を眩ませても、蛇の目なら連れの緋天や蒼莱に牙を剥いたり、それならまだ良いが――最悪、さとのところへ行って腹いせに何かするんじゃないかと想像を悪い方へ働かせられた。

 目的のためならば簡単に人を殺すのが蛇の目である。

 たった1本の妖刀を手に入れるために山奥の集落を丸ごと焼き払うし、追いかけていた人間が逃げ込んだ村を丸ごと焼き尽くす。それが蛇の目である。

「やらかした……」

 転んでさえいなければ、こんな災難に見舞われることはなかった。

 緋天に相談して、あわよくば全部、緋天にやってもらおうと決めてリオは宿へとぼとぼと歩き出す。泥んこで意気消沈して歩く姿に十矢の人々は少し離れてひそひそと話したがリオはそれに気づいていても肩を狭めて甘んじて受け入れた。

 そうして帰り道を歩きながら、無迅だったらどうしていただろうとぼんやり考えていた。


「え、いないの……?」

「ええ、蒼莱様とご一緒に連れ立たれまして」

「お師様まで……」

「何でも空練様にお呼ばれした、とか」

「く、うれん……さま?」

「はい。この地の八天将の空練様です。お湯を沸かしますから、お召し替えになってください」

「……ありがとう、ございます」

 宿へ入ったら女将に迎えられ、そこでリオは蒼莱と緋天が珍しく出かけてしまったと知ってしまった。

 宿の玄関で足を洗われて、着物が泥まみれだからとその場で脱ぐように言われて、少し恥ずかしくなりながらほとんど裸も同然で部屋に向かう。しばらく待ってから風呂の用意ができたと女将に呼ばれて、リオはゆったりと風呂に浸かった。

 体を洗ってから部屋に戻って着替えを済ませ、木窓から外を眺めると表はバケツをひっくり返したような猛烈な土砂降りになってしまっている。八天将のところへ出かけているということだから、この天候から鑑みても今日は帰ってこないんじゃないかと考え始める。

 そうなったら、緋天に頼れないので自分でどうにかするしかない。

 すっぽかしたらさとに何か危害が加えられるのかも、と思うと出かけざるをえない。

 しかし大太刀は今朝、緋天が研ぎに持っていってしまったし、他に獲物はなかった。弧峰の異常な怪力を鑑みると神器かも知れないという想像が働いている。神器を持っている相手に丸腰でどうにかできるとは思えなかった。

 何か緋天が持っていないだろうかと、宿に残されていた荷物へリオはちらと視線を向ける。

「ちょっと失礼します……」

 小さめの葛籠(つづら)を開け、その中をリオは漁ってみる。

 だが武器になりそうな刃物の類は出てこない。丸腰で行くしかないと諦めて、リオは憂鬱になった。

 そして夜になったらとは、いつのことを言うのだろうとか、白鯨堂ってどこだろうかと悩み始める。ついでにまた雨の中を出かけたら、またびしょ濡れになってしまうとかも考えた。

「……早めに行って、待ってよ」

 こうなったら丸腰でも行くだけ行って、へいこら従ってやり過ごそうと決めてリオは日暮れを待ってから出かけることにした。

 女将に白鯨堂というところの場所を教わって、雨降りの中を出かけるならと番傘を貸される。広げてみたら松華屋と堂々と書かれていたのが少し引っかかった。これではどこに逗留しているのか丸分かりであるが、断るわけにもいかなかった。さらに暗いんだからと提灯まで持たされた。


 流石に日も暮れて土砂降りともなれば町を出歩く人の姿はなかった。

 頼りない提灯の灯りを頼りに、傘を肩へかけてリオは歩く。こうも暗い時間に、しかも雨の中を出歩くことはこの日の本では初めてだった。旅歩きをしていた時は暗くなれば歩を止めていたし、雨が降り出していたら早めに休める場所を探していた。

 町中だというのにあまりに暗く、そして雨のせいで人の気配までないとなるとちょっと怖かった。暗闇から何か出てくるんじゃないかと怖い想像がすぐに膨らむし、また足を滑らせてすっ転んでしまうのではないかとか思ってしまう。そしてこの暗さのせいか、実は嘘だととっくに見抜かれていて呼び出された場所で襲われてしまうんじゃないかとも思ってしまう。

 が、ふと、リオは思い至る。

 この日の本には鬼っぽいのが宿っている本物の妖刀があれば、鬼でも人でもないが妖術などというものを扱うなまなりなどというものもいる。そして何だかんだでそれらに遭遇してまだ生き残ってもいる。案外どうにかなるのだろうかと考えかけたが、どちらも悪霊・無迅と澄水があってのことと思い出して、やっぱりダメかもしれないと後ろ向きな想像が膨らむ。

「はあ……」

 あとはどうにか、嘘を嘘として突き通すしかないだろうとリオは胸の中で誓う。

 そうして女将に教えられた白鯨堂にようやくリオは辿り着いた。港のすぐ近くにある大きな建物で、倉庫のようなところにリオには見えた。係留された港の船が大雨のせいか、大きく揺れて上下している。水没とかしないのだろうかと不安に思いつつ、白鯨堂の大きな入り口の扉を見る。隙間が少しあって、その中から光が漏れていた。少し躊躇してから、リオは傘を畳んで軽く振って水気を切ってから扉に手をかけ横へ引く。

 そこに3人の男が集まっていた。

 木箱をテーブル代わりに飯や酒を置き、それを囲って飲み食いをしている。

 その中に弧峰の姿もあり、リオを見ると彼は入れとばかりに顎をしゃくってくる。

「おい、何だこの小僧は?」

「同胞だ。……紋入りの印籠を持っていた。この俺に泥をつけやがったから叩き切ろうとしたが、印籠を見せてきたから加えることにした」

「本当にこんなチビが?」

 弧峰の他には、上裸の相撲取りみたいな体格の大男と、白い長い髭の老人がいる。

 大男は肥満か筋肉か分からないが肉だるまという印象をリオは受けた。老人の方はどこか小汚い印象が先行して、あまり品が良くなさそうでもある。

「小僧、何ができる?」

 髭の老人が歯の欠けている口を開いてリオに言う。

「え……っと……」

 何もできませんと言ったらどうなるのだろうと考えるとすぐに答えられず、何かでっち上げようとリオは口籠もる。

「どうやって蛇の目になった?」

 今度は大男が豪快に、鷲掴みで魚の切り身のようなものを掴んで口に運んでから問いかけてくる。

「ど、どうやって……?」

「弧峰、このガキが本当に同胞なのか……?」

「違うなら、この場で切り伏せるのみよ。答えろ、小僧」

「っ……」

 やっぱりこういう展開になってしまうのかとリオは生唾を飲み込む。

「言え。誰に入れてもらった?」

 弧峰が片手を刀にかけているのを見ながら、リオは必死に頭を動かす。

(誰に入れてもらったも何も、蛇の目じゃないし……ていうか、蛇の目ってどうやってなるもの? 紹介性? えーと、蛇の目の人の名前、蛇の目の名前……巳影――はやだから、えっと、あの女の人は何だっけ? えと……あれ、何だっけ? じゃあ、じゃあ、あれ、でも一颯ってありかな?)

「答えろ」

 とうとう弧峰が刀を握り、リオはぐるぐると回していた思考が途切れたのを感じる。

「い、いぶ、き……血途の、一颯……」

 底知れない不気味さばかりが印象に残っていた、もしかしたら一番やばいやつの名前を咄嗟に出す。

 するといきなり、弧峰の顔が一瞬だけこわばった。あとの大男と老人もまた、それぞれ険しい顔をする。

「一颯様……?」

「直々にか?」

「適当を言ってるんじゃないか?」

「いや、そこらの小僧が知っているはずがない」

「では、本当に……?」

 もしかして大当たりの名前だったかも、と内心でリオはホッとする。

 勝手に勘繰って、勝手に信じようとしてくれている彼らに胸を撫で下ろせた。

「あの……何、するんですか……?」

「……十矢の名工、宗吉の工房から刀をいただく」

「……神器、の?」

「それはまだ分からんが、名刀は神器となりやすい。まして稀代の名工である刀鍛冶の作品ならばな」

「そして今、八天将の蒼莱が十矢へ来ているという話がある。その弟子が刀を持ち込んでいることも確認できている。八天将の持つ神器が手に入る公算が高い」

「神器でなくてもこれから死ぬ名工の作とあらば貴重になるしなあ。この雨ならば見られる心配もない」

「見られたところで殺せば済む。小僧、お前は見張りだ」

「……こ、殺す、の?」

「ビビってるのか、チビ? それでどうして一颯様に……いや、そういうところか……?」

「一颯様は小姓を好むとも言うからな」

「それなら手元で飼い殺していそうだがな……。小僧、何を命じられている?」

「……えっと、な、内緒にしろって……」

「……本当か?」

 視線だけで殺されるんじゃないかと思えるほど鋭い眼差しに射抜かれ、リオはこくこくと頷いて見せる。

「じゃ、じゃあ……出るまで、待ってます、ね……」

 距離を取った隅っこで膝を抱えて座り、リオはどうしようと考え込んだ。

 弧峰からなるこの蛇の目の3人は宗吉を殺して、その作品を全て奪い取ろうとしている。その中には緋天が預けている神器・鳴神(なるかみ)(つるぎ)もあることをリオは知っている。間違いなく強力な、蛇の目に渡ったら物騒極まりない神器だ。

 何も悪いことなどしていない人間を、ただ自分勝手に害そうとしている彼らをリオは伏し目がちに眺めた。

 思い出したのは、元の生まれ育った世界でいじめっ子達に取り囲まれていた頃の惨めな時のことだった。

 そしてもう1つ――


『斬れ。斬って、斬って、斬りまくれ。

 気に入らねえ野郎を斬り殺せ。惚れた女をいじめる連中を斬り殺せ。

 なぁーに、捕り方が来たってそいつらも斬り殺せばいいだけでい。手に負えねンなら逃げちまえ』


 無迅の言葉まで思い出してしまう。

 つくづく悪霊だなとリオは思う。ふとした時にその言葉が、思想が、思い出される。

 まるで汚れ染みであるかのように。

 あるいは頭の中に住みつかれているかのように。これはもう悪霊の仕業だろうとしか思えないが、どうしてか無意識に少年の口元は薄く微笑を浮かべていた。

「……あれ」

 そして自分の表情の変化にふと気がついて、顔に触れる。

 白鯨堂へ入った時は怖く見えた3人の蛇の目だが、改めて眺めると小汚い徒党を組んだただの人間にしか見えなくなった。ここでリオは自分がしなければならないことを決めた。


 ▽



「小僧、ここで待っていろ。誰かが近づいてくるようだったら、すぐに知らせろ」

「あの……僕も、一緒じゃいけませんか?」

「……邪魔をしなければいいだろう。なあ、弧峰」

「……チッ、邪魔になれば躾だ」

「……はい……」

 一度だけ訪れた、宗吉の工房にリオはやってきた。外で待たされそうになったが、食い下がってみたらすんなりといってしまった。つっかえ棒か何かで閉ざされていた出入り口の木戸を大男が前蹴りで穴を開け、それを広げるようにして壊して中へ入る。

 相変わらずの土砂降りがその破壊音は紛らわせてしまっていた。

「確か、宗吉だけがここで寝泊まりしているんだったな。先に息の根を止める。お前らは刀をまとめておけ」

「僕も……いいですか?」

「……殺しを見たいのか?」

「……はい」

「単なる小心者かと思ったら気狂いの類か? 好きにしろ」

「あ、この刀……も、もらっていいんですよね? あとで、返します……持ってて、いいですか?」

「いちいち口を開くな」

 リオは売り物か失敗作か分からない、壺の中に突っ込まれていた刀を1本だけ掴んで弧峰についていく。

 工房の奥に二階へ続く急な階段があった。草履のままそこを弧峰が上がっていく。刀にすでに手をかけている。きっと人斬りが好きなのだろうとリオは分かっている。そして恐らくだが、神器も持っている。きっと厄介な実力者だろう。

「……この部屋か」

「あの」

「だから、いちいち――」

「ごめんなさい、やっぱり僕……仲間とかじゃないので……」

 短い廊下でリオは借りてきた刀を抜いて弧峰へ向ける。

 驚きのない様子で弧峰はリオを見据え、ふっと笑みを浮かべて刀を抜いた。

「そうだろうとは思っていた。何故、一颯様のことや蛇の目のことを知っているかは分からないが、この際、構うまい。無様な死を、くれてやる!」

 いきなり弧峰が飛び出たかと思ったら、リオは妙な音を耳にした。

 それは床板が爆発したかのような音だった。音に僅かだけ遅れて腹部に熱いものを感じて背中に衝撃を受け、激烈な熱に似た痛みが腹で広がった。刺し貫かれてそのまま背後にしていた壁へ叩きつけられていた。

「脆い。弱い。無様だな」

 手から刀をこぼし、リオは刺された腹部を押さえたが力が入らなくなってその場で刀を抜かれるとともに膝をつく。

 反応することもできない速さで、目に留まらぬ速さで、腹部を貫かれていた。狙おうとすれば即死させられる別の急所を狙えたはずなのに、そこを避けて刺されたということまでリオは分かった。しかし苦痛の中で考えが定まらないままに分かっただけで、どうすることもできない。

「たまに、よく、言われるが……」

 たまになのか、よくなのか、どっちなのだろうという疑問は芋虫のようにお腹を押さえて丸まり、ただただ苦痛に耐えるリオには抱けない疑問だった。弧峰は膝を折ってしゃがみ、逆手で刀を握って持ち上げてリオの太腿へ刺し落とす。

「痛っ……ギ、グギ……! ふ、ぅ……ふぅぅっ……!」

「俺は別に武人じゃない、剣士じゃない。だからこうして、ガキを嬲って殺すのが楽しい。爺婆は見ててつまらん。それなのに……意外と悲鳴を上げないな? 鳴け、小僧。怖がれ、痛いんだろう?」

「ああっ、ぐ……!?」

 太腿へ刺されたままの刀をぐり、ぐり、とねじられてリオはその激痛に声を漏らす。脂汗を浮かべ、荒い呼吸をする。

「命乞いをしろ。そうすれば捨て置くだけにしてやる。運が良ければ生き延びられるぞ」

「ごめ、んなさい……助けてくださ――」

「なんて、ことになるはずないだろうが! はっはは、本当にグズな小僧だな。まあいい、宗吉をやるまで待っていろ、順番にやってやるからせいぜい苦しめ」

 乱暴に刀を抜いてから弧峰が立ち上がる。腹部に加えて、右足までやられたリオは丸まったまま、かろうじて首を動かした。弧峰の足が視界から外れていく。耐え難いその痛みに、必死にリオは息を噛み殺す。

 完全な上下関係があり、加虐趣向のある人間相手の()()()などが通じるはずがないなどとっくにリオは知っている。それでも素直に、命じられるままのことをしておけば多少は気を良くする。そこに隙が生じる。今のように、一時的に目を離されるという状況にも繋がった。

 立ち上がろうとしても痛みで体が引き攣って動けない。

 それでも呼吸を整えるように何度も荒く息を吸い、吐き、体を引きずるように這い進む。

 取り落としていた刀を掴んで、それに体重をかけて杖のように使って、壁にも寄りかかりながらようやく立ち上がる。

「痛っ……足が……あれ……?」

 太腿の痛みばかりに顔をしかめて、リオは何か違和感を抱く。

 壁に肩をつけたまま、片手で最初に刺されたはずの腹部を押さえる。

「……お腹、傷、どこにいっちゃったの……?」

 着物にしっかり刀が貫通した穴があるのに、まさぐっても手に血が付くばかりで傷跡のようなものがない。しかしまだ激しい痛みがそこに残っている。おかしいと思いながら、痛みの強い右足にも手を伸ばしてみて、奇妙な感触があった。傷口があるが、そこが何故か泡立つかのように蠢き動いている。何だこれと指先でその感触を確かめていたが、息を一度吐き出して目を閉じて、痛みに集中をしてみるとやはりおかしいと再認識できた。

「でも……治ってるなら、いいや、今は……」

 痛くたって、傷は癒えている。

 そう言い聞かせて刀を握り直して、寄りかかっていた壁と反対側の襖へ手をつこうとした。が、体重をかけすぎて襖が破れて転がり込む。その音へ気付いたのか、弧峰が奥の廊下の角から覗く。

「何だ、まだ転げ回る元気があったのか……。だったらもう少し、痛い目に遭うか?」

「言いたかったんだけど……あなたのしてることって、すごく……かっこ悪いですよね」

「……何と言った?」

「武人じゃないとか……剣士じゃないとか……。言い訳して、ほんとは、弱いから、自分より弱いのしか狙わないってことでしょ……?」

「何が言いたい」

「……ぷっ」

 できるだけ小馬鹿に、できるだけプライドを逆撫でできるように、リオは小さく、わざとらしく、噴き出すようにして見せた。

 大股で弧峰が足音を鳴らしながら近づいてきて、リオは目論みがうまくいったと悟った。

 だが問題はここからだった。まず間違いなく馬鹿にされたことで、ただただ苦痛を与えることを目的とした行動に出てくる。その前後で仕掛けることを考えていた。だがどうなるかは体次第で、まだ続いている激痛に左右されかねない。刀をぎゅっと握り、リオはまたよろよろと立ち上がる。そしてまた、いつも以上に重く感じる刀を持ち上げ、その鋒を弧峰にピタと据えた。

「ふぅー……痛い……けど、弱いもの虐めしかできない、たた刀持ってるだけの人なんて、怖くないよ……」

「小僧の分際で……。今度は心の臓を一突きで仕留めて――」

「やいやいやいやい、小僧じゃねえやい。

 天下にその名を轟かし、泣く子ははしゃぎ、悪党は小便ちびって腰をつく、天下無双の大剣客、無迅様たぁこの俺よ!」

「ほざけ、クソガキ!」

 はっきりと言葉にした分析こそできないが、リオはもう弧峰という男を頭ではないところで理解している。

 弱者に凶刃を振るうことを口に出して、その弱者を怯えさせようという器の小さな男。それでいて自尊心は高い。舐められたら執拗に苦痛を与える、心身ともに傷をつけて痛めつけたいという嗜虐心を持っている。先ほども命乞いをしろと言い、それを破った。騙すことさえ、それは卑怯ではなく相手を攻撃する手段にしている。

 だからリオは心臓を一突きで仕留めるという弧峰の言葉を嘘だと考えた。

 即死にはならず、それでいて痛くて苦しいところを狙う。そしてどうも直線的な動きを得意としているらしいというのも最初に腹を刺された時に分かっていた。

 ので、リオは弧峰の呼吸にだけ気持ちを集中させた。

 息を吸い、息を吐き、そして息を止めた。力を込めようとする時、走る時、息を止めざるをえない人間の仕組み。

 このことをリオは知らないまでも、無意識で分かっていた。これは悪霊に体を貸していた時、その悪霊が無意識に実践をしていたから会得したものでもある。

 呼吸さえ読めば目に見えない速度で迫られても、予測して対処をすることができる。――体さえ、追いつけば。

 弧峰へ向けていた刀を僅かに下げた。強い衝撃でまたリオは後ろへ吹き飛ばされたが、今度はどこも刺されずに済む。むしろ弧峰までもがもつれ込むようにして倒れてきていた。

「小僧、貴様っ……!」

「あっ、そういう……?」

 どうやら本当に大したことがなかったらしいと受け止めて、どこかリオは冷静になっていた。

 神器はきっと身体能力が強化をされるような類のもので、しかし弧峰はそれを使いこなせないから少し逸らされただけで自分まで倒れ込んできてしまった。何が怖いものかと、むしろどうしてそれでああも傲慢にいられたのかと疑問に思うほどだった。何の感情もなく、そんなものだったのかとばかりに、起き上がろうとした弧峰の襟元を掴んで、握っていた刀の刃を自分と相手の間に滑り込ませた。

 ただ引っ張ったことで刃に首を乗せてやり、あとは刀を持つ手を外へ引いていく。

 それだけで野菜の下拵えか何かのようにあっさりと、無駄なくリオは弧峰の喉笛を切り裂いた。

「……面白くない……」

 ぼそりとリオはそう呟く。

「痛てて……」

 傷は塞がったがまだ痛みが残る体で立ち上がって、弧峰の死体をそのままにリオは廊下に出て階段を降りていく。

 階下の工房では大男と老人がそこら中をひっくり返すようにして、刀剣を探して土間の一箇所へ投げ込むように集めていた。

「小僧、弧峰のやつはどうした? 宗吉をもうやったのか? 少しバタバタ聴こえていたが」

「上で死にました」

 暗がりで互いのことはよく見えないが、何となくシルエットでは認識ができる。

 そんな暗がりでリオは何でもないように問いかけてきた老人へ返事をした。

「ん? 宗吉が、ということだろう?」

 今度は大男がそう言ってくる。

「いえ……僕が弧峰って人を、喉を切って殺しました。……蛇の目じゃないんで、僕。だから、おじさん達も、やりますね」

「何をふざけたことを言って――小僧っ?」

 近くにいた老人にリオは小さな歩幅でそっと駆け寄り、骨と皮ばかりの薄い体へ刀を突き込んだ。肋骨の隙間へ刀を差し込んで心臓を貫き、捻りながら引いてさらに切り裂く。苦しげな声を上げながら老人は倒れてすぐに動かなくなる。

「許さんぞ、小僧っ!」

 残った大男が暗がりの向こうから何かを振り上げて迫ってくるのをリオは見る。

 巨漢が迫ってくる様は、暗がりということもあって壁が近づいてくるような錯覚を引き起こした。その圧はなかなかないものだったが、目を凝らして距離感を確かめながら、リオは草履の鼻緒を指の間から外して、足を振り上げながらそれを飛ばした。

「っ……!? 何、だ!?」

 ぺしっと草履が大男にぶつかる。暗がりだからこそ、それが何か分からないという警戒心を生じさせてその勢いを衰えさせた。すかさずリオは迫って思い切り刀を大男の足に叩きつける。刃物の痛みと、その衝撃、そして自重によって大男が、山のような巨躯が崩れる。下がってきた頭の少し下、肉に埋もれかけているその短い首にリオは刀を差し込んだ。ごぼごぼと出血した血が喉の中に溢れて大男も倒れて死んだ。

「……こんなもんか」

 落胆にも似た呟きを漏らしてから、リオはこの無性な面白くなさについて自問しかけたが、ぎしりと軋む音を聞いて中断された。先ほど自分が降りてきた階段を誰かが降りてくる。弧峰を仕留め損ねていただろうかと最初に考えたが、喉を掻き切って生きていられるだろうかと眉根を寄せる。しばらく暗がりで階段を見つめていたら、微かな明かりが目についた。

「盗人どもの仲間割れか……?」

「……あっ」

 完全に忘れていた、家主にして、この工房の主――宗吉だった。

 明かりを手に階段下へ姿を見せた宗吉は寝巻き姿で、火の点いた蝋燭を乗せた小皿を少し掲げてリオを伺い見る。

「あ、せ、先日は……どうも……」

「……緋天殿と訪ねてきた、あの時の子か。これは、どういうことだ?」

「……えと……説明すると長くなるんですが……」

「事情はどうでもいいが……察するに、命を助けられたというところか?」

「そんなに大層なものでは……ごめんなさい……」

 居心地悪そうに、萎縮するように謝罪する少年と、その近くに倒れている死体を宗吉は薄明かりで観察する。

 それから打ちかけのもの、研ぎの途中のものまで、それこそ手当たり次第といった様子でまとめられていた刀達の山へ近づいていって、この片付けを考えて宗吉はため息を漏らした。近所の独立した弟子にでも声をかけて明日に手伝わせようと胸の内で算段を立ててから、ふとその山の中に目についたものを引っ張り出す。

 それは宗吉の作品としては珍しいものだった。長脇差などと言われるもので、白鞘に納められている。

「……事情があるならば詮索はしないでおこう」

「えっ? あ、はい……」

「だがそれだけを礼にするのでは名工と持て囃される宗吉の名に恥じる。つまらぬ礼だと思って、受け取りなさい」

「いいんですか……?」

「お前の持つそれよりは上物だ」

「……ありがとうございました」

 抜いたままだった刀を丁重に返すと、代わりとばかりに引き摺り出されたばかりの刀を押しつけられる。

「折れたならばまたここへ来い。生きていれば代わりもくれてやろう。直せるようなら直してやる」

「はい……もらっちゃって、ほんとに、いいんですか?」

「くれてやると言ったものを突き返す阿呆がいるか」

「すみません……。じゃあ、もらいます……。ありがとうございます。……でも何で、これ?」

「不満か?」

「い、いえ……立派な、他のやつよりも、これの方が嬉しいと言えば、嬉しいんですけど……」

「お前の見せた刀。砕けてはいたが見事なものだった。そしてこの死体の切り口。そっちの方が手には馴染むであろう?」

「……た、多分」

「……何とも曖昧な。見繕ってやったというだけだ。人の目利きもできずして、刀など打てんだろうに」

「職人だ……かっこいい……」

 腰にもらったばかりの白鞘の長脇差を差すと、少し懐かしく感じられた。

 澄水と同じく長ドスとも言われるような白鞘の拵えは、その木の手触りもいい。何より木製なので重くもない。きっと邪道なのだろうが、こちらの方が落ち着くし、性に合うような気がしてリオは思いがけずもらってしまった刀にほっこりした。


 ▽


「あら……リオちゃん、今日は格好いいもの持っているのね」

「あ、はい……貰いもので」

 朝になると雨はすっかりやんでいた。

 それでもぬかるみきっている地面は足を滑らせそうなこともあった。

 しかし腰に新品の刀があると、容易に汚したくないという気持ちで慎重に歩いてきた。

「お団子2本でいいの?」

「はい」

 いつものように縁台へ腰掛け、刀を外して立てかける。と、すぐにさとが団子とお茶を持ってきて縁台へ置く。

「昨日の雨、降られちゃったでしょう? お風邪とかひいてない?」

「はい、どうにか……。あの、実は……」

「どうかしたの?」

「今日、十矢を出ようと思って……。だからここに来るのも最後かも……」

「まあ……全先生とご一緒に?」

「あ、いえ……別で、ずっと言いそびれてたんですけど、何というか、僕の先生というわけではなくて、色々あって一緒に同行してたというか……でした。ので、僕だけお先にちょっと行くことにしたんです」

「そうだったの? 早く言ってくれれば良かったのに、リオちゃんったら。それでどこに?」

「……うーん、多分、あっちの、山の方だとは思うんですけど」

「……わざわざ?」

「はい……。たまに、いるじゃないですか。こう、人の目を気にするような人達?」

 団子を食べて、茶を飲み干して、さとといつものような他愛のないお喋りをしてからリオは腰を上げた。刀を差して、小さな荷物を背負うとさとが包みを持ってきてお土産に持っていってと団子を渡された。さとに小さめに、控えめに手を振ってリオは団子屋を後にした。


 昨夜、宗吉の工房を出てからリオは白鯨堂へと戻った。

 そこを漁って、どうやら蛇の目が利用している拠点めいた場所の地図を手に入れた。恐らく、十矢から湾を渡らずに船で行き来をした方が絶対に楽だと言われている険しい山中の方だろうというところまで読み解けたが、まだ詳細な場所というのは分かっていない。そもそも地図を読む能力がなかったし、地図そのものも詳細なものではなかった。

 しかしリオは宗吉の工房強盗未遂のあった昨夜から、蛇の目とはいえピンキリで、どうやら三下というのが大多数で、その大多数は恐るるに足らぬと認識した。だから蒼莱が言っていた、蛇の目から神器を強奪して、八天将のところへ持ち込んで、澄水を直せるような神器を探してみようと決めたのだ。

 まだ宿には緋天も蒼莱も戻ってきていなかったが、書き置きだけ残して別れを告げておいた。

 最後にさとのところへ顔を出して挨拶をしていたのだ。


「そう言えば……無迅がいなくなってから1人で歩くのって、初めて……?」

 十矢の町を出たところでリオは背後を振り返って、ぼそりと呟く。

 最初にこの異なる日の本へ放り出された時も澄水があったから、そこに無迅が憑いていた。澄水が壊れて無迅が消えてからは、何だかんだで同行者がいて色々と助けてもらえていた。が、今度は無迅という悪霊もおらず、旅の道連れというものもいない。

 早速だが、先行きが不安になってリオは先へ進もうという足が重くなった気がしてしまう。

 不安は強いがきっと、恐らく、多分、大丈夫だろうと自分に言い聞かせて前を向いて歩き出した。できるだけ不安にならないようなことを考えようと決めて、真っ先に思い浮かんだのはここまでの旅で出会った女性達の顔ばかりだった。

 もしかしたら自分はかなり不潔な類の人間なんだろうかと、肩を落としてリオはとぼとぼと歩く。

 慕ってくれたり、気を遣ってくれたり、あるいはただの年下の子としてかわいがってくれたり――しかしどの女性も共通して、やさしかった。芯の強さもありながら、他人のことによく気がついて、どうしてそんなにと思うほど立ててくれようとするところもあった。奥ゆかしいとはこういうことなんだろうかとか考え、ちょっと気恥ずかしくとも、そこまで断固拒否というほど嫌ではなかったのが不思議と印象的でもある。

 だが旅とは一期一会でしかなく、結局、どういう形かで別れてしまわねばならない。

 何だかとても寂しい心持ちにはなった。そしてこの気持ちもいずれ慣れてしまうのだろうかと思うと、それはそれでどうなんだろうかと考えた。


 ▽


 日が暮れていく。山の中腹の木々がまばらなところからだと景色がよく見えた。十矢の港が小さく見えて、街の中にぼんやり薄明かりが灯っているのが見えた。だがリオが知る夜景というものには程遠い。煌びやかなネオンの輝きなどはない。原始的な火によるぼんやりとした灯りでしかないせいだ。

 しかし夕焼けに照らされた景色は綺麗なものだった。

 原風景と呼ばれるノスタルジックを思い起こさせるものより、さらに古めかしく見えてしまう。だがそこには自然と調和するような人の営みの美しさを感じ取ることができた。

 宿を出る時にもらったおにぎりを取り出し、リオは岩へ腰掛けてそれをかじる。

 ただ塩を振って握られただけのおにぎりだが歩き通して夕焼けの絶景を見ながらだとおいしさも格別だった。

 腹ごしらえをしたらさっさと眠ってしまおうと決め、おにぎりをぺろりと食べきってからリオは自分の指を舐めて寝床代わりの布を広げて横になる。

「……硬い」

 地面の硬さにぼそりと感想を漏らしてから、今さらのことは無視しようと決めて目をつむる。

 そうして眠ろうと丸まった。

 しばらく眠りにつくのを待ってじっと黙って過ごしていると、不意に近くの茂みでガサガサと音がした。風でも吹いたんだろうと気にしないでおくと、足音のような砂利を踏むような音も聞こえてリオは薄く目を開ける。

 人っぽいが、こんな日の暮れた時間に出くわすというのも考えづらい。獣だろうかと横になったまま少し考え、しかし獣ならばそれはそれで危ないとやや間を置いて思い至り、ハッとして体を起こして振り返る。夜闇の暗い中に人影らしいものがあり、それがリオの視線を受けてピタと止まった。

「……えっ?」

 近くに置いていた、もらったばかりの白鞘の刀にその人影は手を伸ばして止まっていた。

 恐る恐る、リオは自分のその刀を引ったくるようにして掴んで握る。相手は動かない。

 何か奇妙な沈黙がその場を支配している。――と、リオは感じた。

 それはまるでだるまさんが転んだというお遊びのようでもあった。鬼側のリオが目を向けているから、相手も動けないというかのような。しかしそもそも見られてしまっている時点でアウトのはずなのに、それをアウトと認めずにただじっと動かないでいることで免れようとしているかのような。

「あの……」

 沈黙してはいたが主導権はリオにあった。

 泥棒されかけていたのだから優位にあるのはリオである。

 少なくとも本人はそう考えていた。が、しかし。

「て、てやんでえ、べらぼうめ、バーロー! お、オオオイラァ、物盗りなんかじゃねえやい!」

「……えっ」

「おうおうおうおうおう、そんじゃあ何か、何かあっ? どこかに何かオイラが物盗りしようとしたなんて証拠があるのか? あるのかあっ?」

 捲し立てられてリオは顎を引く。その剣幕に圧倒されつつ、相手の声と薄明かりに目が慣れてかろうじて容姿を確かめる。あまり年の変わらなさそうな、しかし随分と薄汚れた格好をしている。散髪などろくにしていないというように髪が長い。

「……あ、あの、ほんと、すみませんでした……。じゃ、じゃあ、僕は……これで……」

 関わらない方がいいと判断し、リオは立ち去ろうと荷物をまとめようとする。

 が、寝具代わりにしていた小さな葛を拾い上げようとした手を押さえられた。

「ええと……?」

「……べ、べべ、別に物盗りじゃないんだから、そんな、そそくさ逃げようとしなくたっていいだろーが」

「い、いやでもあの……ほら……そんな……う、疑われたんじゃ、居心地も悪い……かと」

「そ、そんなこと言って、何かあ? オイラが泥棒だから一緒にいたくねえってか?」

「でも……正直、盗ろうとしてたようにしか見えなかったというか……」

「ち、違……あれはその……結局盗らなかったんだからいいだろ? な、なあ、あの……ほら、暗いし……」

「……えっと」

「オイラ、久しぶりに人と会ったからその……」

 ぐうう、と困惑していたリオの耳に誰かの腹の虫の声が飛び込む。

 物盗り現場を見られて逆ギレしていたはずなのに、何故かしおらしくなって、かと思えば腹が鳴る。

「……ど、泥棒しないんなら、いいけど……何か、食べる……? 大したものはないけど……」

「……た、食べる!」

「あ、うん……火起こし、手伝ってくれる……?」

 何だか変な子と知り合ってしまったとリオは少しだけ疲労を感じる。まだ十矢にはぼんやり明かりがある。こうして町が見える距離なのに、人と久しぶりに会ったというのは何なのだろうかという警戒も少し強まっていた。

「あんちゃん、名前は? オイラ、ほたる」

「ほたる? ほたるって……あの、蛍? ちらちら光る、虫の……」

「そう、そのほたる! へへ、いい名前だろ?」

「ああ、うん……そうだね……。僕はリオ……」

「りお? それって何かの名前? 虫とか花とか」

「さあ……? 聞いたことないし……」

 せいぜい地名だよね、と思ってはいるものの、この世界にリオ・デ・ジャネイロという地名はきっとないと分かっているのでそうは言わなかった。

 火を起こして、食事の支度をしながら少し話をするだけで、リオはほたるが自分より小さい相手だと知った。

 薄暗がりでよく見えていなかったが、起こした火に照らされたほたるを見ればきっと自分よりも年が下だろうなと思えた。薄汚れた格好ながら顔つきはあどけないし、喜怒哀楽がやけにはっきりしているし、警戒心もなく人懐っこいという雰囲気ですでにほたるは心を開いているように感じさせられる。

「うま、うまっ……はああ……ねえ、水ない?」

「……あるけど、あんまりないから、がぶ飲みしないでよ……?」

「うん、ありがとう、リオ。リオって十矢から来たの?」

「え、うん……。そっちは……? すぐそこが十矢なのに、人に合わなかったって……」

「……ふ、ふんっ、そんなのあんちゃんにゃ関係ねえやい」

「……訳ありなのね……」

「……あんちゃんこそ、どこ行くんだよ? 山の方に来るなんて、船に乗れないんだろ? わざわざこっち来るやつなんて、それこそワケアリでい」

「う、うん……まあ、そうだね……」

 それにしたって、とリオは思う。ほたるの格好は旅をしているというようなものではない。荷物らしいものはなく、粗末なボロ着物で着の身着のまま出てきたという雰囲気だった。

「……あんちゃん?」

「えーと……奥の方?」

「奥?」

「うん……山奥っていうのか、内陸っていうか、船じゃ行けなさそうなところなんだけど」

「……そんなとこ、行かない方がいい」

「え?」

「行ったらいけない……」

「どうして?」

「それは……ど、どうしても! お、おっかないのがいるから……け、獣とか……山賊みたいなのとか……」

「……もしかして、知ってる?」

 何か怪しいような、とリオは何をと言わずにかまをかける気持ちで言ってみる。と、ほたるは分かりやすく図星のように視線を泳がせ始める。

「し、知らない! そ、それに? あの、あれ……と、とにかく山の中なんて危ないんでい!」

「……こういう、模様の刺青してるような人達とかいるってこと?」

 地面に木の枝で蛇の目の紋を描くとほたるは目を大きくしてリオを見る。

「あ、あんちゃん……もしかして、こいつらの仲間か!?」

「え、いや、違うけど……」

「ほ、ほんとに!? ほんとのほんとか!?」

「う、うん……用事があるのは確かだけど、仲間からは程遠いというか……むしろ、敵……? いや、敵なんて大それたものじゃないか……」

「……こ、こいつらのこと、あんちゃん、知ってるの?」

「ま、まあ……それなりに……?」

「あんちゃん、お願い、そんな立派な刀持ってるんだし、手伝ってくれない!?」

「……え? 何を?」

「お礼ならするから!」

「いや、お礼なんて……っていうか、自分で危ないって言ってたじゃない」

「え、お礼しないでも手伝ってくれるの? あんちゃん、ありがとー!」

「ぐえっ――いや、何も言ってない……!」

「あーりーがーとー!!」

 飛びつかれてそのままリオは非力さゆえに押し倒される形になったが、都合の悪いことが聞こえてないとばかりにほたるは大声で礼を言って伝わらないのだった。


 奇妙な道連れにリオは困惑せざるをえなかったが、しかし突き放すだけの冷淡さも持ち合わせてはいなかった。あんちゃん、あんちゃん、とこれまで呼ばれたことのない呼び方をされると、何だか慕われているような気もして、情が湧いてしまうというのも大きかった。――そんな自分のちょろさを自覚は一応している。

 ほたるは聞いてもいないのに、色々と喋った。

 年は11だと言い、故郷は鶴柴(つるしば)というところだとも言った。十矢から湾を渡って十数日ほどのところにある、海沿いの宿場町なのだと。ほたるはそんな宿場町の漁師の子ということだった。

「じゃあ、どうしてその……鶴柴ってところじゃなくて、ここにいるの?」

「それは……」

「……訳あり?」

「……あんちゃんなら、教えてもいいや……」

 そんなに心を開かれてしまったのかとリオは少し複雑な気分になる。

「おっとうが漁で死んじゃって……おっかあと2人で暮らすようになったんだ。それで、おっかあだけじゃあ稼ぎにならなくって……オイラ、おっかあの姉ちゃんが嫁いだ宿で暮らすことになって、おっかあとは別々になっちゃった。おっかあは出稼ぎに行くからって、鶴柴出てって、一回だけ飛脚が手紙持ってきてくれたんだ。十矢で働いてるって、1年くらいしたら貯めたお金持って帰るから、一緒にまた暮らせるって。

 だけどそれきり、手紙もなくなって、2年も経って……オイラ、おっかあが心配で鶴柴から出てきたんだ。旅人に連れてってくれって頼んで……十矢に何とか辿り着いて、おっかあが働いてたって宿まで行った。でも……おっかあはいなくて……」

「……どうして?」

「……辻斬に、殺されたんだって……言われた……。その辻斬は捕まってなくて、あんちゃんが見してくれたあの紋の墨を入れてたんだって聞いた。だからオイラ、その辻斬を見つけたくて十矢を探し回って、見つけたんだけど……大人は相手にしてくれなくて……直接、オイラ、自分で仇を討ってやるって包丁で挑んだんだけど返り討ちにされた上、オイラがおかっぴきに捕まって……十矢には二度と、入るなって……もし、次に見かけたらまた追い出すぞって……」

「辻斬……それ、どんなやつ……? 狐みたいな、やつだったり……?」

「ううん、違う……そんなのもいたけど、おっかあの仇の辻斬は狐っていうより……トカゲ?」

蜥蜴(とかげ)……?」

 ひとまず弧峰のことではないらしいということにし、リオは蛇の目の衆に恨みを抱く人間がどれだけ多いのかと辟易とする。あるいは自分が蛇の目と奇妙な悪縁を結んでしまっているのだろうかとも考えてしまった。嫌な縁としか言いようがないので、そうではありませんようにと願いかけ、それはそれで澄水を戻すという目的に遠ざかるんだろうかとも思って複雑になる。

「そのせいでオイラ、十矢を放り出されちゃって、入れないんだ。いっぺん、忍び込んでみたんだけど捕方に見つかってまた追い出されて、今度また見かけたらただじゃすまないぞって言われた」

「何も悪くないのに可哀想にね……」

 こういう時にこそ、鶴の一声的に蒼莱がいてくれればあっさり解決されるんじゃないかとリオは考える。しかし、今さらのこのこと戻ってほたるの不当な扱いをどうにかしてくれと頼むのも気が引けてしまった。何より蒼莱が八天将という自分の立場を好ましく思ってないらしいというのも知っている。

「あいつらが出入りしてるみたいのは見かけたことあったけど、どこかとかよく分からないし……困ってたらあんちゃんがいてさ、それで一緒に行ってくれるって言うからオイラ、ほんっとに嬉しいんだ」

「……でも……本当に蛇の目って、おっかないことするからね……。前に一緒に旅した女の子がいたんだけど、蛇の目と戦うことになっちゃって、そのまま死んじゃったりしたよ。平気で人里を焼き払うし、偉い人の命も奪おうとするし……。だから危なくなったらちゃんと逃げなきゃだめだよ。……守ってあげられるなんて簡単には言えないから」

「オイラ、おっかあの仇を取らないとどこにも帰れやしない」

「気持ちは分かるけど、それで死んじゃったら……意味とかあるのかな……」

「意味?」

「うん。……だってほら、仇討ちのためだけに頑張って、それだけ果たして、そのままもし死んじゃったりしたら……寂しいっていうかさ。結局、恨みがましい仇とはいえ、そんなのをただ殺すためだけに生きてみたって……何だろうなって思ったり」

「……よく分かんない」

「とにかく……うーん、仇討ちしただけで人生おしまいはしょうもないような気がするから、それよりも生きて何か建設的なことした方がいいと思うよ」

「あんちゃん、小難しいこと言うんだな」

 そんな程度の感想か、とリオは嘆息する。しかし子どもなんてそんなもんだろうと思うことにした。年齢差は少ししかないが、そこは棚上げをしている。


 ▽


「目印だと思うんだけど、あれで合ってるかな……?」

 白鯨堂で手に入れた地図らしきものと、目の前の景色を見比べてリオが尋ねる。ほたるがリオの手元を覗き込む。

 その地図にある目印らしいものは真っ二つに割れた松の木みたいなものだった。しかし炭で真っ黒に塗り上げられている。

 そして見下ろしている窪地にもそれと同じような真っ黒に焼け上がり、縦に割れている松の木らしいものが1本生えていた。

「あれだ!!」

「あの木の近くに何かあるっぽい……のかな?」

 地図を見て、黒い松の木の近くに短い線のようなものが引かれているのを見る。その短いが太めにはっきり描かれた線からは細い線が松の木から左の方へひょろりと伸ばされているが途中でその線も途切れている。

「行けば分かるって、あんちゃん早く!」

 斜面をほたるが駆け降りていき、リオも歩いて行こうとしたがその一歩目で足を滑らせ、ほたるが大笑いをした。

 尻餅をついて痛んだ臀部をさすりながらリオは黒い松の木へ辿り着く。途中でほたるは笑いすぎて腹痛になり、リオの着物を掴んでついてきていた。

「ひぃ、ひぃぃ……ふう、お腹痛い……あんちゃん、鈍臭すぎ……」

「そんなに笑わなくていいでしょ……。ていうか重いからいい加減、手放してよ」

「だぁっておかしかったから……。あんちゃん、これじゃない、次の目印」

「これ……? まあ、これかな、これしかない……のか」

 ほたるが見つけたのは地面に打ちつけられた杭だった。

 その杭からは鎖が伸びていて一定間隔で地面にその鎖の目に楔が打ちつけられている。そうして1本の鎖が道を示しているようだった。長い鎖でずっとまっすぐ伸びている。松の木に近づいて、それから足元を観察しないと見つけられないように隠されている秘密の目印そのものだった。

「これ追いかけてったら、おっかあの仇がいるのかな……?」

「……少なくともその仲間はいるだろうね。仇討ちしたいって気持ちはわかるけど、危ないからほたるはここで待ってた方がいいんじゃない?」

「やだ! オイラ自分の目で見ないと収まらない」

「でも危ないよ……?」

「あんちゃん、(それ)あるんだからいいだろ。オイラあんちゃんの後ろにこうやって隠れてるから!」

「さっき鈍臭いって笑ってたよね?」

「あ……そっか、あんちゃんの腰のやつ飾りか……」

「飾りとまでは、いかないと思うけども……間違って切っちゃうかも、よ?」

「あんちゃんがおっかあの仇を切ってくれるなら、オイラそれでもいい」

「ダメだよ、そんなの」

 腰の裏へ隠れるようにまだしがみついているほたるにそう声をかけて、リオは腰に差している長ドスに片手を乗せる。横へほたるは回ってきてその腕へじゃれつくように身を寄せた。

「オイラおっかあとまた、一緒に暮らしたかったんだ……。でも殺されちゃったから、殺し返してやらないと気が済まない」

「そうだね。……でもその内また、お母さんと別の誰かとずっと一緒に暮らしたいって思える人と会えるんじゃない? だから、仇討ちが終わってからのことも考えないと」

「終わってから……?」

「うん。ちゃんと考えるんだよ」

 刀に乗せていた手を上げてほたるの頭を撫でて、リオが言う。

 丸い目をしながらほたるはリオを見上げた。

「あんちゃんは? 何をしたいの?」

「え? 僕は……まあ、ちょっと、今は探しものしてて」

「それが終わったら?」

「……それが終わったら? うーん……」

「あんちゃんも考えてない!」

「いや、まあ、うっすらとはあるんだけどその……笑わない?」

「何? 笑わない! 教えて」

「天下無双の大剣客になる――みたいな」

 気恥ずかしくリオはぽりぽりと頬をかく。そしてほたるの反応を窺うようにちらと目を向ける。

 と、ほたるは笑いもせず、リオを見つめていた。

「えーと……無言もちょっと恥ずかしいんだけど、やっぱ、おかしいよね……」

「ううん、かっこいい! あんちゃん、鈍臭いのにほんとにそう思ってるの?」

「鈍臭いは余計だよ……」

「でもケンカクって何?」

「……何だろう」

「知らないのになれるの?」

 ごくごくもっともなほたるの疑問にリオは考えかけ、ふと、かつての悪霊の言葉を思い出した。


『いいか、覚えておけ。俺はオイラァ、人斬りだが殺し屋じゃあねえ。刀は持つが侍じゃあねえ。

 斬るべきは斬りてえもんだけよ。てめえの斬りてえもんを、片っ端から斬っちまいな。

 その人斬りが頼られてよ、無力でバカで度胸もねえような連中の、溜飲を下げてやれるもんになりゃあ、それが立派な剣客ってえもんよ。一丁、お(めえ)さんがいっぱしの剣客になれるまでは見守っててやんよ』


 もうずっと昔のことのようにも思える出来事があった。

 人斬りの快楽を知り、殺し合いの中の昂りを理解し、それを認め、受け入れてしまった時のことだった。

 人斬りの罪悪感と、それを圧倒的に上回る充足感、殺し合い・斬り合いの中に見出してしまった至極の悦びに戸惑いながらもリオは人斬りの道に己が踏み出したことを感じ取っていた。

「あんちゃん? どうしたの?」

「斬りたいものだけ斬るのが、大剣客だよ。

 人を斬って、人を殺して、それが誰かの恨みや憎しみを晴らせるんなら、それが立派な剣客。

 ――って、前に教わったなあって思い出してた」

「へえ……。あんちゃん、師匠とかいたの?」

「一応というか、そう呼んだことも、そう思ったこともないような相手だったけどね……」

「どんな人?」

「天下無双の大剣客だった」

「何それ! あんちゃんと一緒!?」

「その人みたいになれたらいいなって思ってるんだけど……難しそうなんだ」

 何年も、何十年もかかっても、ああはなれないだろうなとリオは苦笑してしまう。

 だからこそ憧れてしまったのかも知れないとも思えた。全く同じの悪辣非道で傍若無人な振る舞いはきっと真似できるものではない。しかしその中に一本通されていた確かな芯のようなものは理解している。それをリオ自身も見出したかった。


 せがまれてリオはほたるに無迅の悪霊ぶりをかいつまんで、簡単にだけ話をした。

 刀に宿っていた悪霊だと言った時はオバケに怯えたかのように怖がっていたが、無類のスケベなところや、敵を挑発するためにバカにする悪口の秀逸さなどを話している間に面白がっていた。

 そうしながら地面に這わされた鎖を辿って歩き続けた。

 鎖は随分と長く、たまに途切れてしまって見失いかけたが少し離れたところからまた這わされていて、やはり人目を忍んでいるのだろうというのが明らかになった。誰かが興味本位で鎖を見つけて辿ってみても途中でなくなってしまうから気にしなくなるという寸法だろう、と。だがよくよく探せば少し離れたところからまた始まっている。

 念入りに隠されているアジトなのだと思うとリオはちょっとずつ不安が募り始めていた。

 どれほどの人数がそこにいるのかとか、神器を扱う人間がどれくらいいるのか、そもそもこういう蛇の目の拠点には常軌を逸した神器が保管されていたりするのではないか、果たして生きて帰れるだろうか、蛇の目を甘く身過ぎていたのではなかろうか――。次から次へと不安材料が頭の中に浮かんできてしまう。

 しかし前を歩く小さいほたるの背を見ると、やるべきことは変わらないのだと思い直せた。

 1人だけだったら途中で怖気づいて引き返してしまっていたのではないかとまで考えてしまった。リオは自分自身の情けなさを正しく理解している。それとともに案外どうにかなるのではないか、という楽天的な考えが、存外に的中することもあると体験で知っている。だから不安を振り払うように頭を小さく振っておいた。


 そうこうしている間に日は暮れ始めて、地面の鎖も見つけづらくなってきた。

 そんな折にようやく目的地が見えた。

 山の中へ築かれたのようなものだった。組み上げられた大きな石で築かれた石垣は植物や苔で深くも鮮やかな緑色に染められ、その上に天守が聳えている。周囲の木々に遮られてとても全景は見られなかった。

「ここに、おっかあの仇が……」

「歩き疲れたし、ちょっと離れたところで休んでから行こうか」

「オイラまだ歩ける」

「ここから先は歩くだけじゃ済みそうにないからさ。……お腹も減ったでしょ」

 逸るほたるに言い聞かせてリオはその場をそそくさと離れた。

 あまり近くにいては蛇の目に見つかるかも知れないが、離れすぎても今度は山城を見失ってしまうかも知れない。その絶妙な距離感を探るように離れて、大きな木の麓でようやく腰を下ろした。

 火を起こしてその明かりや煙で見つかっては仕方がないので、十矢でさとにお土産にともらった団子をリオは取り出した。

 団子にほたるは大喜びしてかぶりつき、リオも久しぶりに歩き通した疲れにはあんまりおいしくなかった団子が格別の甘味に思えてしまった。

「食べたらちょっと寝よう。明日、乗り込むから」

「うん、おやすみ、あんちゃん」

 木のうろでリオは横になると、ほたるも何故かぴたりとくっつくようにして横になった。

 添い寝でもしているような、されているような奇妙な感じでリオは距離を取ろうかとも少し考えたが、ほたるは出会い頭こそ威勢が良かったが意外と人懐こい子だと思っていたので好きにさせておいた。1人でずっと人寂しかったのだろうとも考えていた。おやすみ、と返してそのままリオは目を瞑る。

「ねえ、あんちゃん」

「うん……?」

「オイラ、おっかあの仇討ちしてからのこと、考えた」

 眠ろうと思っているのにほたるにそう言われてリオは薄目を開けた。

 しかしすでに日も落ちた山の中ではもうあまりものが見えない。しかし寄り添うように寝ているほたるの体温は感じられる。

「おばちゃんの宿に帰る。それでお手伝いする」

「そっか……」

「それでね、あんちゃんもそこに来てよ」

「え?」

「だってきっとあんちゃん、あちこち旅をするんだろ? 近くまで来たら、宿まで来てよ。オイラ、おばちゃんとおじちゃんに、あんちゃんはおっかあの仇を討ってくれた恩人だからって言って、宿賃なんか取らないから。そいであんちゃんはオイラにね、こうやって旅のこととか話してくれればいいよ。あんちゃん鈍臭いし、やさしいけど……きっと、おっかあの仇を討ってくれるって思えるんだ。だから、そういうことにした」

 謎のその信頼感はどこから来たのかとリオは不思議にも思った。

 しかし闇に慣れた目を声がする方へ向けると、ほたるが穏やかな顔で見つめてきていた。ほたるがみじろぎをし、リオの腕へ頭を乗せて腕枕にされる。どうしてこうも懐かれたのかと思いつつ、嫌な感じもしなかった。

「じゃあ、明日の今頃はそこに向かってる途中だろうね」

「うん。……約束な、あんちゃん」

「分かった。約束ね。……おやすみ」

「おやすみ。……へへっ、あんちゃんあったかい」

 腕を枕にして、リオの胸元へ顔をうずめるようにほたるはさらに密着した。

 リオもほたるの体温を感じ取っていた。


 朝日が昇り、その明るさで自然とリオは目が覚めた。

 ほたるの足が何故か顎に当たり、ほたるの腕が腰に乗っている。どんな寝相の悪さなのかとぼんやりする頭で感想を抱いてから、大きな欠伸をしてリオは起き上がった。ほたるは寝かせたままに少し歩いて体を伸ばす。野宿は慣れたが、寝起きの強張った体の不快感は慣れようとも不快だ。全身が凝り固まったような痛みや痺れを引き起こすこともある。それをほぐすようにして前屈をしてみたり、腕や足の筋を伸ばすようなごく簡単な体操をする。

 そうしながら空を眺めた。

 雲が多い。暗いというほどではないが青空は望めそうになかった。

 人斬りは好天には似合わないだろうなと何となくリオは思った。

 今日は何人斬れるだろうかと考えながら、十矢の名工・宗吉にもらった刀を手にして引き抜く。仮想の敵を思い描いて、刀を振るう。喉仏を貫く一突き、肺を刺す一突き、首を刎ねる一振り、足を切り飛ばす一振り。そういった動作を確認するようにリオはしばらく刀を振るったが、調子が出るどころか、ただ疲れだけを感じてきて途中でやめてしまった。今日はあんまり興が乗らない日なんだろうか、なんて他人事のように考えた。

 昨夜が団子だけで食事を済ませてしまったので、朝を迎えると空腹が酷かった。

 これからは仕掛けるだけで、とりあえず食べ物も済んでから貰えばいいだろうと決めて火を起こして器に入れた乾飯(ほしいい)にお湯を注ぎ入れる。そうして食べられる柔らかさまで戻している間にほたるが起き出した。

 味気ない、とりあえず腹を満たすだけの食事を無言で済ませる。

 ほたるの寝起きはあまり良くなく、起きてから少しするまでは静かで落ち着いているというのはリオはすでに知っていた。だから朝食は静かだった。

 腹ごしらえをしてから、リオはそう多くない荷物をほたるに託した。

 まだ何も斬ったことのない新品の刀を抜いて、その刃を見る。綺麗な刃だが、やはり澄水には及ばない。それでも手にはよく馴染んだし、この一本があるのとないのでは安心感が全く違う。澄水を復元させるまでどうにか間に合ってくれればいいと思いながら刀を鞘に納めた。

「それじゃあ、行こうか。……気をつけてね」

「うん、オイラ、あんちゃんの後ろにいる」

「……それはそれなんだけどなあ」

 昨夜見つけた蛇の目の拠点と思しき山城に向かい歩き出す。

 特に見張りらしいものを立てることなく、一見すると放棄された廃墟のようなものではないかとも思えてしまった。石垣は苔むしているし、かつてはちゃんとしていたのであろう城門も朽ちていた。本当にここだろうかと、そんな廃墟同然の有り様にリオとほたるは目を見合わせる。

 打ち壊されて、その上から植物の侵食を受けている門から中へ入る。

 そこも城門の外と変わらなさそうな様相で、そこかしこに雑草も生い茂り、木々もまばらに生えている。城そのものも門をくぐって見上げれば地上2階部分までしか残っておらず、壁も柱も壊れて雨風にさらされて、そこも植物に呑まれかけているのが分かった。少なくとも地上部分をアジトとして使うことはできなかろうとリオは思う。それから地図が偽物だったのではないかとか、地図を読み違えたのではないかと思ってしまった。

「あんちゃん、ほんとにここなの? 人っ子一人もいやしないや。地図間違った?」

「うーん……そうかも?」

「ええ?」

「でも、決めつけるには早いし、こうしてさらに隠してるかも。ちょっと調べてみよう。離れないようにね」

 朽ちていると決めつけていいような天守に念のため入ってみたが、やはりそこに人の気配はなかった。

 打ち捨てられてそのまま自然へ還ってしまった山城でしかない。目を凝らして床を見ても久しく、人が踏み入ったような痕跡はなかった。その代わりに獣のものらしい足跡や、自分達の足跡は残されている。やはりこの天守そのものはアジトではないと見て、それから、腐った床板を踏み抜かないよう気をつけながら門の前の広場まで戻る。

 地上にそれらしい場所がないのなら地下だろうかとリオは考えた。

 思い返せば天丘の遊郭を隠れ蓑にした蛇の目の拠点では、誰も立ち入らないような隠し部屋に山ほどの神器が保管されていた。ここも入念に隠されていることは想像に易い。せめて出入りをする人間がいるならそれらしい痕跡があるんじゃないかと穴が空くんじゃないかというほど地面をしっかり見つめてリオは探し始める。そんな様子を見てほたるも目を皿のようにして観察を始めた。

 そうしてしらみ潰しに端から端まで2人で調べていると、開け放たれたまま壊れていた小さな木戸があった。何の気なしにその向こうを覗くと古井戸があり、それだけかと引き返しかけたのだが、壊れている木戸まで戻ったところで違和感に気づいてリオは足を止める。

「どしたの、あんちゃん」

「……あそこ、ぽつんと井戸があるよね?」

「うん、ぼろっちいからもう水とか枯れてるんじゃない? 喉乾いたの?」

「何かおかしい気がして……」

 木戸から井戸までの景色を眺めてリオは考える。

 地面に埋め込まれた石の足場の隙間からは植物が伸び、井戸までの間の石垣の上にも鬱蒼と木々が生い茂っている。まるで植物のアーチだ。井戸の向こうにも石垣はあるがそこは完全に植物に覆い隠されてしまっている。ほんの短い距離の違和感についてじっとリオは考えていたが、不意にほたるがリオの裾を引っ張った。

「あんちゃん……分かったかも。ここから、あの井戸まで、綺麗なんだ」

「あっ。それだよ、ほたる。――ここだけちゃんと歩けるようになってる」

 他の場所はほとんど植物に飲み込まれるに任せているような状態にも関わらず、ここだけは木戸から井戸までを遮るような植物の障害物がない。だから簡単に井戸が見えてしまう。つまりここだけは人が歩くために道としてかろうじて残されている。

 それに気がついてリオとほたるは緊張の入り混じった視線を互いに交わした。

 恐る恐るリオはまた井戸へ戻っていく。蓋もされておらず、覗き込むと暗かった。しかし井戸の内側に梯子がかけられて降りられるようになっている。ここだと確信して、リオは周囲をちらと確認してからそっと梯子に足をかけて降り始めた。どれほど深いのかは暗くて分からなかった。降りていくとどんどん暗くなり、上を仰いでもほたるがいるのでほとんど何も見えない。それでも慎重に梯子を降りていった。

「ここで終わりだ、気をつけてね」

「うん」

「あと、ここからは、小さい声でね」

「分かった」

 井戸の底へ着いてほたるも降りるのを待って、リオは周りを見た。降りてきた地上は遠く、上を見ても小さな明かりとしか視認ができない。ぐるりとその場で視界を巡らせると微かな明かりがあることに気がついた。暗闇ではぐれないようにほたるの手を掴んでリオは足音を立てないように慎重に向かう。

 井戸の底から細い通路のようなものが伸び、その曲がり角の奥から光が少しだけ見えていた。角のところまで慎重に足音を殺すように向かい、長ドスへ手をかけてそっと角の向こうを覗く。見張りらしい姿はないが篝火が置かれている。その明かりが届いていた。

 もう一度、リオは声を出さないようにと、しーっと唇に指を立てて見せる。ほたるは頷いて、大袈裟に両手で口を押さえた。

 それを確認してから篝火の方へそっと近づく。警戒はしていれども人の気配はやはりなかった。

 篝火は二基置かれていて、そこが玄関のようになっていた。

 踏石があり、敷台があり、踏台、そして畳張りの玄関の間と続いている。古びてはいるが手入れはされているようだった。律儀に履物を脱いでやることもないだろうと勝手に決めて草履履きのままリオはそっと上がる。依然として人の気配はなかった。

 少し進むと地下へ続く階段が現れて慎重に降りていく。

 地下施設のせいで明かりは火に頼るしかないようだった。定期的に篝火が用意されていて、そのどれもがちゃんと炎を燃え盛らせている。定期的に人がちゃんと明かりを絶やさないようにしているんだろうというのが分かっているのにまだ誰とも遭遇しないのが逆に不気味で緊張感を高まらせた。

 しんと静まり返った、地下にあるというのと、古いというのを除けば立派すぎるような屋敷の中をリオは歩く。

 ただの拠点ではないのではないかと今になって思い始めていた。下っ端が集まってゲラゲラとお下劣な話に盛り上がりながら酒を飲むようなところだとばかりリオは思い込んでいた。しかしこう立派な屋敷ではそれこそ三途の使徒という蛇の目の幹部が利用するような場所ではないかと思ってしまう。

 板張りの廊下に出る。ひたすら襖がずらりと並んだ長い廊下だった。縦にも深かったが横にも広いらしいと知り、辟易とする。蛇の目というのはつくづく何なのだろうとも思ってしまった。神器を集めていることは知っているし、その手段を選ばないということも嫌なほど知っている。そしてどうやら天子を亡き者にしたいとも考えているらしい。が、その理由は分からない。どこにでもいるということはそれだけ規模も大きいということで、ではどうやって活動資金を用意しているのだろうかとか、幹部までは見たことがあるが一番上の親玉はどんな人物なのだろうという疑問は残っている。

 廊下を歩いていくと突き当たりには何もなく壁だけが残った。

 そこで振り返り、ずらりと並んでいる襖を見て、ほたるに目配せをする。

 誰かがいるならきっとこの先に違いない。柄に手をかけながら、反対の手でそっと襖を開く。畳張りのただの部屋だった。襖を全て取り払えば大きな宴会場にでもなりそうな作りだった。奥へ奥へと襖を開けて進んでいく。するとまた廊下へ出てしまった。

「ここほんとに人いるの……?」

「僕もそう思い始めてきた……」

 しかし篝火が機能している以上、誰かが管理をしているはずでもある。

 あるいはここは別荘のようなところで普段から使われているような場所ではないのではないかともリオは考えた。少人数だけが屋敷の維持のために寝泊まりをしているだけの場所と言われた方がよほど納得ができる。

 廊下を進み、角を折れて、と歩いていくと徐々に生活感の出てきた。廊下の脇へこれから貼り直すかのような破れた障子戸が立てかけられていたり、掃除道具のようなものが置かれていたりする。天井も少し低くなり、篝火ではなく蝋燭でほのかに照らされている。ようやくの人の気配に緊張感ではなく何故か安堵さえ感じかけた。

 息を殺しながらそっと廊下を進んでいくと、その先の部屋の戸が半開きになっていた。中から明かりも漏れており、そっと近づく。どうやら中にちゃんと人がいるらしく、その話し声が漏れ聞こえてきていた。


「まだ弧峰様がいらっしゃらないのですね。……そう焦らされずともゆるりといらっしゃればよろしいではございませんか」

「手筈通りならば遅くとも昨夜には到着しているはずだ。もう朝になったというのに姿を見せんとはどういう了見か」

 どうやら中には男女がいるらしい。やはりここに十矢で遭遇した蛇の目の衆は来るつもりだったのだとリオは確信する。そして恐らくそれは宗吉の工房から強奪した刀剣をここへ運び込むために。

「神器をくれてやっただけで鼻を高くし、無用な厄介ごとばかりを引き起こす。その程度の小物が丙夜(へいや)地下城へ踏み入ることを許されたというのに遅参するとは度し難い」

「そうカリカリされても仕方のなきことですよ。よろしいではありませんか、静かで。わたくしと2人きりはお嫌でございますか?」

「そういう問題ではない」

 聞こえてくる会話にリオとほたるは耳をそばだて、顔を見合わせる。

 しかし何を話しているのか、戸を一枚隔てているとよくは聞き取れなかった。リオの腰の帯に捕まったままほたるはよく聞き取ろうと戸に顔を寄せようとし、リオが押される形になる。下がってと腰で押し返そうとするがほたるは気にしない様子で静かな押し合いが生じた。ほたるは聞き取ろうとすることに必死で、リオは変な姿勢になってしまって姿勢を保つのに必死になる。

 その結果、ほんの10秒ほどでリオは足を滑らせた。草履から足がすっぽ抜け、つるりと体が飛び出たかのように僅かな隙間だけ開いていた戸板へ両手をつき、その勢いで倒れ込みながら戸板を壊してその部屋に倒れ込んだのだ。ほたるもまた支えを失くしてリオの背へ重なるようにして倒れ込む。

「何奴だ!」

「ほたるが押すから……!」

「あんちゃんがこらえないから――」

 言い合いかけたほたるが顔を上げ、中にいた男を見る。

 動きが止まったことにリオも気づいて、その男を見たが傍らに置かれていたらしい刀を掴み上げてすでに抜いているところだった。ほたるごと慌ててリオも起き上がって刀を抜き放つ。鋼の刀同士がぶつかり、そのままリオは押し飛ばされてたたらを踏む。

「ほたる、その人!?」

「ち、違う……!」

「違うの……!?」

 だったらここにはほたるの母の仇はいないかも知れない。

 他にもこの地下空間に人がいる可能性は考えられるものの、ここまで誰とも遭遇しなかったことを鑑みるに望みは薄い。

「小僧が2人……? 迷い込んだとしても許さぬ。土足で小僧の踏み行って良い場所ではない!」

「あんちゃん!」

「下がってて、邪魔!」

 中にいた男は厳しい顔つきの中年だった。髪には白いものが混じり、色は白いが体つきは着物の上からでもしっかりしていそうだと最初の一手でリオは直感した。それから座敷の奥を見て色っぽい女が他人事のように見物するような視線を向けてきているところも把握する。怯えるでもなく、しなやかな細い指で煙管を持って紫煙を燻らせる姿には浮世離れした余裕とでもいうかのようなものをリオは感じ取ってしまう。

 だが確実に物好きな隠居生活をしている夫婦ではないということだけは確信を持てた。


「蛇の目の隠れ家で、合ってますよね……?」

「ただの迷い子ではないと言うつもりか?」

「いや、ただ……蛇の目なら、いくらでも斬り捨てていいから」

「恨みでも抱いていると? 笑止、貴様のような小僧が(なまくら)を一本持って何ができる?」

「人斬り」

 迷いなく答えるとともにリオは刀を逆手に握り変えて腰の裏へ回し、一息に腕ごと振り上げるようにして切りかかった。腕で刃を隠して迫る切り上げに男は僅かに目を細めた。刀の長さを隠すのみの小技と男は見切る。しかしすでにその刀身の長さは見ている。何なく対処はできると踏んで応じて、少し後ろに重心を下げて顎を引くだけで完璧に躱して見せる。小賢しい知恵にすぎぬと切って捨てようとしたが、刹那にあらぬ方向から白刃が迫った。どこへ隠し持っていたのかと瞠目させられる。何故か左手に握られた刀をリオが振り切ってきていたのだ。咄嗟に男は己の刀を持ち上げて防ごうとしたが、まるでそれをすり抜けたかのように刃は肘の下へ忍び込んできて切り飛ばす。その痛みが追いつく前に男は気づいた。初めの刀を隠した一撃は無手であった、と。体の後ろへ刀身を隠したと思わせておいて、反対の手に移し替えていた。ただ思いつくだけならば可能でもそれを完璧に実行してきた腕に男は何より驚かされる。

 肘の少し下を切り飛ばされた男が、その切断面と転がった腕を見る。冷静そのものな態度にリオは油断なく(きっさき)を向ける。と、煙管を片手にのんびり眺めていた女が男へ寄り添った。自分の着物の袖へ犬歯を立てて細く引き裂くとそれで男の腕を止血するように縛る。

「巳影様の仰られていた無迅殿というのは確か、このような(わっぱ)という話ではなかったでしょうか?

 一見すると鼠か兎かという小さくて可愛らしい子どもで、白鞘の刀を持って、刃を振るえば悪鬼羅刹かの如くなり――は言い過ぎかしらね」

「なるほど、言われてみれば確かに……。天丘にて巳影様に深傷(ふかで)を負わせ、一颯様までもを一度殺したという、あの無迅か」

「……深傷? 一度?」

「あら、知らなかったのかしら、坊や。巳影様も一颯様もご存命よ」

 女が柔らかな笑みを浮かべながら言い、リオはぞっとした。

 巳影は確かに深傷を負わせ、燃え盛る屋敷に捨て置いた。トドメを刺さずに焼け死ぬ苦しみを与えようとしてのことだった。まだ、巳影の生存は信じる材料がある。だが一颯は別だった。文字通りに無迅が身命を削って、澄水を犠牲にしてまで確かに倒したはずだった。それがまだ生きているというのはにわかに信じられない。

「お会いしたいのなら、これから巳影様がいらっしゃるはずだけれど……どうしたい?」

「口を閉じていろ、(いち)

「差し出がましい口をお許しくださいまし。これしかできぬ女の身ゆえ」

「動揺しているのか、小僧。気味の悪い引き攣った笑みを浮かべているぞ」

 男の指摘にほたるがそっとリオの顔を窺う。

 しかしリオが自分の顔を確かめるためとばかりに片手で口元を覆ってしまっていた。そうしてリオは確かに無意識に口元を歪めていたことに気がつくが、その理由は思い至らなかった。

「噂は張子の虎だったか。――つまらぬ幕引きだ」

 片手で男が刀を構える。狼狽している様子のリオを戦意喪失と見て一思いに斬り捨てにかかった。

 しかし無造作にリオが刀を振るい、それを打ち払った。まるで心ここに在らずといった無感情な動きで、そのまま男の喉笛を切り裂く。大量の血を噴出しながら男は絶命する。

「……その人、神器こそ使えなかったけれど腕を見込まれて丙夜地下城の守人に選ばれたのに。あっさりと斬り殺してしまったのね」

「ここにある神器はどこ?」

「……廊下の突き当たりの壁に隠し戸があるの。下に置かれている花瓶を右へ倒すと、壁が回る戸に変わるわ」

「何ですんなり教えてくれるの……?」

 素直に答えた弌にほたるが小さな声で疑問を口にする。と、彼女は微笑んだ。

「だってわたしはただの、お世話役だもの。求めるもののあるお客人に、求めるものをお出しすることが務め。……あなた達は本来お相手をするお客様ではないけれどね」

「行こう、ほたる」

 刀の血を飛ばして鞘に納めると、リオは無防備に弌へ背を向けて部屋を出た。

 言われたように廊下の突き当たりまで行くと下に花瓶があり、それをほたるがそっと動かすと何かのレバーであるかのように右にしか倒れないようになっていた。それを倒してから壁に触れると動き、押しながら中へ入るとそこは土が剥き出しの倉庫のようなところになっていた。

「何これ、すご……。あんちゃん、これが目当てだったの?」

「うん。持てるだけ持って行こう」

「何か泥棒みたい……」

「これだってほとんど取り上げたものだよ、きっと。……ほたるのお母さんの仇だけど」

「いないんじゃ、しょうがないや。……それにあんちゃんが、さっきのやつ叩き斬ったの、ちょっと胸がすいたし。あとあんちゃん、何かさっき、生きてるとか言われて どうかしたの?」

「何でもないよ、大丈夫……。早く帰ろう」

 天丘の遊郭にあった隠し部屋よりもここは広かった。

 しかしその分、物品は綺麗に整頓されて並べられており、片っ端からリオはかき集めていく。風呂敷は何枚か持っていた。いつか川端屋という旅籠屋で真っ赤な嘘の同情話によって胸を打たれた人々に貰ってしまったものだ。包むことだけが最大の懸念だったが意外にもほたるが、リオの持ってきたものを綺麗に包んでいく。

「これ……まとめたけどあんちゃん持てる?」

「……重そうだね」

 風呂敷包みがとりあえず5つできたものの、持っていけるのは絞らなければならなさそうだった。

 とりあえず危険物であろうという刀剣類をまとめた細長い包みをリオは背負ってみるが、それだけですでに重心を引っ張られるほどの重さである。風呂敷に包みきれない分は上からはみ出しているため、これを背負って地上へ出ていくだけでも苦労しそうなほどである。

「それとそれ、ほたる、持てる? 片方、背中に持って、もう1個は手で持ってさ」

「ええ? 重そう……」

「お願い、お団子あげたでしょ?」

「んん……じゃああんちゃん、おいらと一緒にちゃんと鶴柴まで来てくれる?」

「それくらいなら……」

「約束ね、あんちゃん。……ふう、いよっ、ととと……」

 大きい方の風呂敷を持ち上げた拍子にほたるがよろめき、リオがそれを手で支える。もう1つの風呂敷もほたるは持ち上げるが、片手どころか両手で抱えないと持てないという様子にリオは少し不安視する。

「大丈夫そう……?」

「持てるもん、これくらい! ほら、行こ、あんちゃん。……でもたまに、持つの代わって」

 そうしてどうにか倉庫を出て先ほどの部屋の前を通りかかり、中を覗くと弌の姿はなくなっていた。男の死体はそのまま放置をされている。どこへ行ったのか気にはなったが、嘘か本当か、巳影がここへくるという言葉をリオは覚えている。一度は下したがそれは無迅の口添えという助言があってのことと、あの時は激情にも駆られていた。その上、神器も最初に用いて、どうにかこうにかという結果だった。今出会って、また勝てるとは思えない。早く遠くへ逃げたかったので弌のことは考えないようにして地上を目指した。


 生活感のある廊下から襖で区切られている座敷の間を通り抜けていく。

 早く地上へ、と急ぐ気持ちはあっても背中の荷物は重かったし、ほたるも大荷物に苦戦をしている。これほどの大荷物で帰りの山道を辿れるだろうかという不安はあったが、今は少しでも急ぐということしかできなかった。

 そうして座敷を抜けかけた時、廊下へ出るとそこに弌がいて伏していた。

 三つ指をついて廊下の出入口方面に(ぬか )づいているのだ。


「――おかえりなさいませ、巳影様。

 丁度、無迅殿がお客人としていらっしゃっております」

「火途の巳影――」

 そこにいた白髪の男にリオは息を呑んだ。

 まだ若い青年といった年頃であるのに真白の霜が降りたような髪。

 白い羽織には蛇の目の紋が印されている。袴をつけている腰には朱塗りの刀。

 何度かリオがやりあった時の傷が巳影にも刻み込まれている。左目はかつて妖刀シャガを巡り対立した際に切り裂かれているため、今は黒い革の眼帯で塞がれていた。

 凍てつくような冷たい隻眼で火途の巳影もまた、襖を開けてきたリオを見つめていた。

「丙夜地下城へ乗り込んできたか。一颯を大剣客がやったそうだな。

 そして今度は神器の強奪か? 手に余るものばかりであろう。命一つ置いて逃げ帰るか、今度こそ死ぬか、どちらがいい?」

 刀に手をかけながら巳影が問いかけるものの、選択肢などはない。

 背の荷物を下ろそうとしたところで、背後から荷物の落とされる物音を聞いた。

「おっかあの、仇……」

 震えるような声をほたるが出し、リオが振り返ろうとするが入れ違うかのようにほたるは駆け出していた。

 どこへ忍ばせていたのか、匕首(あいくち)を握って巳影に突進していく。慌ててリオはほたるの後ろ襟を掴み止め、その勢いでほたるは足を滑らせて尻餅をつく。

「おっかあのこと殺したのはお前だ! おいらが殺してやる!」

「知らん。が、殺したのなら邪魔だっただけだ。失せていろ」

「お前――!」

「ほたる、こいつはダメだ、本当に殺される!」

 抱き止めるようにしてリオはほたるを抑えながら巳影を睨みつける。

 平気で人を人とも思わず殺し、それをいちいち記憶すらしない巳影の残酷さをリオはすでに知っている。だがほたるの母の仇にまでなっているとは思っていなかった。言われれば巳影の顔は爬虫類を彷彿とする。リオからすれば蛇のようであるが、蜥蜴と言われても大差がない。

「放せ、放せよ、あんちゃん! こいつが、こいつがおっかあの!」

「ほたるじゃ死ぬだけだから大人しくして! 僕だって、こいつは大嫌いだから――僕がやるから」

「っ――あんちゃん……」

 耳元で言われた言葉でようやくほたるは少し我に返った。

 巳影を見据えるリオの顔に憎悪の色が表れているのを認めて、ほたるは匕首を握る手の力を抜く。

「大剣客はどうした? 無迅を出せ」

「もういない。……一颯をやって、消えた」

「いない……? ふ、やはり愛想を尽かされたか。

 一颯は貴様を気に入っているらしいが、俺に言わせればたかが小僧の一匹。

 柊尋岳(とうじんがく)に無迅が出たと報せを受けているが、別の宿主にでも取られたか?」

「それは僕だ。柊尋岳で蛇の目を殺した。……弱っちかったけど数がいたから、ちょっと楽しかったよ」

 暴れなくなったほたるを確認してからリオはそっと放して、改めて背の荷物を下ろした。

 それから前へ一歩、二歩と出ながら腰の刀へ手をかける。

片端(かたわ)ではない、か。なるほど、読めた……。貴様が赤き霊薬を手に入れたのか。

 どこまでも邪魔をしてくれるものだな」

「赤き、霊薬……?」

「一颯は貴様の右腕はひしゃげたはずだと言っていたのに、綺麗にくっついている。

 柊尋岳山頂の狗妙坊(くみょうぼう)が守る、万能の仙薬。それが赤き霊薬だ。

 俺の部下は三度、柊尋岳へ向かい、戻ってこなかった。だが四度目で山頂へ辿り着けば狗妙坊らしい死体が転がり、霊薬は消えていたという。そこで現れた、腕を生やした小僧――貴様だ」

 柊尋岳でリオは確かに死にかけの身となった。その際に毒かも分からぬ、不死身の怪物の守っていた薬を与えられたとも聞いた。そして目が覚めたら腕が生え、全身のそれまでに負っていた傷も消え去っていた。

 そういえば、とリオは思い出す。弧峰と戦った際の傷がすぐに癒えたことを。痛みは傷のあったところへしばらく残り続けていたが、それもいつの間にか消え去り、最初から手傷など負っていなかったかのように綺麗になった。

「まだ赤き霊薬は残っているのか?」

「そんなの答える必要ない」

「残っていようがいまいが、最早、どちらでも良いか。

 長話でもしていれば突然に牙を剥いてくるかとも思っていたが、本当に大剣客はいないようだ。

 ならばもう、貴様に興味はない。ただここで――死に果てろ」

 巳影が刀を抜くと同時、一帯の空気が瞬時に乾燥し、次の瞬間に激しい熱波が広がった。

 しかしそれは単なる副産物に過ぎない。刃は激しい灼熱の中から躍り出るようにしてすでにリオへ迫っている。

 刀で受けるとともに身が焼かれる。その怯んだところを押し込まれ、最初に広がった炎が紡錘状に凝縮されて形を作って牙を剥く。

 それは最早、質量を持った炎である。床を打ち砕くとともに焼き焦がし、飽き足らずに火をつける。この地下空間がどうなろうと構わないのだと悟り、床を転がるようにして最初の蓮撃をかろうじて回避したリオは息を呑む。

 巳影の立つところを越えなければ地上に通じる枯れ井戸には辿り着けない。ただそこに陣取り、火を放てばそれだけで焼け死ぬか、酸欠で死ぬか、あるいは火事のせいで柱か何かが焼け落ちて生き埋めなんてことにもなりかねない。そうなれば助かることはない。

「あんちゃん!」

「ほたる、荷物なんかいいから隙があれば自分だけで上へ逃げて。

 巳影(あいつ)をどうにか食い止めるか、引きつけるかするから。分かった?」

 駆け寄ってきたほたるにそう言い聞かせるが、不安からか、別の気持ちに由来するものからか、ほたるは顔をこわばらせて返事をしない。

「ほたる?」

「おいら、おいらも何か……」

「ないよ、何も。邪魔になるだけだから、逃げてくれた方がいい」

「でもあんちゃんを置いてくなんて」

「ちゃんと後から追いつくから。……それに今度こそ決着をつけないと。

 もうあの男と斬り合うのは3、4回にはなるんだけど、本当に許せないやつなんだ。

 ほたるのお母さんの仇ってだけじゃないんだよ。大勢殺してる、残酷なやつだから……生かしておけない。

 ちゃんと一緒に鶴柴まで行くって約束したでしょ?」

「……分かった。約束だよ」

「うん」

 ほたるが数歩小さく下がる。すでに炎が畳から柱へ燃え移りかけている。

 その炎と煙の向こうで巳影は逃げ道を塞ぐかのように立っている。この場から完全に火が回る前に逃げ出さなければ勝敗に関わらず死ぬ。状況は非常に不利そのものだった。

「……やっぱり熱い」

 ぼそりとリオは呟いて刀を握る自分の手の甲をちらと見た。

 まるで熱を感じていないかのように無迅は素手で炎を散らすかのようなことをして見せていた。だがやはり熱いし、その熱の痛みというのは反射的に体が逃げようとしてしまうものだ。意地と気合でどうにかするしかないのだろうと考えながら、それも無茶がすぎると冷静に考えてしまう。

「威勢がいいのは口だけか、小僧?」

「……そっちこそ。それで終わり?」

「無駄に力を使うこともない。貴様程度は火の海へ放り込めばすぐに終いだ」

「そういえば……言い忘れてたけど、大剣客、大剣客って無迅のこと言ってたけど、僕は二代目だ」

「人斬りの襲名など聞いたこともない。まして偉大な初代に比べれば二代目、三代目などは搾りカスも同然。名如きが一体どうしたという?」

「僕は二代目人斬り無迅。

 天下にその名を轟かし、泣く子ははしゃぎ、悪党は小便ちびって腰をつく、天下無双の大剣客、二代目無迅の名は――誇りだ」

 逆巻き唸る炎の先の巳影に向かい、光を反射し輝く白刃を向けてリオが宣言する。

 それは小動物同然の普段の少年の姿とは異なるものだった。

「御託はいい。かかってこい、小僧」

 冷淡に巳影が返す。

 見下していながら油断はない。それは巳影の性分に近いものだった。

 相反するものを何故か身の内に同居させるのが火途の巳影という男である。

 炎熱を支配し、掌握する巳影の神器・赤光(しゃっこう)は炎による暴力の具現化とも言える。しかし使い手たる巳影は人としての熱量をほとんど表に出さず、情けをかけぬ冷酷を絵に描いたような人間である。

 赤光という神器は巳影の手に渡るまでも多くの使い手がいたが、そのいずれも力に溺れて身の内から生じた激情によって焼死するような末路を遂げてきた。使い手を破滅させる呪われた神器とまで呼ばれ忌避されていた。記録に残っている限り、使い手はこれを振るって長くとも5年の間に凶暴な人格に変貌していくかのように狂っていった。だが巳影はすでに赤光を振るい、10年になろうかというほどである。生来の冷めきった人格に変化はない。

 蛇の目としての規律や命令に従順な一方で、おおよそ人道と言うべきものは初めから存在しないかのように何でもする。

 一見すると寡黙で理性的でありながら、行動を起こせば暴虐を厭わない。

 唯一と言って良い執着を見せるのが殺し合いであり、強者との対峙を好む。一度、強者と認めれば相手に敬意を抱くが、しかして己が負けるとは想像をせずに相手を食らい尽くすとばかりに苛烈に殺し合える。――しかしそれさえ、己が勝てば数秒で興味を失うのが常である。

 そういった相反する性質をいくつも併せ持つのが火途の巳影だった。


 一度、鞘へ納めた刀を居合いのように振り抜く。

 それを巳影は己の刀で受け止め、鋼が擦れて散ったかすかな火花が瞬時に膨れ上がるようにして巨大な爆発を起こす。爆炎に隠れるようにしてリオは側面へ回り込み、跳び、柱を蹴ってほぼ真後ろから斬撃を叩き込もうとする。だがそれを察知して巳影は片足を下げるのみで体を開いてまた受け止めて、そのまま押し込むようにしてリオを弾き飛ばした。

棘炎一把(かくえんいっぱ)

 押し固められた炎が追撃にかかる。どうにか起き上がれたリオがそれに刀をぶつけるが、それとともに爆散して再びリオを吹き飛ばす。全身にぶつかる凄まじい熱とその痛みは一撃で意識を刈り取ろうとしてくる。

 仕掛けても防がれるだけでダメージを負い、さらに追撃を受ける。かと言って攻めあぐねていればいずれ丙夜地下城に火が回って時間切れで死ぬ。不利どころか勝ち筋のない一方的な戦いにしかなりようがなかった。

「……やはり、名ばかりか。誇りが聞いて呆れる」

 吐き捨てるような巳影の声はすでにリオには届いていない。

 すでに目の前は赤い滲みを伴って掠れてしまっている。吹き飛ばされて殴打した頭から血は垂れ、浴びた炎のせいで皮膚は焼け爛れ、周囲の炎の赤色も伴って全てが赤味がかっている。思考さえもすでに剥ぎ取られかけている。

 それでも刀を杖のようにして体重をかけながらようよう立ち上がり、斬らねばならぬ巳影(てき)を見据える。

 すでにほたるを無事に逃そうということも忘れている。

 巳影へ抱く憎悪も、嫌悪も、恐怖も、最早感じてはいない。

 ただそこにいる男は斬るべきものであるという思い込みめいたものによって動いている。

 すでに勝敗は決したと見て、巳影は刀を縦に持つ。周囲に無数の炎が凝縮されて形成されていく。その数は十を超え、五十より増え、百までは数えさせた。ただただ巨大な炎の群れによる壁が巳影の背後に立ち上る。

「消えろ、大剣客の絞りカス。棘炎百把(かくえんはっぱ)

 淡々と、無情に、巳影はそれを一斉に放つ。

 大物量と大火力が空間を余すことなく食い尽くすようにして迫り来る。

 その光景をリオは見たことがあった。深森という里で初めて巳影と対峙した時にもこの技が使われた。

 これを前にして無迅も引いた。しかし巫女の法力によってそれは防がれたのだ。――それがリオの脳裏で蘇った。

 噴出したのはその戦いの後に残された、虚無感にも似たやるせなさだった。仲良くなった巫女の姉妹の死や、己が使命に殉じた彼女達が理解できぬという気持ち。そこから紐づくようにして無迅との思い返せば長いようで短かった旅路も蘇った。

 斬り合いと女と酒に目がなく、下品で自分勝手で、馴れ馴れしく人の気にしていることを指摘する配慮のなさ。

 走馬灯そのもののようにして次から次へと、あるいは一瞬で膨大な、思い出が頭の中に溢れ出す。そうしてリオが最後に思い浮かべたのは乱れ波紋の美しい一振りの刀――澄水である。水に濡れたかのように美しい刀身には、どうしてか心を掻きむしりたくなるような衝動さえ抱かされた。

 直したかったと思った。

 もう一度だけでも握りたかったと願った。


 紅蓮一色の炎が迫る寸前で、リオの懐が熱を持った。体を焼くような苦痛の熱ではなかった。壊れてからずっと大切に持ち歩いていた砕けた澄水の欠片が熱と輝きを放った。その光にリオは気がつけない。

 輝きを強めたそれはリオがかろうじて取りこぼさずにいる刀へぶつかるようにして入り込み、その刃がギラリと光を放つ。

 そこでようやくリオは握っていた、宗吉にもらった刀に何か異変が生じたと悟った。

 それとほぼ同時、骨さえも瞬時に焼き尽くすかのような業火が小さな体を呑み込んだ。


 ▽


「……ひっ」

 その熱と光が過ぎ去り、呆然としていたほたるは自分の体を鋭く貫くような感覚に気づいて巳影を見て息を呑む。

 死人のような熱のない冷たい瞳に射抜かれて腰が抜けて尻餅をつく。

 しかしまるで興味がないとばかりに巳影は刀を納めて、ただ往来を歩くかのように踵を返して歩いていく。ずっと傍らで眺めていた弌がその三歩後ろを淑やかに追随していく。

 炎の海が広がる丙夜地下上の大座敷に取り残されてほたるは首を巡らせる。

 リオが途方もない炎に飲み込まれてしまった。炎はそのまま奥まで床や天井を抉り潰すような痕跡と、飛び火させた炎だけを残している。その炎を呆然とほたるは眺めるしかできない。あんな大火に襲われて無事で済むはずがない。しかしこうもあっさりと目の前で人が死ぬのだろうか、平時は鈍臭くて少し頼りなさそうながらも刀を抜けば人が変わったかのような強さを見せたリオが死んでしまうものだろうか、そんな気持ちで、しかしやはり命があるはずもないじゃないかと、燃え盛る炎を眺めて目紛しい思いが渦を巻く。

 何もかもが信じられないの一言に尽きた。

 そのせいで感情が追いついてこない。

 状況を理解できずに、ただただ目に入る情報を脳に映すことしかできない。


 焼け落ちた(はり)が二部屋向こうで落ちる。

 炎が上がる。煙が上がる。着々と酸素は減り、二酸化炭素が満ちていく。

 もう間もなく火が回る前に酸欠で死亡しかねない危険な地下の空間で、ほたるはただ腰を抜かして呆然と炎の海の向こうを――リオが消えたところを見続けていた。

 しかしそうしていると、ただただ燃え盛るばかりだった炎の向こうに何か揺らめく影のようなものをほたるは見つけた。最初は微かなもので、だんだんとその像がはっきりして目を疑う。知らずにこぼしていた涙さえ、大火の海に囲まれてはすぐ蒸発してしまっている。ゆらゆらと、それは左右へ揺れるようにしながら、しかし確かに近づいてきていた。

「……あん、ちゃん?」

 喉が乾燥してうまく声は出なかった。

 そのせいか、ほたるの呼びかけにそれは応じる様子がない。

 しかし近づいてくる。厳密にはほたるの方へ歩いてきているわけではなかった。ただ前進して歩いているだけだが、それでも距離は近くなる。いまだに腰が抜けているので、這うようにしながらほたるは先ほどまで巳影がいた方へ進む。

「あんちゃん……? あんちゃん!」

 炎の中から出てきた姿を確かに見て、ほたるが呼びかける。

 リオが片手に抜き身の刀をぶら下げたまま幽鬼のように歩いてきていた。

 まだ燃えていない柱へ捕まり、足を叩いてどうにか立ち上がってほたるは歩いてきたリオへ走り寄る。

「あんちゃん、火に呑まれたのに無事だったの!? 良かった、良かったよ、ほんとに、ほんとに生きて――あんちゃん?」

 ただ困惑に塗れていた心が歓喜に変わったのも束の間、ほたるは間近でリオを見て再び不安の色を出す。

 ほとんど焼け落ちた着物のみならず、その体は赤く火脹(ひぶく)れをし、血に塗れている。目も半ば閉じかかり、歩いているのに意識があるかさえ傍目には判然としない。むしろ意識などないとほたるは決めつけた。

 ぼろぼろの、刀を握っていない方の手を掴んでほたるは火の手から逃れるようにして引っ張る。すでに巳影も弌も立ち去った。地上にはまだいるかも知れないが、せめて枯れ井戸の底まで辿り着けば火と煙に巻かれずに助かると思った。

「急いで、あんちゃん! 焼け落ちちゃうよ!」

 引っ張ってもリオが倒れそうになるので、ほたるは後ろから腰を押すようにして急かす。

 とにかくまだ生きていたのだから、少しでも助かる場所へ逃げようという一心でほたるはリオを押し歩かせた。

 しかし玄関のような間口まで戻ると、そこに隻眼の剣士はまだいた。


「――しぶといな」


 虫螻(むしけら)を見るような冷たい目で、無感情に巳影が言葉を放つ。

 ほたるの足が止まる。――今度こそ、ここで確実に殺されるとほたるは直感したために。

 だがその声がかけられて足を止め、思考も止まったほたると異なり、リオがいきなり動いた。血と煤の足跡を板張りの床につけながら巳影へいきなり迫ったのだ。

 焦りの色一つ見せずに巳影も鮮やかな朱塗りの鞘から刀を抜き放ってリオの振るった刃を受ける。火花が爆ぜる。――はずだった。

 刀を受けるとともに爆発を起こして相手を吹き飛ばすのは巳影の常套手段である。切り結ぶまでもない格下と断じた相手を容赦なく、容易く蹴散らすためのものである。だがその爆発が起きず、刃がかち合ったかと思えばすぐに切り返される。後ろへ下がってやり過ごし、反撃に出ようと軽く小さく刀を持ち上げたが、それを振り下ろす前にリオの刀が突き出されていた。それを防ぐべく腕を引いて再び赤光で受けるが、またしても火の粉は散らずに爆発を起こすことができない。

 剣戟が二度、三度と続く。

 それは神器を用いぬ剣術による戦いの様相を成していた。

 突けば逸らされ、振ればいなされ、薙げばかち合う。今にも倒れそうなほどで腕力(かいなぢから)もろくに感じられないのに、柳に風とばかりに手応えがない。それならばと巳影はまともに打ち合うことを切り上げて、特異な剣へと切り替える。それは軌道を読ませぬ奇怪な剣だった。刃を合わせるタイミングを技巧によって遅らせたり、もう片手に剣を持ち替えて振るったり、流麗に翻弄することで経験に頼って剣を振るう相手の虚を突くことを主体とした剣術である。あるいは剣舞のようでもある。舞うかのように軽い足取りで、流れる水のように流麗な動作で繰り出される刃。

 それでもリオはかろうじて対応をする。

 不意を突いたはずの一撃をぎりぎりで躱そうとして、肉の表面だけを切られる程度で済ませる。

 ろくに動かせない足を狙った一振りに足を上げて避け、姿勢を崩しかけたところを攻めたのに後ろへ倒れながらも刀で受け止める。

 しかしここまでと巳影は赤光によって炎を発した。打ち合いで爆発を起こすことはできなかったが、それとは別にただ炎を出して操ることはできた。

 姿勢を崩したリオへ向け、大上段に巳影は刀を振り上げる。刃に炎が這う。刀を受け止めたとて、炎はそのまま雷のように落ちて焼く。

雷火一轟(らいかいちごう)

 確実に仕留めるべく、巳影が刀を撃ち落とす。

 左手を後ろについて体を支え、右手で刀を横へ持ってリオは受け止めようとしている。片腕で受け止め切れるものでなければ、追随する炎が確実に焼き尽くせると巳影の脳内はすぐ計算をする。しかしリオの握る刀に無意識に注目し、巳影はこれでは終わらないと直感した。

 しかし中途半端では即座に反撃を食らう。

 例え失敗しようがやり切らねばならないとそのまま行動を完遂にかかる。

 渾身の力で叩き落とした赤光がリオの刀にぶつかる。ぎゃりんと刃が滑らされていく。受け止めず、受け流されていく。しかし巳影の刃に纏わりついていた炎はそのまま直下へ落ちていく。斬り殺せずとも、焼き殺せるか。あるいは――と巳影は冷静に、観察をしている。その予感が的中する。

「砕けたのではなかったのか。

 その刀は――()()()大剣客を宿すのみの神器ではなかったのか」

 一度見れば見間違うことのない乱れ波紋の曇りなき刃――紛うことなき澄水の姿に思わず巳影の口が動いた。

 受け流された刀がリオの横へ滑り落ちていく。

 脳天から焼き尽くすはずだった炎が、澄水の刀身へ触れた途端に熱を失い、触れたそばから消えていく。

 水の中から取り出したばかりかのような、濡れて見える美しい刃がリオの手首を基点に後ろへ角度をつけて引かれている。そして、手首と腕の可動域いっぱいに振り出された。

 ぼたぼたと血をこぼしながら巳影が後ろへたたらを踏むようにして下がった。

 血飛沫が床から壁まで線を引いている。

「……面白い。

 認めてやろう、二代目無迅と。

 次に(まみ)えた時は初めから本気で相手をしてやる」

 リオが切り裂いたのは巳影の左目のあったところだった。眼帯を切り飛ばし、眉間から左頬までを切り裂いていた。奇しくもそこはかつて無迅が与えた手傷と同じだった。

「それまでは、その命を預けてやる。

 せいぜいつまらぬ邪魔を受けて死なぬことだ」

 リオは起き上がれず、尻をついたままでいる。顔は伏せられ、意識があるかどうかは依然として定かな様子ではない。体が追いつかぬために動かないのだと巳影は見ている。

「弌、許す。小僧どもを飛ばせ」

「仰せのままに」

 奥に控えていた弌が静かに応じる。

「やい! 逃げんのか!」

「逃がしてやると言っている。口には気をつけろ」

 飾り尾のついた木の扇を弌が取り出して広げていた。リオに駆け寄って唾を飛ばしたほたる達へ広げた扇の先を向けて、涼やかに彼女が微笑を浮かべて振り上げると強い風が2人の真下から吹いた。体が浮かび上がりそうなほどの強い風に慌ててほたるはリオの体へしがみつく。

「さようなら、また会う日まで」

 そう弌が囁き、バチンと音を立てて扇を勢いよく閉める。

 その瞬間にリオとほたるの姿はその場から消えてしまった。


「よろしかったのですか、見逃してしまって。

 いくらお楽しみのためとは言えど、あの子の牙はいささか尖りすぎでは?」

「無駄口を叩くな」

「お許しくださいまし。下賤な女の身ゆえ、巳影様の胸中をお察しできず」

 黙って巳影は左目のあった場所を片手で押さえる。

 もう消えたはずの無迅がそこにいたかのように巳影は刹那だけ感じた。

 渾身の一振りを防ぎ切られた、その直後に。

 左目のあったところを深々と切り裂かれながら、リオの中にいた獰猛な、そして虎視眈々と探った隙を見つけてニヤけたような大剣客の姿を幻視してしまった。技量はまだ遠く及ばないながら、しかし巳影が強者と認めて、斬り合いを望んだ大剣客無迅の残滓がリオの中に芽吹いていると見つけてしまったのだ。認めざるをえなかった。

「……丙夜地下城の宝物殿は無事か」

「はい。あの子達が持ち出そうとしていたのはとうに力を失ったとされる神器の残骸……がらくたにございます。保管しておりました神器は宝物殿の中に残されております。そちらは無事のはずです」

「ならば良い。丙夜地下城は今をもって放棄する。

 弌、貴様は別の拠点へ向かい、神器番の任を続けよ。

 新たな宝物殿を早急に拵えた後、そこへ丙夜地下城の神器を移せ」

「かしこまりました。それまではこの地へ?」

「じきに焼け落ちるだろう。地中深くへ埋れればそう簡単に見つけ出されることもない」

「委細、承知いたしました。巳影様はどちらへお送りすればよろしいですか?」

「不要だ。歩く」

「しかしその顔のお傷では」

「不要と言った。失せろ」

「……かしこまりました。では、これにて失礼いたします。どうぞ、お達者で」

 深々と巳影に一礼をしてから再び弌は木の扇を広げ、また大きな音を立てて閉じた。そうして彼女の姿は消え去り、巳影は左目を押さえていた手を放して残されている右目で血に濡れた手を見つめる。

「あの刀。確かに澄水であったが、砕けたという話は嘘であったか……。いや、どこへも隠し持てるはずもない。

 つまらぬ嘘ではなかったのならば……神器がひとりでに直った、というのか?

 それに赤光の火を触れるのみで即座に消した力は以前はなかったはず。

 ひとりでに戻り、更なる力を宿すなどにわかに考えがたいこと。

 神器が新たに創生されたのならば有り得ぬ話ではないが……いや、渡人(とつびと)でなければ神器は生まれぬはず……」

 殺し合いの後の興奮は巳影にない。

 しかし考えが口へ出るほどには目の当たりにしたことについて疑問が尽きなかった。


「あの小僧が、この世ならぬ世から訪れた、渡人――?」


 そんな結論に行き着きかけて、巳影は眉根を寄せる。

 そしてすぐに首を振った。どうやらよく分からぬ興奮状態にあり、正常に頭が動いていないのだと彼は決めつけた。


 ▽



 遠く、遠く、水平線が見渡せる海岸だった。

 静かに打ち寄せるさざ波。光を反射して小さな煌めきを繰り返し続ける水面。

 白い砂の浜辺でリオはようやく意識を取り戻し、それから全身の引き攣るような痛みに顔を顰め、それさえも顔面に痛みをもたらした。意識の覚醒によって追いついてきた激しい痛みに小さく呻く。

「あんちゃん? あんちゃん、起きた!?」

「……っ……ん、うん……」

 声がしたかと思うと目前にほたるの顔が出てきてリオは声を出すのも辛かったので小さく短く答える。それからようやく、自分の頭がほたるの伸ばして座っている足へ乗せられていたことに気がついた。

「あんちゃん、どっか痛い? 苦しい?」

「……うん……」

「どこ痛い? さする?」

「喋るの、つらいから……そっとしておいて……」

「分かった! ……痛い? あっ、別に答えなくていいから、喋れないならいいから。でも痛い? けどあんちゃん、傷がもうすっごい薄くなってる。(あぶく)が立ってんのちょっと気味悪かったけど……あんちゃん、何なの?」

「……さあ?」

 正直なところを正直に、分からないと表明するようにそうリオは答える。

 しかし巳影が赤き霊薬という言葉を出した。恐らく柊尋岳でそれは自分の身に入ったのだろうとまでは考えているが、その効果が長続きするものとは露ほども思ってはいなかった。だがいつまでこれが続くかというのも分からない。それにいくら傷が治るとて痛みは残る。仕組みはよく分からないがショック死なんて言葉も知っているから、いくら傷が治ったとしても痛みで死ぬのではないかとにわか知識で考えてもしまう。

 リオの分かっていない宣言をほたるも素直に受け取ったらしく質問攻めをやめ、リオの髪をさわさわと撫でるようにする。

「あんちゃん、ここどこだろ? 何でおいらもあんちゃんも、穴蔵みたいなとこにいたのに海見てんの?」

「……神器だよ」

「じんぎ?」

「特別な力の宿ってる道具のことだって……。その力できっとここに飛ばされちゃったんだよ」

「火を出す剣とか、あんちゃんの刀とか?」

「そう、僕の澄水――澄水?」

 ふとリオは腰に手を当て、そこに刀がないことに気がついて体を起こしかけ、全身が痛んで元のところへ体を戻す。

「あんちゃんの刀ならあるよ? これ、近くに一緒に落っこちてたから拾っといた」

 体の上へ刀を置かれてリオはそれを握り、横になったまま刀を抜いた。

 その刀身を見て目を大きくする。

「……澄水」

「ちょーすい?」

「これ……違う刀だったのに、どうして……あれ、澄水の残骸がない……? でもこれが澄水だから、そしたら宗吉さんにもらったのはどこに……あれ……? でもこれ、澄水……?」

「あんちゃんどうしたの?」

「よく分からなくなって……」

「ふうん……。綺麗だな、その刀」

「……うん、これを直したかったんだけど、直っちゃった……けど」

 目を動かして周囲を見て、どこにもその姿がないと確かめてリオは口をつぐむ。

 澄水が直れば、あるいはそこに取り憑いていた悪霊も戻ってくるのではないかと淡い考えがあった。しかしそうもいかなかった。当然だと思い直して目を閉じる。

「あんちゃんどうしたの? けど……って何?」

「いや、別に……いいんだよ」

「……あんちゃん、寂しいの? 何かそんな顔だった」

「……そうかも。でも、いいんだよ。僕のろくでもない師匠がね、言ってたんだ。

 執着していいのは今だけだって。だからいいんだよ。寂しいけど思い出だってちゃんとあるんだし……」

「じゃあおいら、あんちゃんの隣にいてやるよ。今はおいらがいるから。だろ?」

「……そう」

「何だよぅ、その言い方」

「はいはいありがと、どうも……海でも見てたら?」

「海なんか見飽きてらぁ」


 そういえば――とリオは思う。

 ほたるは人懐こい性格で、その口調はぶっきらぼうな、リオのイメージをする江戸っ子のものに思える。

 中身はそこそこ可愛らしいお子様だが、どこか無迅と被るところが見え隠れしてしまう。

「あんちゃん……腹減った。もう団子ないの?」

「……そう言えば僕もお腹減った。漁師の息子なら魚とか獲ってきてよ」

「おいら息子じゃなくて娘だい」

「ああそっか――えっ、そうだったの? 嘘だあ」

「何だよぉ! ほんとだ! 見るか、女だって!」

「いや見ないよ!? 女の子なら尚更そういうこと言っちゃダメだからね!?」

 衝撃発言に狼狽えている内にリオはだんだんと体の痛みを忘れていた。


 ようやく手元に戻ってきた愛刀の乱れ波紋をリオは見つめる。

 その刀身の向こうから怪訝な膨れ面をするほたるに気づいて苦い笑みを返した。


 この次はほたるの故郷へでも向かうのだろうと思った。

 五体満足になり、念願であった愛刀を取り戻し、しかしもう悪夢を見ることはない。

 今度はどんな景色を見ることになるんだろうかと少し想像しようとしたが乏しい想像力では何も分からなかった。



 <人斬り無迅と悪霊の影・了>

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